第8話

「織風天人。お迎えに上がりました」

 部屋に踏み入った女官たちが頭を下げる。

 織風は頻羽と顔を見合わせた。物々しさを嗅ぎつけたのか、なにかあれば天人二人を守ろうと剛毅が立ち上がる。鷲星だけは我関せずで、箸を動かし続けていた。

「迎えとは、どちらに……」

 戸惑いながら織風が問いかけるのに、拱手の女官が進み出て言った。

「極北王がお召しです。夕食をともにしたいと」

 そこでようやく鷲星は椀を持ち汁をすする手を止めて、下からすくい上げるように闖入者たちを見渡した。

 女官たちが進み出て織風を左右から囲み、さあさあ、お早くとせき立てる。事前に予告もなしに、やや強引だ。

「待て待て。織風をどこに連れて行く気だ?」

「申せません」

 しずしずと女官が頭を下げる。慇懃にことわられ、鷲星はチッと舌打ちをした。どうやら極北王が口止めしたらしい。

「織風。気が進まないのならことわっていいのだぞ」

 女官たちにはばかり、頻羽が小声で声をかける。

 極北王には角が立つが、「行かない」とことわることもできる。

「行きます。遅くならないうちに戻ってきますから」

 けれど織風は、行くことを選択した。鷲星が立ち上がり、織風を心配そうに見つめる。

 相手はたかだか十五歳の少年だ。少年の気まぐれで織風を寵愛したがっているだけだろうと割り切りつつも、大切な人に向けて秋波を送られるのはやはり、気分を害して当然だろう。それと相手が王族であることについても、鷲星は警戒を強めている。極北王がその気になれば、王子の権力をふりかざすなり愛鸞帝を懐柔するなりして、織風を手中におさめようと動かないとも限らないからだ。

「……織風。おまえさんが望まないのなら、俺はなにがなんでも止めるからな」

 鷲星はきっぱりと言った。

「おまえさんのことだ。極北王の誘いをことわれば、俺たちに累がおよぶと心配しているんだろう?」

 鷲星は心配していた。織風が無理をしていないか。本当は望まないのに、だれかの役に立つために、おのれを犠牲にしていないか。鷲星が「してほしくない」と思うことを、しようとしてはいないかと。

 鷲星を安心させるように、織風は力強くほほえんだ。

「鷲星、心配しなくとも平気だ。無理はしていない。せっかくの誘いを、無下にことわるまでもないよ。それに私自身、極北王がどんなお方なのかちゃんと知りたいのだ。だからこれは、私自身が望んだことだよ」

 行きさきを教えてくれないのは気になるが、敬遠するほどのことでもない。自分との交流を望んでくれている少年を避けるのは、いささか過剰反応のような気がした。ただ無邪気なのか。無邪気に見せかけて計算高いのか。極北王は子どもながらに、まるで本当の姿が見えない。頻羽や珠翡の人物評を参考にするだけでなく、織風自身で極北王と向き合って、どんな人物なのかたしかめ、誠実に接したかった。

「そうか。なら、いいが」

 安心したのか、表情のこわばりを解いた鷲星は、追加であれこれ心配事を口にすることなく、ただ「早めに戻ってこいよ」とだけ言った。

 大勢の女官たちに伴われて門前へと移動する。鷲星たちも見送りに出てきた。

「織風、これを」

 馬車に乗り込む寸前、頻羽はそっと小さな玉佩ぎょくはいを織風の着物の帯に結びつけた。

「私のものと対になっている。これがあればどこにいても、きみの居場所がわかる」

 どこかわからない場所に織風が連れ去られてしまうのではと危惧した頻羽の、念のための措置だった。永盛城は穂楽の町に匹敵するほど広大で、大きなものから小さなもの、現在使用されているものから封鎖されているものまで、百以上の宮がある。どこかの宮にこもられたら、探すのは困難だ。

「頻羽さま」

 頻羽が警戒するので、織風も不安が駆り立てられたような気がする。いざとなれば術で探し出せるように手を打つなど、ある程度付き合いのある頻羽でさえも、極北王の人柄について計りきれていない証拠だ。

 頻羽、剛毅、鷲星に見送られて、織風は馬車に乗り込んだ。

 移動さきをたしかめようと、なかからそっと窓紗を持ち上げてみて愕然とした。外側から布で覆いがされて、窓がふさがれている。これでは、いまどのあたりを移動しているのか把握するのは無理だ。行きさきがわからないような細工をしたのも、極北王の指示によるものだろう。

