第11話

「ええっ……⁉」

 織風は大きな瞳をぱちぱちとしばたたいた。極北王の正体が看過されているなど、露ほども思わなかったのだ。

「陛下はいつから、お気づきに?」

 偽物を招き入れてしまったことで詔帝が忸怩たる思いを味わっているのではないかと、織風がおろおろとするまでもなかったのだ。愛鸞帝はあっけなく白状した。

「この城にやってきた、はじめから。だまっていてごめんなさい。敵をあざむくにはまず味方からと言うでしょう?」

 愛鸞帝は申し訳なさを含んだ笑みを浮かべる。

「はじめにそなたが城にやってきたとき、西宮妃から賜った耳飾りを証として差し出した。違和感を覚えたわたくしは、その場ではたしかに西宮妃のものだと即答したあとで、同じ耳飾りを西宮妃に献上した記録があるかどうか、昔の記録を調べるよう城の出納係にこっそりと指示を出したのよ。永盛城の購入品や献上品は目録に記帳して、ひとつひとつ出入りを管理しているの。結果、同じ品で該当するものはなかった」

「な……に……」

 おのれが西宮妃の孫の偽物であることが、入城して比較的すぐに露見していたとわかり、極北王は衝撃で顔面蒼白だった。

「偽物だと気づきつつも、なぜ城から追い出さなかったのか不思議かしら?」

 愛鸞帝は極北王の質問をさきまわりする。

「ひとつは、城に入り込んだ目的を探るためよ。うまいこと戸籍の空隙を突く方法といい、事実無根の話でみなを納得させてしまう話しぶりといい、まだ子どものあなた一人でこんなことを考えついたとは思えない。背後にだれがいるのかわかるまで、泳がせておこうと思ったのよ」

 この勝負ははじめから、極北王の負けで決着していたのだ。かたかたと全身が細かく震える極北王は、いまにもがくりとその場に膝をついてくずおれてしまいそうだった。

「それともうひとつは――そなたが真に心を入れ替えて、本気で詔帝を目指そうとするのならば、生まれ変わる機会を与えてあげたいと思ったのです。はじめに城に入り込んだ動機は不純でも、まだ若いそなたを利用する輩が背後にいるならば、その支配から脱却させてあげたかった。立ちなおるきっかけをあげたかったのです。これもなにかの縁だと思ってね」

 今度こそ完膚なきまでの敗北だった。

 正体を看破されていたから、負けなのではない。愛鸞帝はだまされていると知っていてなお、偽物に手を差し伸べた。常人には計り知れない胆力と愛の大きさに比べて、穂楽の人たちを人質に交渉を持ちかけた極北王の、人間性のなんと卑小なことか。だから負けなのだ。

「まあそんなわけでさ。これで謀反は親族内の政権争いじゃすまなくなって、一平民が起こした国家反逆罪に転じたわけだ。重罪に問われたくなきゃ、早いとこ手を引け」

 鷲星の言葉で絶望的な現実を突きつけられ、極北王は床に膝をつき、土下座をするように倒れ伏せた。

「……なぜだ……。なぜ……、私の望むものはいつも手に入らない――!」

 極北王の慟哭が、天井の高い朝堂殿内にこだまする。王は拳をどんどんと床に叩きつけながら、嗚咽を上げてくやしがっていた。

 このままでは手から血しぶきが上がる。なりふりかまわず泣きわめく姿のあまりの激しさに、王を止めなければと織風は心配そうに一歩踏み出したのだが、ほうっておけあるいは様子を見よう、とでも言うように鷲星の腕が伸びてきて制止された。

「他人の戸籍を奪って永盛城に入り込み、さらに城内で妖魔を暴れさせるなど、まだ子どもとはいえ、しでかしたことは深刻そのもの。これ以上、龍尾軍に負傷者が出るまえに、いますぐ妖魔を止めなさい。あとの話はそれからよ」

 極北王が指示に従い、妖魔を止めようとする動きはない。反抗心をたぎらせながら、涙に濡れた目で愛鸞帝をねめつけるように見上げるのみだった。

「陛下!」

 そのとき、珠翡が朝堂殿に飛び込んできた。藍色地で、前垂れに北斗七星が染め抜かれた独特の衣装から、術士と思われる者たちを三人ほど、縛り上げた状態で樹雫が引き連れている。

