第4話 『こんいんとどけ』と動き出す恋

『ヤだぁ! お姉ちゃん、大きくなってからじゃなくて、今僕と結婚してよぉ!』


 俺がそうやって駄々をこねた時、いつも瑠衣姉は笑顔ながら困った色を顔に浮かべていた。


 決まって彼女が言ってたのは、俺がまだ小さすぎるということ。


 幼過ぎて、国の法律上結婚なんてできない。


 それを優しく、当時の俺にもわかりやすく教えてくれていたものだった。


『じゃあね、りん君が大きくなった時、まだ瑠衣お姉ちゃんのことを好きでい続けてくれてたら、その時にもう一度告白してくれる? お姉ちゃん、また考えるから』


『大きくなったらって、僕が何歳の時……?』


『そうだなぁ…………二十歳くらいかなぁ?』


『二十歳ってことは……一……二………………遅いよぉ! 待てない!』


『だーめ。ちゃんと待つの』


『ヤだぁ!』


『待てない男の子とはお姉ちゃん結婚できないよ? りん君が待てないなら、お姉ちゃんりん君と結婚しない』


『っ~……! ……じゃあ待つ! 待つから、瑠衣お姉ちゃん、絶対僕が二十歳になったら結婚してよ!?』


『ふふふっ。うんうん。わかったよ』


『絶対! 絶対絶対ぜーったいだからね!』


『はいはい』


 そうやって言いながら微笑み、優しく頭を撫でてくれていたのに……。




「ひっぐ……えっぐ……りん君……りん君……。お姉ちゃんと…………してぇ……結婚……してよぉぉ…………ぐすっ」




 ……どうしてこうなったのか……。


 土曜日の昼下がり。俺の部屋にて。


 仕事が休みの瑠衣姉は、俺の両親がちょうど出かけたタイミングを見計らって家へ押しかけて来た。


 面倒ではあったし、何をされるかわからないものの、当然こっちも無視するわけにはいかない。


 仕方なく玄関の扉を開けると、唐突に瑠衣姉は挙動不審になってこんなことを提案してきた。


『りん君? 今なら、この紙にお名前とハンコを押すだけで、美味しいごはんを作ったり、お部屋のお掃除をしたり、可愛い見た目で傍にいてくれたりする女の人が手に入るんだけど、どうかな?』


 そのお名前とハンコを押す紙というのは、言うまでもなく婚姻届であり、可愛い見た目で傍にいてくれる女の人ってのも、言うまでもなく瑠衣姉。


 俺は目元を抑え、深々とため息をつきながら一言。


『間に合ってます』


『何でぇ!?』


 瑠衣お姉さんは、歳相応に綺麗なコンサバ系の服に身を包み、本来とても俺なんかじゃ手の届かない存在だっていうのに、わかりやすく動揺して、一瞬で涙目になられる。


 心苦し過ぎて、『すみません。嘘です。全然間に合ってません』と言いかけたものの、俺も相手に乗せられるほどバカじゃない。


 ここでこっちが瑠衣姉の提案を素直に受け入れてしまえば、瑠衣姉は未成年の男子(教え子)に手を出した淫行女教師に成り下がり、教育界、いや、一般社会から追放されてしまう。


 それだけは何とかして避けないと。


 ていうか、本来ならそれは俺が心配することじゃなく、瑠衣姉自身が気を付けないといけないことだ。


 つくづく自分の憧れていた初恋の女性が残念な美人お姉さんになってることを実感する。


 まあ、そんな瑠衣姉でも俺は変わらずに好きなんだけどさ……。


 やれやれだ。嬉しいのか、呆れてるのか、どっちかわからない。感情がぐちゃぐちゃだよ、本当に。


「……あの、瑠衣姉? お願い、泣き止んで?」


 部屋の中心に置いているちゃぶ台に顔を突っ伏しながら泣いている瑠衣姉。


 そんな彼女の頭を優しく撫でてあげつつ、俺は言うのだが……、


「ぐすっ……。じゃあ……泣き止んだらりん君、お姉ちゃんと結婚してくれる……?」


 残念ながらブレてはくれない。苦笑を浮かべるほかなかった


「あのね、瑠衣姉。これは俺、たぶん何度も言ってるんだけど――」


「また法律!? 法律の話!? 二十八歳の女が十七歳の男子高校生とは結婚できないっていう悪法の!」


 悪法て……。


 呆れつつ、俺は頷く。


「そうだよ。その悪法のこと。でも、悪法でも法律は法律だから。瑠衣姉、俺と結婚なんてしたら完全にお縄なんだよ? 牢屋に入れられるの。学校の先生もできなくなるし、おじさんやおばさんだって絶対悲しむ。得策じゃないんだって」


