第20話 学校でのキス

「瑠衣姉、大丈夫? ちょっと深呼吸しよ? ほら、吸って、吐いて」


 空き教室を出てすぐの曲がり角の先。


 人気のない渡り廊下付近で、俺は引っ張って来た瑠衣姉を落ち着かせることにした。


「ひっ……ひっ……ふー……! ひっ……ひっ……ふー……!」


 彼女はまあ、こんなありさまだ。


 ラリった顔で虚ろな目になり、なぜかラマーズ法なる呼吸方法を使いだす始末。


 混乱してるのは、火を見るよりも明らかだ。


「瑠衣姉、そうじゃなくて深呼吸してってば。落ち着いてよ。ここに八女先生はいないからさ」


「八女先生……いない……?」


「うん。誰もいないよ。俺だけだからね」


 優しく言うと、瑠衣姉は正気を取り戻してくれた。


 辺りを見回し、俺の顔を見ると、実家に帰ったみたいな安堵した表情を見せる。


「りん君……。私はいったい何を……」


「何をって……。そこまで? 今さっきまで八女先生に瑠衣姉が恋をした時の気持ちの説明をしてもらってたんだけど」


「あ……。そうだった。それで私は冷静さを欠いて……」


「俺もちょっと無茶振りしすぎたかな? そういうの、瑠衣姉そもそも苦手そうだもんね」


 俺のセリフを受け、瑠衣姉は少し声のボリュームを大きくさせ、「苦手だよ!」と主張してきた。


 それから、やや顔をうつむかせ、今度は小さめの声になり、


「……でも、私は……協力してくれるりん君のためにも頑張りたくて……」


 なんて言ってくれる。


 瑠衣姉はいつだって一生懸命だ。


 俺はそんな彼女の姿を見て、呆れるような、けれども決してバカにしてるわけではない笑みを浮かべた。


「それを言ったら、俺だってそうだ。俺も瑠衣姉の力になりたかった。なりたくて、こんな無茶なこと提案しちゃったんだよ。ごめんね」


「り、りん君は謝らないで? 情けないのは歳上な私の方なのに……」


「ううん。人には向き不向きがあるから」


「向き不向きはあるかもしれないけど……! けど……年齢相応に色々経験できてたら……免疫があったら……ちゃんと八女先生にもアドバイスしてあげられてたんだと思う」


 それはまあ、そうだろうな。


「私、自分で自分のことが嫌になる……。りん君にも迷惑かけて……」


 シュンとする瑠衣姉。


 学校の中で、女教師が制服を着た男子生徒の前で落ち込んでいる。


 その絵面は、きっと本来なら逆だったんじゃないかと思った。


 悩み事を相談する男子生徒と、それを大人の余裕で聞き受ける女教師。


 大抵はこれだろう。今の俺たちは、その『大抵』からかけ離れている。


 でも、それでいいと思った。


 いや、それだからいいのだ。


「瑠衣姉?」


「……?」


 俺の声掛けに、瑠衣姉は軽く顔を上げて反応する。


 俺は続けた。


「瑠衣姉はさ、何でもそうだけど、色々経験してる人の方が偉いと思う?」


「それは……うん。偉いと思うよ? 知ってるってことだから」


「恋愛にしてもそうだと思う?」


「うん。経験してる方が楽しませてあげられるし……」


「楽しませてあげられるって何?」


「へ……?」


「昔の彼女とのデートを思い出して、女の人はこういう場所で喜ぶからって、今の彼女にもそれを適用して楽しませるとか、そういうこと?」


「え、えと」


「それとも、プレゼントにはこれを渡しておけばこういう女の人は喜ぶから、とかそういう知識を備え付けてる方がいいってことかな?」


「あ、あの、りん君……?」


「俺は全然それが良いとは思えないんだけど」


 つい強めの口調で言ってしまった。


 瑠衣姉の瞳を見つめて、真っ直ぐに。


 もしかしたら怒ってる風に捉えられたかな……?