「……! 鷲星……! あの術士ではないか……⁉」

 三人の術士のうち、一人が顔見知りだと気づいた織風はおどろき目を瞠る。

「本当だ。極北王の仲間だったとはな」

 連行される術士のなかに、李食堂で不吉な予言をもたらした者が混ざっていた。嘘の星読みで民たちを扇動し、愛鸞帝を退位に追い込むことを狙っていたのだろう。

「城内に隠れて妖魔を操っていた術士をすべて捕らえました。いま残っている害虫を駆逐すれば、新たな妖魔が出現することはありません」

「でかしたわ、珠翡。さっそく牢につなぎなさい。極北王に与した者たちも捕らえよ」

「御意」

 珠翡が外に向かい呼びかけると、表で控えていた龍尾軍が部屋にだーっとなだれ込んできた。極北王に付き従っていた武装兵たちが抵抗しようとする姿勢を見せたことで場は一瞬、騒然としたが、

「ここで逆らう者には今後一切、恩赦を検討しない!」

 という愛鸞帝のひと言によりおそれをなしたようで、すぐに勢いがしぼむと、おとなしく兵士たちの縄にかかっていた。龍尾軍の兵士たち、それと珠翡と樹雫が捕らえた者たちを引き立てて朝堂殿を去っていく。「おら! さっさと歩け!」と、珠翡が威勢よく脅かす声が外で反響する。声は次第に遠のいていった。

 頼みの脅迫手段を失い、今度こそ極北王はがくりと地面に顔を伏せた。

「そなたを影で操っている者の正体を包み隠さず話すのならば、減刑を検討します」

 倒れ伏す極北王を見下ろし、愛鸞帝は最後の救済の機会を与えた。

「……そんなものはいない。強いて言うならば、私だ」

 床に近いところからくぐもった声が聞こえる。極北王はゆるゆると頭を上げ、うなだれながら続きを口にした。

「すべて私が単独で企てた計画だ。あとの者は、私が政権を握ったあとの恩恵をちらつかせて、協力するよう取引をしたにすぎない」

「……本当に、子どもにしては頭がまわる。その頭脳をべつのところに生かせていたら、とくやしくてならないわ」

 愛鸞帝の軽い皮肉に、極北王はくくく、と肩を震わせて笑い出した。

「なにがおかしいの?」

「いやはや、子どもにしては、か。その子どもがある人間の人生を丸ごと、経験済みであったとしたらどうであろうと思ったら、おかしくてな」

 極北王の意味不明な言葉に、一同に沈黙が満ちた。

「言い換えようか。私には前世の記憶がある」

「鷲星……!」

 織風ははっとして、鷲星の顔を振り仰いだ。人間ながらにして、前世の記憶を持つ者。極北王がまさか自分と同類だったとはと複雑な気分なのか、鷲星は手でがしがしと頭を掻き乱す。

「天人は前世の記憶を持って生まれてくるようだが、私は人でありながら、前世を記憶したまま生まれてきたのだ」

 極北王はそこで、織風にねっとりと絡みつくような視線を向けた。

「再会してすぐにわかった。魄を欠いたあわれな天人よ。私は前世のそなたを知っている。そしてそなたも、前世の私を知っていた」

 極北王は心臓のあるあたりに手をやった。

「私のここが反応したのだ。私のなかには、そなたの魄の一部があるからな」

 さきほど以上の衝撃に貫かれ、織風ははっと息を飲み込んだ。

「……鷲星以外にも、私の魄を持つ者がいたのか。そんなことって……」

 いつ、どこで魄が分割したのだろう。織風が形のいいあごに手をやり考えていたところで、隣に立つ鷲星の気配が急に変わった。縄張りを荒らす相手を威嚇する獣のような、猛々しい気迫が鷲星の全身を取り巻き、その霊気が織風の肌を刺す。びりびりと空気が痺れるような気迫だ。こみ上げる怒りをこらえているのか、鷲星のこめかみのあたりがぴくぴくと痙攣していた。