(――ただの少年だと思っていたのに)

 織風はただ、自分と話したがっている人に真摯に接したいだけなのに。極北王は強引にまとわりついてきて、好色さを隠そうともしない。でも、それは子どもらしい遠慮のなさによるもので、根っこの部分はいい子なのだろうと、どこか油断していたのかもしれない。行きさきを告げずにほかの天人たちから引き離し、どこに向かって移動しているのか織風にもわからないように細工をするなど、執心ぶりがやや異様に感じられる。もはや子どもとあなどれない所業だ。

 なぜそうまでして、自分と接点を持ちたがるのだろう。

 織風は腰から下げた頻羽の玉佩を、お守りに触れるような気持ちでなでた。

 正確な時間の感覚はないが、一刻ほど揺られ続けただろうか。馬の歩みが止まると、どこからかあらわれた女官たちが扉を開いて、織風を外へと連れ出した。

 空気がひんやりとした、竹林のなかにいた。あたりは日が落ちて、すっかり陰っている。周辺にはなにもなく、どうやら永盛城から外に連れ出されたようだった。

 竹林のなかに一軒の家があった。二階建てで庶民の家よりは大きいが、永盛城内に林立している宮殿に比べると、大きさも外観もずいぶんとつつましやかだ。

「織風! 待っていたぞ!」

 車輪の音を聞きつけた女官たちが出ていったことで、織風の到来を知ったのだろう。家のなかから、極北王が飛び出してきた。

「夕餉を用意した。ともに食事にしよう」

 極北王は、はしゃぎながら織風の腕に巻き付き、家のなかへと誘う。織風を出迎えた女官たちは、戸惑う織風に目線を合わせないようにして、しずしずと家のなかへと歩み去る。主の要請により、これから夕餉の給仕で忙しく立ち働かなければならないのだ。

「あの、極北王。ここは……?」

「私の隠れ家だ」

 場所をぼやかして、極北王は無邪気に笑う。一度警戒心が芽生えると、にこにこ笑顔で織風を見上げる顔の下にべつの顔が隠されているのではないかと、どこか空恐ろしく感じられてくる。

 女官たちが家のなかをせわしく行き交い、夕餉の支度をはじめた。

「さあ織風。食べさせてくれ」

 大皿、小皿で何十種類もの惣菜が運ばれてきて、卓上に並ぶと、極北王は鼻にかかった声でねだった。箸を置く隙間もないほど皿で埋め尽くされた卓の様子は、たった二人での夕食とは思えない豪勢さだ。

「……どうぞ」

 気は進まなかったが、機嫌を損ねたら面倒なことになりそうな予感がした。織風は請われるままに、鶏肉の甘辛揚げを箸で口に運んでやった。

「うーん、美人に食べさせてもらうと、また格別においしく感じられるな」

 極北王は頬を手で押さえて、口に含んだ食べ物を咀嚼する。

「織風も遠慮せずどんどん食べよ。天人は食べ物を必要としないが、社交目的で人と食卓をともにすることがあると、頻羽から聞いたことがある」

「いえ、私はお腹が空いておりませんので」

 緊張して、箸など進むはずもない。

 食事中は、とりとめのないことに話がおよんだ。

 天人の誕生確認の日課について、また穂楽の薬店へのお使いについて。織風は日々の生活ぶりを問われるままに語った。極北王は、師事している先生が都会嫌いで穂楽に来たがらないので、仕方なく自分が那張に留め置かれるのだということが不満のようで、田舎暮らしのいやなところをうんざりした様子で語っていた。田舎で勉強漬けの暮らしがどうも性に合わないらしい。表情豊かに語るさまは、町の子どもたちと同じようでかわいらしく映った。

 食後の甘味も食べ終えると、極北王は満足そうに腹をさすった。その頃合いを見計らい、織風は立ち上がりかけた。

「極北王、私はそろそろ、おいとましようと思います」

「えー」

 極北王はわざとらしく唇を尖らせる。

「織風。今宵はここに泊まればよい。花酔宮に比べたら狭いが、そう不便でもあるまい。女官たちは下がらせる」

 そう言うと極北王は手を振り、部屋に控えていた人たちを退出させてしまった。

「これで二人きりだなっ」

 極北王は嬉しそうに言って寝転がると、正座する織風の膝のうえに無遠慮に頭を乗せて重しにした。

「王よ……」

 子どもながら、ずしんと頭が重く太ももに響いてくる。極北王の体温を服越しに感じて、織風は落ち着かない気分で足をもぞりとさせた。無意識のうちに、腰から下げた玉佩に触れる。