「私のお父さんとお母さんなら大丈夫。ちゃんと話せる男の人がりん君だけってこと相談したら、『じゃありん君のお嫁さんになりなさい』ってむしろ背中教えてくれたから」


「いやいやいや、待ってよおじさんおばさん。何自分の娘を犯罪者に仕立て上げようとしてるんですか。娘さんが牢の中に閉じ込められてもいいって言うの……!?」


「法律なんてバレなきゃ大丈夫だよ。ほら、『赤信号、皆で渡れば怖くない』って言うでしょ? それと一緒だと思うんだよね、うん!」


「全然一緒じゃないし、『うん!』じゃないよ。瑠衣姉、その倫理観でよく学校の先生になれたよね。すごいよ、ほんと」


「でへへぇ~。りん君に褒められたぁ~。えっへへ~」


「一ミリも褒めてないから……」


 とろけた表情で幸せそうにする瑠衣姉。


 なんというか、昔に比べてかなり頭の方も緩くなってる気がする。


 ……違うな。普段と比べても、か。


 教室で見る瑠衣姉は、聡明で美人な完璧女教師だ。


 それが俺と二人きりになればこのザマ。


 たぶんこれが素なんだろうけど……ちょっといつもとのギャップが凄すぎて笑っちゃうレベル。もう少し歳上の威厳みたいなものを昔みたいに見せて欲しい。


 ……いや、やっぱり嘘。このままでいい。


 これはこれで……可愛いし。


「それで、瑠衣姉今日は何しに来たの? 見たところ、俺の父さんと母さんが出掛けた隙に家へ来てくれたみたいだけど」


 話を元に戻す。


 俺が問うと、瑠衣姉はもじもじして、上目遣いで返してくれた。


「……よ……夜這い……?」


「……」


 何も言わない。


 何も言わず、俺はただ深く息を吐いてうつむく。


 そして、瑠衣姉同様赤くなっているであろう顔を上げ、


「瑠衣姉、暇なの? せっかくの土曜日なのに」


「ううん、暇じゃないよ。お姉ちゃん、今日はりん君のこと落とすつもりで来たんだもん」


「それ、暇ってことだよね?」


「だから、暇じゃないってば。素直じゃないりん君を落とすっていう大事な使命があって来たんだし」


「……(汗)」


「婚姻届のハンコも押させるつもりだしね、今日」


「押しません。押せるわけないでしょうが、まったく」


「じゃあ、どうしたら押してくれる?」


「どうしたって押さない。聞いてくれるだけ無駄だよ」


「なら、仮定の話。もしもでいいから、こんなことが起こったら押すかな、みたいなの教えて?」


「えぇ……」


 いったん考える仕草をするものの、答えは一瞬で出た。


 俺が瑠衣姉と本気で結婚するルートなんて、これ以外に思い付かない。


「それは……まあ、俺が二十歳になったら……?」


「えぇぇ! でも、そしたら私三十一歳だよ!? い、今よりももっとおばさんに……」


「三十一はおばさんじゃないよ。てか、俺は瑠衣姉が何才だろうと別に――」


 言いかけて、ハッとする。


 この先のセリフを言い切ってしまえば、それはもうほとんど告白だ。反射的に自分で自分の口を塞いだ。


 だけどそれを見て、瑠衣姉は顔を赤くさせながらニヤニヤしてる。


 なんとなく癪だった。


 俺は咳払いし、強がって見せた。


「……別に、綺麗だと思うよ? 瑠衣姉は何歳になってもさ。だから、三十一で恋人がいなかろうと、彼氏として立候補したい人は山ほどいるだろうから安心してもいいんじゃないかな?」


「……ふふっ」


 ニヤニヤから、なぜかクスクスと笑い出す瑠衣姉。


 俺はそんな彼女に対し、焦りながら問い詰める。何が面白いのか、と。


 すると、瑠衣姉は突然俺に抱き着いてきて――


「それでも、だめ」


 耳元で囁くように甘く言ってきた。


 全身へ溶けるような快感が走る。


 脳が一瞬本気で痺れた。くらっとしてしまう。


「りん君には、今すぐ押してもらう。婚姻届」


「っ……。だ、だからそれは――」


「はい。これ」


 密着した状態で見せられた紙。


 それは、さっきのものとは違い、折り目が付いていて、少しだけ日焼けした古めの紙だった。


「こ、これ……」


「りん君、今すぐこれに名前とハンコを押してくれる?」


 こんいんとどけ。


 遥か昔、俺が瑠衣姉に名前を書くよう頼んでいた手作りのものだった。

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