「まさかおまえ……呉寿王の生まれ変わりか?」

 鷲星の指摘に、極北王はくくっと笑ってうなずいてみせた。

「ご明察だよ。しかしなぜわかったのだ? ――などと問うまでもないか。きさまが嵐鷲王だからだな?」

 極北王の声はどこか楽しげで、数奇な再会を祝福しているかのようだった。

「鷲星……」

 織風は不安そうに、鷲星を見つめる。

 乞縁節の伝説。絹雲と嵐鷲王の悲劇の物語。

 前世の織風――絹雲が命を落とした理由。それは前世の鷲星――嵐鷲王のためであり、前世の極北王――呉寿王のせいだった。前世で交わった三人の命運が、いま現世で交わり合う。

「絹雲が絶命するとき……。そなたは自ら魂魄を割り、嵐鷲王に魄を授けた。いまわの際でなお、そして死してさえも、そなたは嵐鷲王だけを思い続けた! 私はうらやましかった。だから剥離したそなたの魄が嵐鷲王に吸収されるまえのわずかな瞬間に、その一部をかすめ取ったのだ」

 さすがのおまえも気づかなかっただろう? というように極北王は鷲星に向かい、片眉を上げる。

「織風、嵐鷲王、呉寿王。民間に伝わる乞縁譚の登場人物ね。史実というのもおどろいたけれど、まさかこの場で当事者同士が邂逅しようとは」

 解するのが困難な状況を、愛鸞帝はすっと飲み込んだようだ。

「それと、前世の絹雲も天人だったのね。だから自らに魂魄剥離の術をかけて、魄を渡すことができたのだわ。前世の記憶がない理由も、これですっきりしたわね」

「……陛下のご明察どおりです。私も今日、はじめて真相を知りました」

 織風がつつましやかにうなずいてみせると、ふむ、と詔帝はうなずき、あごにそっと手をやり一瞬、思考したのちに言った。

「伝承では、絹雲は嵐鷲王に愛を誓って命を落とした。嵐鷲王は生まれ変わったらきっと絹雲を探し出せるようにと天帝に願いをかけて、いずこへと消えたと伝え聞くわ。そして呉寿王は東西戦乱まで生き延びるも、戦で国を追われて敗走中に命を落としたと」

「ああ。私は敵兵に追われて死を迎えた。今世で平民の子に生まれ変わり、物心つくころには前世で王だったことを思い出せるようになっていた。おそらくは過去の遺物――私が王だと知っている、絹雲の魄を持ったまま生まれ変わったおかげであろうな。このような副次的な効果があるとは。感謝をするよ、織風。いや――絹雲。あのとき、衝動的に魄を奪った甲斐があったというものだ」

 自分は本来、王なのだ。

 今世ではじめて前世の記憶を思い出したとき、極北王は王として再起する希望の光を見出し、さぞやよろこびを噛みしめたことだろう。極北王は前世のおのれの選択を勝ち誇ったように笑う。おのれの野望のためならば人からなにかを奪うことをいとわない人の姿に、だれもが不愉快な気分になった。

「呉寿王は……。目的のためならば人のことは顧みないのですね。なぜ……」

 責めたかったのではない。ただ織風はひたすら悲しかったのだ。こんな人がいるのかとむなしくなった。

 前世では鉄山と絹雲欲しさに、鷲星から無理矢理奪い取った。そして記憶を残したまま転生するために術士の命を奪い取り、また今世では偽物とわかっていてもあえて目をかけた愛鸞帝の温情に唾を吐きかけ、詔帝の座と織風欲しさに、妖魔を率いて多くの負傷者を出した。奪うことでしか、極北王は満たされない。

「なぜなのですか、極北王。……呉寿王」

 どちらの名で呼びかけるのがふさわしいか迷い、けれど極北王のなかにいる呉寿王の魂魄も含めて、二人に向かって話しかけたい気がして織風は言いなおした。

「呉寿王の記憶をそのまま引き継いでしまったあなたも、人から奪おうとなさる。どうして記憶を残したまま転生されようなどと考えたのですか? 人に生まれていれば前世であった悲劇のことを忘れて、新たな明日を生きられたかもしれないのに」

「納得できなかったからだ!」

 極北王はどん、と拳で床を叩いた。

「鉄山を手中に収め、武具を製造し、私は天下取りに乗り出す算段だったのだ! そして、絹雲と対の契約を交わし、永遠の命を得る予定だった! それがすべて計画が狂ったのだ。王だった者が野宿をして、夜はせせこましい火で暖を取りながら落ち延びるみじめさを、おまえにわかってたまるものか!」