「それはなんだ?」

 目ざとい極北王はむくりと体を起こす。

「この護符に見覚えがあるな……。ははあ、わかったぞ! 頻羽の玉佩か」

「ええ。頻羽さまより賜ったものです」

「ふっ」

 極北王は不適にほほえむと、右手を差し出して玉佩をよこすように求めた。

「頻羽は自分の力を込めたものを、念で探すことができるからな。それでそなたに下賜したのであろう? ここに来られるのは困る」

 極北王は織風の腰帯から無理やり玉佩を奪い取ると、窓の外に放り投げた。ばちゃん、と水に落ちる音がする。近くの小川に投げ込んだようだった。このまま水流に乗り、どこかに運ばれてしまうだろう。戻りが遅いのを心配した頻羽に、隠れ家を探り当ててもらうのは不可能になった。

「……なぜそうまでして、私をとどまらせたいのです?」

 極北王は警戒心が強い。頻羽の邪魔が入るのではないかとにらんで、玉佩を奪って捨てた。どうしても織風を帰したくないらしい。

「……ただ愛されたいのだと言ったら、嘘に聞こえるか?」

 極北王は、浮かれていた声の調子をやや落として、つぶやくように言った。

「母のような愛を注いでくれるだれかに、そばにいてほしいのだ。決して裏切られることのない愛が欲しい」

 哀愁を帯びた王子の声は切実に響く。嘘は言っていないような気がした。

「柔和なたたずまいで、物腰がやわらかくて。織風は私の理想だ。そなたを愛人にしたいと言ったのは、冗談や気の迷いではない。私は本気で、そなたのような優しい人にそばにいてほしいと思っている」

「ごめんなさい。それは、できないのです」

 織風は静かに首を振った。

「極北王とお話するのは、嫌いではありません。けれど私は、あなたさまの側室にはなれない」

「……なぜだ。それほどあの男がいいのか。……なぜ」

 極北王の瞳が、悲しみで揺らいでいる。ひと目惚れした天人に振られただけではとても、ここまで深い悲しみの色はにじまない。極北王の悲しみは心の深淵から湧き出ていたものだった。なぜかは、わからない。

「鷲星とお互いの思いを伝え合ったのは、今日がはじめてです。けれど私は、以前から鷲星に惹かれていたのだとようやく自覚しました。そして、鷲星も私に思いを寄せてくれていた」

「……なぜあの男がいい。ただの平民で、いかにも粗野だ」

 極北王はぎゅっと眉を寄せ、憤怒の表情をしながら鷲星をけなした。

「鷲星はいつも私を大切に思い、さりげなく助けてくれた。私を思いやってくれる姿に心打たれたのです」

「私だって、そなたを大切にできる!」

 極北王は甲走った声で叫んだ。

「助けが必要ならば手を貸そう。欲しいものがあればなんでも与える」

 少年王はすくっと立ち上がった。上から見下ろされるのがなんだかこわくて、織風も一緒に立ち上がる。

「……織風はまだ、天人としてのお役目がないのだと聞いた」

 織風の痛いところを突いた極北王は、首をかしげて反応をうかがう。

「お役目が欲しくはないか。私なら与えてやれる」

「……どういう……ことです……」

 ぎらぎらと光る目線に、ただならない気合いが充満している。迫力に圧倒されて、織風は思わず尋ねていた。

「今宵、謀反を起こす」

 極北王は決然と言い、衝撃でとっさに、織風は言葉が出なかった。

「事情があって数日、前倒すことにした。あとでこちらに、私に与する者達がやってくる」

 謀反――ということは、愛鸞帝の元に向かい、帝位交代を迫るということだ。穏便な話し合いではすまず、武力行使で事に当たるのかもしれない。

 不穏な空気に、織風の心臓がどきどきとしはじめた。

「どうして……? 愛鸞帝は、あなたのおばうえなのに……」

「そのおばだって、私と同じ年齢で謀反を起こしたのだ」

 部屋が静まりかえる。じじ、と蝋燭の芯が燃える音が一瞬だけ、響いた。

 織風はひたすらおどろいていた。極北王のなかにいつ、二心が芽生えたのだろう。次期詔帝を目指す野心はありそうだったが、具体的に政権を奪い取る計画まで練っていたとは。永盛城に迎え入れられて一年のうちに、思うところがあったのだろうか。