 瑠衣姉は気圧されたみたいに、目を軽く横へ逸らした。


 だから、俺は正直に謝った。


「ごめん。怒ってるわけじゃないから」と。


「けど、これだけは聞いて? 瑠衣姉」


「う、うん」


「俺は、恋愛に関して言えば、経験してる人が何でもかんでもいいってわけじゃないと思ってる」


 真っ直ぐ見つめる俺と目を合わせるのが恥ずかしいのか、瑠衣姉は若干キョどり気味に瞳の先を下へやったり、左へやったり、俺と合わせたと思えばまた下にやったりした。


 そして、小さい声で、


「そ、そうなのかな……?」


 と控えめに返してきてくれた。


 俺は頷く。そうだよ、と。


「確かに恋人とデートするのが初めてだったら、確実に満足のいくデートコースなんて選べないかもだし、もしかしたらそのデートは失敗しちゃうかもしれない」


「……失敗……」


「でも、それでいいんだ。失敗したら、その人との次のデートに活かせばいいわけだし、一回きりのデートでの失敗で別れることになったり、嫌われるようなことになれば、それはその人のことが本当に好きってわけじゃないんだと思う。偽物の恋愛だよ」


「偽物の……」


「そうじゃなく、本物の恋愛なら、失敗も成功も、何もかも思い出にしていけばいいだけだと思う。未経験でいいんだ。いや、未経験だからこそいい」


 自分でもわかるくらいの熱弁。


 瑠衣姉の視線の先はやがて定まり、俺の瞳を見つめながら、その目は見開かれた。共感してくれたんだろうか。それとも彼女の励みになったりしたんだろうか。


「だから俺は、瑠衣姉が何も経験したことが無いって聞いて、心の中では正直嬉しかった。だって、それはまだ一つも無い恋の思い出を俺が、俺だけが作れるってことだし。瑠衣姉をその……ひ、独り占めできるってことだから!」


「り……りん君……」


 恥ずかしい。恥ずかしくなってきた。


 体温も上がってる。きっと顔は赤くなってるはずだ。それもまた恥ずかしい。


「て、てか、これ、もしかして前も言ったかも……! い、いいや! まあ、とりあえず俺はそう思ってるから! 何でもかんでも経験したいとか、そういうの一切思わなくていいからね!」


「……ふふっ。うんっ」


 優しい笑顔を浮かべながら頷く瑠衣姉。


 その表情には、安堵と、それから幸福感のようなものが見て取れた気がした。


「瑠衣姉の経験は……! 初めては……! ぜ、全部俺のものだから!」


 確実に雰囲気に酔ってしまっていた。


 ダメだ。


 家でならまだしも、人気のないところとはいえ学校でこのテンションになるなんて。誰かが見てたらどうする。


「……ありがとう、りん君。なんか……また私元気付けられちゃった」


「任せて! 瑠衣姉を元気にさせてあげることは、小さい頃から俺の生きがいだったので!」


「うふふっ。生きがい、かぁ。えへへっ。そっかそっかぁ」


「な、何……?」


「ううん。何でもないよ。別に何でもね~。ふふふっ」


 明らかに何でもないことなかった。


 嬉しそうに、幸せそうにニマニマする瑠衣姉。


 体も左右に揺れてる。


 む、胸も……。い、いや、こんな時に俺は何を考えてんだ!


「ねぇ、りん君」


「は、はい。何でしょう?」


「ちょっとこっちに来て?」


「え。こ、こっち?」


「うん。私の方、近付いてきて欲しいな」


 何をするつもりだ?


 わからないけど、とりあえず言われた通り近付いた。


 瑠衣姉との距離が縮まる。


 心臓がドクッ、と強く跳ね始めた。


「私、言った通り何もかも経験が無くて、全部が初めてなんだけど……ね?」


 知ってる。


 それはあなたが確かに自分で言ってたから。嘆くように何度も。


「この初めても、りん君に受け取って欲しいな」


「……? え――」


 疑問符を浮かべた刹那だった。


 瑠衣姉の唇が俺の唇に重なる。


 呆気に取られ、俺は何も言えないまま、ただされるがままになっていた。


「っは……」


 唇が離れる。


 俺の心臓は破裂寸前。


 ただ、それは瑠衣姉の方も似たようなものと思って間違いない。


 彼女は真っ赤な顔で、耳まで赤くして、それでも強がるようににこっと笑んだまま、いたずらにこう言ってきたのだ。


「学校でのキス……初めてだね」


 俺は頷いた。


 それから、今度は俺の方からキスを仕掛けた。


 絶対に誰にも見られちゃいけない。


 見られちゃいけない場所でキスをする。禁忌を犯す。


 でも、それは確かな青春の一ページとして、俺の中に刻まれた。


 大好きな女の人とこうして学校で唇を重ねた、と。

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