 喉から喀血するのではと思われるほど、声を嗄らして激しくがなり立てる。

「この思いは絶対に忘れてなるものか。前世で成し遂げられなかったことを必ずや今世では成し遂げ、悔恨を晴らす。私はそのために生まれてきたのだ。欲しいものは今度こそ、必ず手に入れる!」

 興奮した極北王は一気呵成にわだかった思いを吐き出すと、あとははあはあと息を切らせていた。

 この人はみじめな人だ。

 望むものが手に入らないからではない。怒りや悲しみを忘れることなく、ずっととらわれているからみじめなのだ。それも、自らが招いた怒りと悲しみにとらわれている。前世では嵐鷲王と友好関係を築き、正しく人の世を導く機会もあったはずなのに。権勢欲にかられ、人から奪い取る道を選択した。

 しかし呉寿王は、嵐鷲王から王の誇りと愛する人を奪っておきながら、事が自分の思惑と異なる方向へと転がり土地を追われるなど、逆に奪われる痛みには耐えられない。

 野望をなかばでくじかれた呉寿王の蹉跌は、魄に激しく刻みつけられた。欲しいものが手に入らなかった恨み後悔は、現世では必ずや野望を達成しなければならないと、ますます人からなにかを奪う方向へと極北王を駆り立てる。そして今世でもまた奪い取ることに失敗し、前世と同じ轍を踏んだ失敗への忸怩たる思いがまた、魄に刻みつけられる。

 魂は人格を、魄は経験をつかさどる。極北王の思惑とは異なる方向に物事が進み、望まなかった経験を魄に刻まれた。このまま転生すれば魂はますます、人から奪え、奪って失敗を帳消しにしろと王をせき立てる。そんなことを繰り返すのはむなしいだけだ。

 天人たちが地上に降りて、愛鸞帝とともに人の世を正しく導いてきた。転生したさきの世で極北王は、その恩恵の輪から孤独にはじかれている。

 この人はあわれだ。怒りと満たされない強欲の無限周回のなかで一人さまよっている。だれかがこの人を救ってやらなければいけない。

 この人に救いの手を差し伸べたい。織風はそう強く思った。

 人の世を正しく導く――。天人たちの大命題を、織風は重く神聖なものとして受け止めていた。世のなかをあるべき方向へと動かすために、多くの事物に影響をもたらす自分であらねばと、重責を感じていた。重大なものと考えるからこそ、自分などがその重みを背負えるのかいつも自信がなかった。そのために、自分になにができるのか迷っていた。また卑小な自分などが広範囲に影響力を持つためには、自分の身をすり減らす覚悟で当たらなければ成し遂げられないと勝手に思い込んでいた。

 織風は自分を追い詰めていたのだ。そして、あわれで孤独な一人の人間をまえにしたいま、ようやく気づいた。なにか壮大なことを成し遂げるばかりが、人の世を正しく導く道にあらず。悩み苦しむ人に寄り添い、救い上げる道もある。その道こそ、織風が真に望んでいる道だ。

「王よ」

 織風は薄い花弁のような着物の裾をふわりとひるがえし、膝立ちになると極北王に一歩、二歩とにじり寄る。そして背中に手をまわすと、腕のなかに抱き込んでいた。

 前世でも今世でも、織風を利用しようと思って近づいたと泥を吐いた極北王は、まさか抱きしめられるとは思っていなかったのだろう。はっと息を飲んで硬直していた。

 背後の鷲星がとんでもない表情をしていそうで、織風はくすりと笑みを漏らす。言い訳ならばあとでしよう。いまだけはこの人に寄り添ってあげたいのだから、許してほしいと背中で謝罪した。

「極北王よ、もうやめにいたしましょう」

 織風は体を離すと、極北王の目を見ながら噛んで含めるように言い聞かせる。

「あなたさまはもう、だれからも奪う必要などないのです。人から奪わなければ欲しいものが手に入らないと思っている人は、いずれ自分も人から奪われるかもしれないという恐怖に、ずっとおびえることになります」

 織風に諭され、極北王はつらそうな顔をして視線を床に落とした。自分でも薄々気がつきながら、見ないふりをしていた皮肉を突きつけられたのだ。

「あなたさまがお幸せになるために、もうだれかから大切なものを奪って自分の物にするのはやめにいたしましょう。そんなやり方では周りの人も不幸になるうえに、あなたさまもいつまでも心が満たされないままです。奪うことに失敗してはくやしい思いを味わい、仮に人から奪えたとしても、いつか自分も同じく奪われる側にまわるのではと、ずっと落ち着かないままです」