「おばうえは在位して四十年。まだお若く、健康だ。このままではすくなくとも、あと二十年は玉座に居座り続けるだろう。いざ後継者を選ぶころには、私は四十歳を超えてしまうかもしれない。それから詔帝の座に就くのでは遅すぎるのだ。成しえたいことがほとんどできずに終わる」

 絶望から、極北王は悲痛な顔をする。

「おばうえは若くして詔帝となり、以来、長きに渡りこの国の帝だ。おばうえの治世で、凌雲国は最盛期を迎えている。長く在位することの利点は、おばうえ自身が教えてくれたではないか」

「それは……」

 事実ではあるが、謀反を決行する理由としては、独りよがりだ。

「おばうえを引きずり下ろそうとする私は、悪者か?」

 織風の心を読んだかのように極北王は尋ね、織風は肯定をためらった。

「そなたからはそう見えるのかもしれない。でも、私はそうは思わない。おばうえと私は、同じだからだ」

 謀反を起こすという点では同じだ。でもなんとなく、なにかが違う。その違いを、うまく言葉にはできない。王の真意が計りきれず、織風は難しそうな顔をする。

「先帝が政道を踏み誤ったのを見かねたおばうえは無血禅譲を成功させ、以来、賢帝とあがめられている。だが、政権を奪ったあとのおばうえが暗愚であったら、結果はどうであった? 謀反は失敗と言われ、おばうえは権勢欲に取り憑かれた悪鬼だと罵られたはずだ。あとから振り返ると、おばうえの謀反はさも正しいことをしたかのように見えるだけだ。謀反を起こした時点では、それが正しいことなのか間違っていることなのか、結果はわからなかった」

 極北王はおのれのなかにある合理性を、切々と訴える。

 ときに結果が読めない選択がある。それでも選ばなければいけないときがある。そうなればせいぜい、おのれの選択した道が正解になるように尽くすだけ。愛鸞帝が織風に語った気構えは、いま極北王が口にした論理とも通じる面がある。

「織風には私の詔帝擁立を後押ししてほしい。おばうえのとき、最後は頻羽が女帝擁立を渋る大臣連中を説得してまわり、即位させた。天人が昰と言えば、それが正しき道であることが皆の経験則となっている。そなたが推してくれれば、すんなりと事が進む」

 どうしよう、頭がまわらない。極北王の謀反決行は正しくないことのように思えるが、その行動指針は愛鸞帝の言っていた「正解の見えない選択をするうえでの気構え」と重なり、いま仕掛けようとしていることはまさに、愛鸞帝自身の通ってきた道と重なる。単純に間違っていることだと否定はできない気がする。

「私はそなたと、おばうえと頻羽のような関係になりたいのだ。この国はじめての女帝を即位させた頻羽は以来、おばうえと手に手を取り合い、ともに国を正しく導いてきた。そなたのことを好きな気持ちは本物だ。どうか私を支えてほしい。愛して仕えてほしい。詔帝を導くお役目ができることは、織風にとっても悪い話ではないはずだ」

 極北王は織風の足下にひざまづいた。

「時間がないなかで決断を迫ることになったことを、申し訳なく思う。だが頼む、織風。今宵は千載一遇の好機なのだ。人の世の歴史はときに、一夜で大きく動く。どうか」

 極北王は脚にしがみつきそうな勢いで訴える。

「でも、王よ。やはり謀反は起こすべきではないと思うのです。愛鸞帝は、ほかの子と等しくあなたに目をかけてきた。二心があったと知れば、陛下は悲しみます」

「おばうえの気持ちなど、どうでもいい!」

 丸い頬に怒りの朱が差した。

「不老長寿の天人に、人間の焦燥などわかるものか! 私には時間がない。時間がないなかで、手に入れなければならないものが山ほどあるのだ!」

「なにかを手に入れることに、どうしてそれほどこだわるのです……!」

「他人がうらやましいからだ!」

 ともに熱を帯びた言葉が応酬する。

「頼む、織風よ。どうか私の願いをかなえてほしい。私は、私にないものを持っている人がうらやましくてならないのだ。名声も、愛してくれる人も。人が望んで手に入れられるものが、どうして私には手に入らない!」

