第11話
それから数日たった。
まだ大学は夏休みが続いているけれど、塾で教えている中学生たちがもう夏休みではないので週三回の通常授業は始まっている。だが大学の授業がないから、昼間は暇でしょうがない。
実は先日水族館に行ったときに菜穂から聞いた横井という男のことで、その時ふと気になったことがあった。
だが、当日は言い出さないまま終わった。菜穂の話では、横井という人と菜穂はまだ友だちという域を出ていないようだったからだ。
だが、「それだけで終わらない予感がする」などと、聞き流せないようなことも菜穂は言っていた。
だいたい毎日、俺は昼近くまで寝ている。塾に行くのは夕方だ。
暇を持て余しているだけに、頭の中ではいろいろなことを考えてしまう。
菜穂はどうしているだろうと思って、LINEしてみた。
――[毎日? 忙しいよ]
――[なんで?」
――[だってよったんが毎日LINEくれるし]
――[ときどき電話かかってくる]
――[よったん?]
――[横井さんの名前がようすけだからよったん]
もうそういうふうに呼んでいるらしい。
――[桜裕って書いてようすけ]
――[だからよったん]
珍しい読み方だけど、そんなことはどうでもいい。
――[それにもう九月になってから五回も会った]
まじか……そう思って俺は、思い切って切り出した。
――[今から電話していいか?]
――[いいけど]
俺は開いている画面のまま右上の電話機のマークをタップし、LINEの音声通話を使って菜穂に電話した。
「ごめんな。突然」
「うん」
「でも、この間、水族館に行ったときから気になってることがああだ」
「なあに?」
「その前に、よったんとは」
俺までもその呼び方で呼んでしまった。横井という人とか言うのもめんどくさいからだ。
「その、なんだ、いわゆる恋人同士になったんか?」
ほんの短い間、菜穂は考えているようだった。
「うん、はっきりと付き合ってほしいとか言われてないんけど、なんか最近は既成事実的にそげな感じになっちょう。よったんのご両親も、私のことよったんの彼女だと思ってるみたいだし」
「そっか」
俺は息をのんだ。そして言った。
「状況的にひっかかるのは、よったんが前の彼女と別れてすぐだってことだがね」
「でも、前にも言ったけど、その彼女の方からお別れを言ってきたって言ってたに」
「だからこそなんだよ」
「え?」
「もしよったんが菜穂のことが好きになってしまって、それで前の彼女に自分から別れてくれって言ったっていうならまだわかるけど、でもそうじゃないんだろ」
「うん」
「ちょうど菜穂が現れたのと同じタイミングだから、こうやって菜穂と急接近し始めたのは菜穂の存在で前の彼女を忘れようとしてるからと思ったら考え過ぎかな?」
「え、でも、知り合ったのはまだ彼女がいた時で、だから別れたのは私と知り合った後だから」
「いや、そうかもしれないけど、でも言葉は悪いけど今の彼、菜穂のことを別れた彼女の代用品みたく考えてないかなあ? だって、菜穂と知り合った時、彼女とはもう別れるのが時間の問題らしいって菜穂も言うてたが」
「うん、どうかなあ。でも、いろいろありがとうね。心配してくれて」
菜穂がにこやかに微笑んでいるらしいことは、その声でわかる。
とりあえず言いたいことは言ったので、あとは二、三雑談して電話は終わった。
一週間後くらい、また菜穂から連絡があった。
――[なんか昼間は暇してるって言ってたね]
――[ああ]
――[じゃあ、また遊びに行くから]
――[どこへ?]
――[ひろくんのアパートにきまってる]
「また」と言っているように、菜穂が俺のアパートに来るのは初めてではない。もう何回も来ている。
さすがにまだこちらに出てきたばかりくらいの時に、部屋に遊びに来ると菜穂が言った時は驚いた。
一人暮らしの男の部屋に、女の子が一人でのこのこと遊びに来るなどどうかと思うけれど、菜穂はあまりそんなことを気にするタイプではないようだ。
それを言うと「だってお友だちだから」で済んでしまう。
たしかに古い付き合いだし、昼間に来て明るいうちに帰っていく。
今回も俺は夕方から塾のバイトがある日だったので、そんな長い時間はいっしょにはいられない。
一度冗談で、「もし俺が襲ったらどうする?」なんて聞いたら、「ひろくんはそんな人じゃないことは分かっているし、信じてるから」でかわされた。
たしかに俺は部屋に女の子と二人きりになっても何もできないし、相手が菜穂ならなおさらだ。
もし俺が変な気を起こしておかしな行動に出たら、俺の菜穂への想いはおろか友だちという関係さえ崩壊してしまうことはわかっている。
菜穂の方もそれを見透かして、警戒心もなく俺の部屋に来るのかどうか、そこまではわからない。
だが少なくとも菜穂には変な気持ちは起こせない。そんな対象ではない。
もしこれが泊まっていくなんてことになったら俺も自信はないけれど、さすがにそこまでは菜穂は言わない。
やはり菜穂ははっきり言って無頓着という性格なのか、だからこそよったんの家にも知り合って間もないのにのこのこと出かけたのだろう。
この日も途中のコンビニかなんかで買って来たらしいケーキを手土産に、菜穂は現れた。
しばらくは座卓テーブルをはさんで、コーヒーを入れてケーキを食べて話したりしていたが、思い出したように菜穂が言った。
「この間の電話でのことだけど」
「うん」
例の俺の心配事の話のようだ。
「よったんに聞いてみたに」
「え? まじ? 聞いたの? そげなこと本人に直接聞くかね、ふつう」
「でも、笑ってたよ。で、そんなこと心配しなくても大丈夫だから、信じてほしいって」
「で、どげする?」
「もちろん、信じる」
たしかに菜穂はそういう子だ。こうしてこの部屋に一人で来ているのも、俺を信じているからと言っていた。
人を疑うということができない、それだけピュアなんだと思う。
「それでね、よったんにはそのことは高校時代からの友だちが心配してたんだって言ったら、すごく友だち思いの人だね、いい友だち持ったねって言ってくれた」
「俺が男だってことも言ったんかよ?」
「言ったよ。別に気にしてないみたいだった。で、いい人そうだから会ってみたいってまで言ってた」
「まあ、俺はいいけど」
俺もよったん…横井
ただ、今回のいきさつで少なくとも人柄は伝わってきた。
俺が菜穂や彼に対して持った疑念はどうも邪推だったようだ。もし図星ならそれを指摘されて萎縮してしまうかむきになってに否定してくるだろう。そのことを菜穂に耳打ちした俺のことをいい人そうだなどと言うはずがない。
それなのに紳士的に菜穂に「自分を信じてほしい」と力強く言ったそうだけれど、それを聞いてもしかして菜穂を本当に幸せにできるのはこの男かもしれないと俺は思ってしまった。
どうやらもう菜穂は、手の届かないところに行ってしまいそうな気もする。
ずっとそばにいて仲良くしてねと菜穂は言うしその通りなんだろうけれど、俺の想いが届かない以上、なんだか今の俺は菜穂の保護者ぶっているような気になってしまっているのが自分でも感じられた。
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