「しかし、織風」

 極北王は泣き出しそうな顔で織風を見つめる。

「では、私はどうすればよいのだ? どうすれば、欲しいものが手に入るようになる?」

 極北王のなかに呉寿王の記憶が丸ごと棲んでいるのだと聞かされたときには、まだ子どものあどけない顔が急に老獪な中年男のように見えたのだが、いまやその表情からは、すっかり毒気が抜けている。織風が相対しているのは、少年王だと疑いようのない顔つきに戻っていた。

「私も極北王と同じです。なにかを成し遂げるためには、ひとつのやり方でなければ無理だと思い込んでいました。私の場合は、自分を犠牲にしない限り天人のお役目――人の世を正しく導くというお役目が果たせないと思い込んでいたのです。でも、そんな私を変えてくれたのは鷲星でした」

 織風は鷲星のほうに振り返り、にこりとほほえみかけた。案の定、鷲星は憮然とした表情でいたが、織風がおのれを名指ししたことが意外だったのか、一瞬だけ拍子抜けしたような顔をした。

「私は前世で、嵐鷲王を救うことができずに命を落としてしまった。そのくやしさと悲しさは私の魄に刻まれて、私の魂に影響をおよぼした。魄をなくして魂だけになった私のなかでは、嵐鷲王を救えなかった不甲斐なさがわだかまっていたのでしょう。だからこそ私は、今世こそだれかを救い、数多の人の役に立つ立派な天人にならねばと自分で自分を叱咤していたのです。ちょうどあなたさまが、今世こそは自分の望むものをすべて手に入れなければと、おのれに重圧をかけ続けたのと同じように」

「……苦しかった。欲しいものを手に入れたいと一人あがくのは。血反吐を吐くようにしてあがいたさきでも、手に入れられるかわからないまま、あがき続けるのは」

 蜃の吐き出す海市の幻のように、極北王の苦しみがはじめて、言葉となって空気に浮かんだ。

「鷲星は私に、天人としてのお役目なんて果たさなくていいと言ってくれたんです。自分を犠牲にするくらいなら、ただ私が幸せでいてくれればそれでいいと。はじめは、この意味を解するのが難しかった。私は、自分を犠牲にしてでもなにかを成し遂げぬ限り、真に心が満たされることはないし、幸せにもなれないと思っていたから。でも、それは違うのです」

 織風は、迷路で道順がわからなくなり、助け出されるのを待っている子どものように所在なげな極北王の肩に手を置き、力を与えるように軽くなでた。

「私は自分の望みを叶えようと躍起になるあまり、人の世を正しく導くという言葉を必要以上の重責に転換してしまい、その重みに身動きができなくなってしまった。大義のために自らを不幸せに追い込んでいたのです。自分のことが客観的に見えるようになってはじめて、私がすり減ると悲しむ人がいることや、それで救われた人たちは気が引けてしまうだろうと思い至りました。だから自分を犠牲にするのはやめようと思いました。鷲星に手を差し伸べられたから、私は宿悪の思考を断ち切ることができたのです。極北王もいまこそ断ち切らねば」

 織風は、極北王に向かってそっと右手を差し出す。

「私が鷲星に助けられたぶん、今度は私があなたさまに、手を差し伸べます」

 極北王は真剣なまなざしで聞き入っている。織風はやや照れくさくなり、冗談めかすようにわずかに首をかたむけた。長い黒髪がさらりと揺れる。

「極北王の望みは、名声とあなたを愛してくれる人ですか?」

 織風の問いに、極北王は気恥ずかしそうに小さくうなずいた。その控えめな姿は、両親から欲しいものを尋ねられた子どもが、常日頃の生意気さを忘れて、急に遠慮して恥じ入る様に似ていた。

「奪わずとも、望むものが手に入る道はきっとあります。名声が欲しいのなら、奪うことなく、人になにかを与えられる人間になればよいのです」

 織風は愛鸞帝の献身を思い浮かべていた。

「だれかのために尽くす姿に、いつかあなたを尊敬する人たちがあらわれるでしょう。たゆまず、与え続ければいい。あなたの献身に心打たれて、いつかあなたを愛してくれる人があらわれるでしょう。そしておのれの成したことを魄に刻むのです。魂は魄に作用してあなたの行動を左右し、また行動したことで得た経験は魂に作用して、あなたの人となりを変えてゆく。人から奪わなければと強迫観念にかられているあなたさまは、自ら変わっていけるのです」

