第3話 ルクレツィアとシーザリオン

 帝紀28年(アウグス王16年)、ウェルス。

 ウェルス神聖帝国はアルティミシア大陸史上最初の統一帝国である。初代皇帝シーザリオンが登極したのが帝紀35年、この年にシーザリオンはそれまでの主君であった「都市国家ウェルス」のアウグス王に強いて禅譲させ、その翌年には旧王の居宅を襲わせて抹殺。これは旧勢力を担いでテロリズムを企むものどもを絶やすための措置ではあったが、それ以前のシーザリオンがどちらかと言えば穏健路線をたどり、手を血塗ることを好まなかったこととは対照的な事績であるように見える。


 その性格が変貌した転機というべき事件がこの28年、公女ルクレツィア謀殺事件である。史書によれば女神グロリアに拝謁したシーザリオンは大陸統一のために女神の力を求め、容れられるが代償として最愛の公女ルクレツィアを殺せと言われる。私人としての愛と世界全体への責務のはざまで揺れるシーザリオンだったが信任する副官ルキウスの叱咤を受けて自らルクレツィアを殺したのだといい、それ以後シーザリオンは大陸統一へ雄飛の翼を手に入れるが、彼の性格は少しずつ陰鬱なものへと変わっていったのだという。


「まーこのへんは歴史書どおりの話なわけだが……、ここでルキウスがいなかったらルクレツィアは死なない、と」

 ウェルス城下のカフェで、新羅辰馬と魔王ギンヌンガァプはやや声を潜めた。二人がやたらに目立ってしまっているのはあまりにも傑出しすぎた美貌による。服装を当世風になじませはしても、素の顔をそのままにしているために衆目を集めてしまっていた。辰馬もギンヌンガァプも皇帝であったり魔王であったり、数千数万の臣下の熱狂的な視線にさらされることに慣れた存在だが、なにぶん今の立場は公女の命を狙う暗殺者である。堂々とはしづらい。


「そういうこったな。なんで、死獄王の配下はルキウスを殺しに動く。死獄王の力は地獄にあって無限といっていいが、現世界では死が常態化した環境——戦争や疫病が蔓延した状態だな――になってないと自在ってわけでもねえ。だがルクレツィアが生き延びてウェルスの混迷が長引くことになったらこのさき、大戦争が起こる」

 肩身の狭い感のある辰馬に比べ、悠々としているのが魔王ギンヌンガァプである。死ぬとか殺すとか、物騒な言葉を吐きながらも優雅さを失わないのはさすが魔王のカリスマだった。もとより死ですらも彼の領分であるのだ。ただ、生死を裁量するのは彼であっても、死後の魂を裁量するのは彼ではない。


「そーならんようにルクレツィアを殺さにゃならん、か。すげー複雑な気分……」

「問題ねえよ。アレはルクレツィアだがルクレツィアじゃねえ、ニンマハだ」

「ルクレツィアの中に眠ってるニンマハを起こせばこの時代のミッションは達成、か。そんな簡単にいくんか……?」

「行く。あのバカ妹は俺にベタ惚れだからな、一発よ」

「けど、ルクレツィアとしてはシーザリオンに惚れてるんだろーしなぁ……」

「お前さんは心配性だよなぁ、辰馬。とにかく往くぜ」


 ふたりの美影身は連れ立ってカフェを後にする。店員と言い客と言い、外からふたりの姿を眺めてうっとりしていた人々も含めて100人近くが、立ち去った銀髪の美少年と美青年にほぅ、と詠嘆のためいきをこぼす。


 ルクレツィア・ユリウスの居宅は居住区街のなかほどにある。将軍として今を時めくシーザリオン・リスティ・マルケッスス・ザントライユの恋人であれば城舗であったり坐賈たちならぶ商店街、あるいは風光明媚な自然公園などに近く居を構えられそうなものだが、そうした特権を活かそうとは、この家の主は思わないもののようだった。


「ここか……。歴史に名高い公女ルクレツィアの居宅を、まさか自分が尋ねることになるとはなぁ」

 と、辰馬が門前で嘆息する間もあらばこそ。ギンヌンガァプは平然とした顔で門をくぐり、ドアをノックする。さすがに慌てた辰馬が魔王の肩をつかむが、ギンヌンガァプのほうは意に介したふうもない。


「はぁい、どなたでしょうか?」

 おおらかといおうか、家人は気を悪くしたふうもなくドアを開けて、ふたりの前に姿を現した。淡い青髪に赤い花の髪飾りを彩った、二十歳前後とおぼしき女性。すとんとした、緑のワンピース風の衣装越しにも豊満な肢体は隠しようもないが、全体としての雰囲気が嫣然というより愛くるしいものに見えるのは青く明るい瞳と利発で快活そうな表情のおかげに違いない。後世帝紀1800年代に辰馬が肖像画で見た公女ルクレツィアはもっと愁いを帯びた華奢で大人しそうな姿であったが、そもそも肖像画などというものは本人を無視して描かれることが多いものだ。


 それはさておき。

 魔王ギンヌンガァプは一瞬、動きを止めた。と思った次の瞬間、満身の力でルクレツィアを抱きしめる!