 極北王は神妙な顔をして、静かに織風の説得に耳をかたむけていた。

「……私にできるだろうか……。もうなにもかも手遅れではなかろうか……」

 極北王の周囲には、龍尾軍がずらりと居並び愛鸞帝の捕縛命令を待っている。

「手遅れになどするものですか」

 静観していた愛鸞帝がそこで口を挟んだ。

「極北王よ、一度犯してしまった罪はなかったことにはならない。わたくしには、あなたを罰する義務がある」

 極北王は唇を噛み、床に視線を落とした。

「……わかっております。どんな罰でも受ける覚悟です」

 愛鸞帝の治世となった光熙年こうきねんより、死罪は禁止となった。だから賜死はまぬがれたとしても、すくなくとも数十年――で済めばいいほうで、おそらくは生涯の間、牢に幽閉されるのは確実だろう。現世で極北王は挽回の機会を永遠に失する。魄が悔恨で満たされたまま転生すれば、来世でなにかしらの不幸の種になる気がしてならなかった。

「陛下」

 どうにか極北王への減刑を嘆願しようとしたところで、愛鸞帝は織風の懸念は心得ていると視線で応じた。

「極北王よ、今回の一件について穂楽で必要な調査が終わるまで、そなたを獄に留め置きます。そしてそののちは、那張州での徒刑に処す。そこで庫書房こしょぼうに禁足とする」

「……ご恩情に感謝いたします」

 詔帝に牙を剥いた者の末路にしては寛大な処遇とはいえ、穂楽から離れた土地ですることもなく、一人孤独に暮らす生活を思い描き、寂しいのだろう。極北王の声が悲しそうにしぼんでいる。

「しかし罪人をただ閉じ込めるばかりでは、真に心を入れ替えさせるのは難しいとわたくしは考えています。そこで、そなたを国記二十四集こっきにじゅうよんしゅうの製本係に任ずる」

 国記二十四集は、史書、哲学書、倫理書などを二十四編集めて一体とした思想書だ。国家統治の基本理念であり、官吏ともなれば一言一句たがわず暗記していて当然とされている。

「わたくしの指示を受け、那張より本を献上しに上がるときには、一時的に穂楽に戻ることを許します」

「……して、私の役目とは……?」

 製本と聞き慣れない言葉が出てきたことで、極北王はきょどきょどと視線をさまよわせて戸惑っている。

「――立ちなさい」

 愛鸞帝は極北王に手を差し出し、立つようにうながす。極北王は気後れしながらも、詔帝の手を取り立ち上がった。

「わたくしの後継者は、有能な者であればだれでも登用しようと考えていた。けれど、たった一代で世襲制を変えるのは、後宮を廃するよりも難しいことだとわかった。だからわたくしの次期後継者はさしあたって血縁者から選ぶべく、詔帝候補には詔帝たるにふさわしい人物となれるような教育をほどこしてきたつもりよ」

 急に王家がなくなってしまうのも、それはそれで混乱がある。革新的な愛鸞帝でさえも、慎重にならざるをえないところだった。

「でもふと、『このままでいいのだろうか』と思ったのです。王族の子は環境、先生に恵まれて質の高い教育が受けられる。それは官吏の家に生まれた子も同じ。でも同じ水準の教育は、市民の子には行き届かない。穂楽でさえ気軽に教育を受けられる場所はなく、肝心の民たちにさえ、学問は官吏になるためのもので、門閥に生まれない限りは手が届かないうえに、生活の役に立たない以上、むだだと思われている。医療と同じく、出生の違いから生まれる教育格差もまた是正すべきではないか。いま状況を変えねば、わたくしの亡きあともずっと凌雲詔帝はわたくしの末裔、あるいは門閥から選ぶことになる。王の資質はその血筋により決められるべきではない。そこで国中に教育を普及させるため、まずは制度を整備することにしたのです」

 愛鸞帝はそこで「まだ翠藍さまと、一部の大臣にしか話をしていなかったのよ」といたずらっぽく笑った。

「穂楽をはじめとする主要な都市で、私塾を開く場所を確保する。講師は引退した大臣のなかから志望者を登用するつもり。でもせっかく子どもたちが集まっても、全土に行き渡らせるためには教本が不足している」

 本は大半が、竹の巻物に墨で書かれた形態となっている。ひとつ、ひとつ、原本から書き写して写本が誕生するので、複製するのに時間がかかる。

「西方の技術を学び戻ってきた遣使が、文書を複製する機械を編み出したのよ。金属製の原版を作り、墨を塗って紙に押しつけるだけで、いちいち書き写さずとも転写されるようになる。印鑑のような仕組みね。極北王には、この機械を使った教本作りを役務としてもらうわ。あなたの働きは多くの人に学を届ける一助となる。――これなら、あなたの言っていたこととも契合しているでしょう、織風天人」

「はい……! よかったですね、極北王!」

 思いがけない恩情に、織風は呆然としている極北王の肩を抱いて揺すった。

 凌雲の王として、反逆者に罪に見合う役務を与えつつも、織風の意見も採り入れ、極北王が人になにかを与えられる存在として研鑽できるような機会を与えてくれた愛鸞帝には感謝の気持ちしかない。

「陛下はなんと英明か」

 織風は着物の下で手を重ね合わせて、帝に向かい深く頭を下げた。

「陛下……寛大な処置ばかりか、そのような大切なお役目を任せてくださるなど……」

 極北王も袖を合わせて、背中を丸めて頭を下げる。感動で背中が震え、顔を上げると頬に幾筋もの涙が伝っていた。

「さあ、そういうわけで。この場はもう収まったからあなたたちも、外の応援に向かってくれるかしら?」

 愛鸞帝は部屋に控えていた数名の龍尾兵に声をかける。兵士たちが鎧兜をがちゃりと揺らして朝堂殿を出て行きかけたところで、

「陛下!」

 殿に飛び込んできたのは頻羽と剛毅だった。

 頻羽の艶のある御髪が乱れきり、きらきらしい顔は土埃で汚れている。剛毅に至っては、服も甲冑も、血や妖魔の体液と思しき染みで汚れている。妖魔との激闘を物語る出で立ちだった。

「最後の一匹も無事に仕留めましてございます」

 ほうっと織風は安堵で吐息した。愛鸞帝の顔も安心でゆるむ。

「ご苦労だったわ。状況は?」

「城のあちこちが破壊されました。崩落の危険があるので、修繕が完了するまでは近づかないほうがいい場所もあります。負傷者は合計で六十八名。珠翡殿が治療に当たっていますが、命の危険がある者はおりません」

「上出来よ、剛毅。あなたの獅子奮迅の活躍にも感謝しているわ」

「滅相もない」

 剛毅はぱん、と平手に拳を打ち付けて、愛鸞帝に向かい軽く頭を下げた。

「取り急ぎ私と剛毅は、人の出入りを禁止したほうがよい場所に封鎖の札を下げてまわってきます。あちこちに散乱したがれきの片付けは明日以降、明るくなってからといたしましょう。織風」

 頻羽は織風に目を向ける。

「この場はきみに任せてよいのだよな?」

 頻羽はにかっと歯を見せて笑う。極北王の様子が静謐なものに変わっているのを肌で感じたのだろう。織風がうまくこの場を収めたのだとわかってくれている。

 天人としての務めは、織風が心から望むことを果たせばいい。だから他人の評価は気にする必要がないのだと吹っ切れていたけれど、それでも尊敬する天人から認められるのは格別な嬉しさがあった。

「なにも心配いりません。ついでに、私の魄のありかも見つかりました」

「なに、それは本当か?」

 大半は鷲星が、一部は極北王が持っていることだけを端的に報告する。頻羽の頭に疑問がいくつもふくらんでいるだろうが、まだやるべきことがあるなかにあって、結論だけをすばやく咀嚼してくれた。

「なにがあったのかはあとで詳しく聞くとして。よかったな、織風。これで記憶が戻るぞ」

「はい、頻羽さま。けれど――」

 織風はちら、と鷲星に視線を移してすぐに逸らした。

「私はもう、魄がないままでもよい気がするのです」

 魄が戻れば前世の、絹雲だったころの記憶が戻る。絹雲の記憶を受け継ぐのがいやなわけではない。けれどすこしだけ抵抗する気持ちがあった。

「私は今世で鷲星に出会い、鷲星を好きになりました。その気持ちだけでもうじゅうぶんなのです。前世を取り戻したところで、私の鷲星に対する気持ちが変わるとは思えない。なにも変わらないのなら、私は現世での出会いこそを、大切にしたいのです」