「!? な、なに? なんですか、あなたは!?」

「なんですかじゃねーだろぉが! ニンマハ、俺だ、テメェのご主人様だ! いつまでもそんな人間の器で遊んでんじゃねえ!」

「な、なにを言って……!? 離してください、人を呼びますよ!」

 ルクレツィアの方も渾身の力でギンヌンガァプを振りほどき、突き飛ばす。拒絶された魔王は信じられないとでもいうように放心し、ルクレツィアを見上げる。公女の瞳には魔王への思慕など当然、微塵もなく、突然抱き着いてきた不埒者への怒りが燃えていた。傍らで見ていた辰馬としては天を仰ぐほかない。


「あなたがたは……?」

「……ええと、おれはノイシュ、こいつはガァプ。なんか、このバカが先走ってすんません」

 辰馬はとっさに本名を隠した。ここが辰馬にとっては過去の世界であるとして、未来人である自分の干渉は少ないほうがいい。不信感と猜疑心に満ちた瞳で睨みつけてくるルクレツィアを前に、辰馬はたじろぎながらも説明と釈明の言葉を紡ごうとする。


そうこうする間に足音が近づく。ギンヌンガァプのせいで起きた騒ぎを聞きつけて警邏の卒がやってきたのかと思ったが、現れたのは白衣に金髪、美丈夫ではあるがその表情は険しく沈鬱な青年であった。


「シーザリオン……」

 ルクレツィアが青年に向けてそうつぶやき、辰馬はそこでこの青年が「祖帝」シーザリオンであるという事実を知る。一瞬、慄然となったのはさすがに相手が伝説として巨大すぎる存在であるからだ。ウェルスを都市国家から大国にまとめあげ、一代にして史上空前の大帝国を築き上げた英傑。かの祖帝は戦乱あくなき世界に学校を起こして民を教化し、医学を広めて死を遠ざけ、兵法を創出して戦場に秩序をもたらした。法を整備し度量衡を統一し、人類文明は彼に始まるといってもいい存在。辰馬はもとより歴史好きとしてシーザリオンの事績に触れ、のち皇帝として為政者としての祖帝にふたたび触れることになったから、祖帝を畏敬することひとかたではない。正直なところ、女神グロリアの御稜威すら恐れることなく女神を打倒した辰馬が、ここで雷に打たれたように放心してしまった。


「……? 彼らは?」

「よくわからないわ。なにか、話があるようだけれど……」

「ふむ」


 ということで、ルクレツィア宅の居間に新羅辰馬、魔王ギンヌンガァプ、シーザリオン・リスティ・マルケッスス・ザントライユ、ルクレツィア・ユリウスという、歴史上豪華すぎる顔ぶれが頭を並べることとなる。人類最初の帝王とその恋人、対するに神話の時代最後の覇王と、さきの世界の魔王。歴史家が見れば随喜の声をあげて失神するに違いない。


「いちいち隠すのも面倒くせえ、正直に言う。俺は魔王ギンヌンガァプ、このアルティミシア世界が始まる前の世界、トゥルクティアの魔王だ」

「魔王?」

 ギンヌンガァプの言葉に対して、シーザリオンの反応は鈍い。この時点でまだ創世女神グロリアは眠っており、グロリア神教は世界宗教どころか始まってもいない。グロリアが生み出した魔王殺しの勇者という機構は発動しているがそれは世界のどこかにぽつんと生まれてはその都度ひっそり魔王を打倒しているだけの存在にすぎず、魔王というものもあまり人々に周知されている存在ではなかった。


「まあ魔王だなんだはおいといて……、おれらは未来、いや、過去とか未来とか関係ない世界? から来た。輪廻の環から解脱した存在だ」

 辰馬もここは正直にそういうが、やはりシーザリオンは訝るような視線を向けてくる。当然だった。死を超越した先で辰馬の容姿は肉体の最盛期である16歳当時に固着している。ギンヌンガァプにしても25歳以上には絶対に見えず、しかも二人そろって男娼といってもいいようななよやかさ、手弱女といってもいいほどの美男子である。威厳とか荘厳とか、そうした重さには縁遠い。


「きみのような少年が? 少年特有の夢想ではないのかな、そちらの青年も私より年上には見えないが」

「見た目で人を量るかよ。存外大したこたぁねぇな、人類史上最初にして空前の帝王も」

 シーザリオンの言葉に冷笑を返したのはもちろんギンヌンガァプである。ちらと一瞥を返す祖帝に、銀髪の魔王は獰猛な笑顔を向ける。


「まったく度し難いよなぁ、人間はよ。外見の威ってやつが必要なら見せてやるぜぇ!」

 続けて言うなり、魔王は邪悪で邪悪な、竜のごとき姿に身を変じた。ルクレツィア邸はたいして大きくも広くもない。竜の巨躯に耐えられず粉砕されるのが当然なのだが、空間の物理法則が捻じ曲げられているようでまぎれもなくこの狭い空間を満たしながら空間を破裂させることはない。瞳は稲妻、吐息は紅蓮、竜は俊敏にシーザリオンへとおどりかかり……、そして辰馬に鼻先をはたかれてもとの姿に戻る。


「ってぇ!?」

「なにやってんのお前は。さっきからルクレツィアに抱きつくわ祖帝を殺そうとするわ、なにがしてーんだよ、ばかたれ」

「あぁ、うん。やっぱ人間見てるとイライラするっつーかなぁ、俺は敵対者なんで。世界を救いたくはあっても人間と仲良くしたくはねえっつーか」

「めんどくせーやつ。とにかく、おれに任せ。……ってわけで、今の見ればおれらが超越的な力の持ち主だってことはわかってもらえたと思う」

「あ……ああ……。確かに、呪文の詠唱も身振りもなく、あんな一瞬での変化魔法、そしてこの狭い部屋を亜空間につなげる力、あれは尋常の魔術師の技ではない……」

「ん。それで、言わせてもらうんだが。おれたちはあんたらの運命を知ってる。歴史を変えようとしてる勢力がいて、おれたちはそいつらから歴史の本道を守るために来た」

 辰馬がそういうと、シーザリオンははじかれたように頭をあげた。未来に悩みを持つ彼にとって、運命を知るという辰馬は……その言葉が信じるに値するならば……、救世主のように思えたのである。

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