「そうか。うーむ、しかしなあ」

 頻羽は歯切れ悪く口にした。

「きみの決断を尊重してやりたいのは山々なんだが。最近になってわかったことがある。織風、きみ、なにもないところでよく転ぶだろう?」

「はい……」

 真正面から指摘されると恥ずかしい。おのれがどじなのと、靴底が高いのでうまく歩けないせいだと思っていた。舞いにはさほど苦労しないのが不思議だった。

「それな、どうやら魄がないせいらしいのだ。我々の体の中心に魂魄があるのだと思い浮かべてくれ。魄が欠けているぶん、微妙に体の重心が偏り、平衡感覚が乱れる。転びやすくなる」

「え」

 衝撃の事実に、織風の口がぽかんと開く。

「たまに転ぶだけならたいした弊害にもならないが、魄を戻せば治るのだ。どうするかは織風が決めればいい」

「もらうか、もらわないか。迷ってるんなら、受け取ってくれないか?」

 鷲星が織風のまえに進み出る。

「主がべつにいる魄を、ずっと抱えたままなのも据わりが悪い。それにたとえ前世の記憶が戻ったとしても、俺への気持ちは変わらないと言ってくれた。だったら魄をもらっても、不都合はないだろう?」

 鷲星は織風の心配を見抜いている。優しげに細められた瞳からそのことが伝わってきた。

 絹雲は嵐鷲王を愛していた。嵐鷲王を思う気持ちの強さに、織風が鷲星を好きな気持ちが上書きされてしまうのではないかと、織風はすこしこわかったのだ。

 現世で鷲星を好きになったきっかけや、自分の気持ちが動いた瞬間のときめきを、忘れたくはない。感じた瞬間のまま、自分だけのものにしておきたい。

「大丈夫だよ」

 織風の心を読んだかのように、鷲星が力強く請け合う。

「俺は嵐鷲王の気持ちを抱えたまま、現世で織風と出会って、織風のことをあらためて好きになったんだ。前世は自分の過去だけれど、いまじゃないと受け入れられる」

 鷲星はにやりとあえて人の悪い笑みを浮かべる。

「それに、俺の見ていないところで転ばれるのも心配だ。心労がなくなるんならぜひお願いしたいね」

 絹雲は魂魄を割り、その一部を渡してまで、来世こそは嵐鷲王とともにあろうと決めていた。そのおかげで、鷲星は現世で織風を見つけ出すことができた。けれど現世で鷲星と出会いそして、式鬼にしてでも生き延びさせたいと思ったのは絹雲ではなく織風なのだ。

 前世は自分の一部でも、あくまで過去のこととしてきっと受け入れられる。おのれのなかに絹雲の記憶を引き継いだとしても、過去にあったことが堆積するだけだ。

「わかった。魄を戻すよ」

 織風がうなずくと、鷲星は安心したように笑った。

「そうと決まれば、いまこの場で魂魄剥離の術をかけてやろう」

 だれよりも切り替えの早い頻羽が、鷲星と極北王に整列するように指示をする。

「織風、もっと時間を置いたほうがいいか?」

「いえ、頻羽さま。それで私の決断が変わるとは思えませんから」

 とうに覚悟を決めた織風も、極北王と鷲星が並んで立つ隣に立った。

「よし。ではこれより、鷲星と極北王から織風の魄を取り出し、織風のなかに戻す。魄を出し入れするとき、体が強く揺さぶられた感じがするだろうが、一瞬のことなのでみな突っ立ったままで大丈夫だ」

 頻羽は一瞬ごとに組む形を変えていくつか印を結んだのち、「はっ」というかけ声とともに、空中に向かい掌底を突き出した。

 水面に波紋が広がるように、軽い衝撃が空気に広がる。鷲星と極北王の体がわずかにぐらつき、体から薄黄色い光の玉が浮き出てきた。光の玉は織風の胸元めがけてまっすぐに飛び込んでくる。体内に吸い込まれていくときに、体の中心がずうんと重たくなった。

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