 心の悲鳴を噴出させた極北王の目から、あとからあとから涙が伝い、頬に筋を描いた。

 欲しいものを手に入れている人が、うらやましい。だから他人から大切な人や国を、奪おうとする。それはとてもわびしいことだと思い、織風は怒るよりもまえに悲しくなった。

 この少年の心には、ぽっかりと大きな穴が空いている。その穴を、欲しいもので満たして埋めようとする。寂しいことは悲しいことで、その寂しさがもたらす身勝手なふるまいを、独りよがりだと突き放してはいけない気がした。

「王よ。どうかお立ちください」

 織風はそっと極北王の肩を支える。

「……私が鷲星を好きな理由が、もうひとつあります」

 突然話題が飛んだと思ったのか。極北王はひくひくとしゃくりあげつつも、不可思議そうな顔をして、織風を見上げた。

「鷲星は、私が望まないのなら、自分を犠牲にするお役目など果たさなくていいと言ってくれたのです。……私の言いたいことを、わかっていただけますか?」

「わからない、それだけでは」

 極北王は顔をしかめて立ち上がった。織風が話をはじめたので渋々聞く姿勢ではあるが、謀反の誘いから話題が逸れたことが不満で、焦れているようだった。

「私には魄がないのです。はじめてお会いしたときに『欠けているところがある』と言われて、ひょっとしたら極北王も私に魄がないことをご存じなのかと思い、どきっとしました」

 極北王は視線を逸らし、発言の真意についてはなにも言わなかった。

「私には魄がない。そのため、天人なら持っているはずの前世の記憶がないそうです。私はそのせいで経験が不足してほかの天人よりも劣っているのだと思い込み、どこか自分が欠けているような気がしていたのです。早くほかの天人たちに追いつかなければとあせり、お役目を見つけられない自分がずっと不甲斐なかった。だから自分を犠牲にしてでも、人の世に役立つことをしたいと気が急いていた。そんなときに、鷲星と出会いました」

 鷲星とはじめて出会った日のことを思い出す。背後からふらりとあらわれて、人さらいの顔面に一撃を加えてくれた鷲星は、あっけにとられた織風に安心させるように笑いかけたのだった。

「鷲星は、お役目のために自分を犠牲にする必要なんてないと私を諭してくれたのです。人のためではなく、もっと自分のために生きることに貪欲でいいのだと」

「だから鷲星が好きなのか……? 鷲星はそなたの望みをかなえてはくれないのに。それでも鷲星がいいと申すのか……!」

 極北王の指摘に、織風はそうではない、と軽く首を振った。

「その言葉が本当に腑に落ちたのは、今日になってようやくです。お役目なんか果たさなくていいとはじめに言われたときは、私はむしろ途方に暮れてしまいました。お役目を果たすことこそ、天人としての私の存在意義だと思っていたから。その意義を否定されて私は――進むべき道が見えなくなってしまった」

 途方に暮れた当時の気持ちを思い出し、織風は情けなさそうに眉根を寄せて、困り顔をした。そのあとで、うっすらと笑みを作る。

 どうして鷲星が好きなのか。極北王と向き合うことで、自分でも気づいていなかった心の奥底にある気持ちにようやく気づけたからだ。

 愛の出発点は相手を思いやる気持ちなのだと、愛鸞帝は言った。だれかを特別に思う気持ちや、好きな気持ちが大きく育つと、愛になるのだと。

 鷲星はたくさんの思いやりを織風にくれた。愛の出発点になる、思いやりの気持ちを。そして望まないお役目や危険なことから、織風を守ろうとしてくれた。ただひたすらに、織風が幸せでいられるように――。

 人のために一生懸命になれる織風が好きなのだという鷲星の言葉が、ひどく照れ臭く、織風はふふっと鼻から息を吐き出した。会話の途切れ目で突然、不思議な笑みを漏らした織風のことを、極北王はあからさまに眉をひそめて不審そうに見つめてくる。でも、だれかに思われる気持ちのあたたかさに身を浸していると、気味悪そうに見つめられても、なにも気にならない。

 「私が鷲星を好きなのは……鷲星が天人ではない私でもいいのだと思ってくれているからです」

 意外な答えだったのか、極北王がなにか言いたそうに口をぱくりと開ける。先手を取られるまえに、織風は鷲星への思いを言葉にしていく。

 織風はうれしかった。愛についてようやく、その片鱗が見えた気がしたのだ。

 かすかにつかんだ愛の片鱗が淡雪のように溶けて消えてしまうまえに。愛についての思いを言葉にしておきたい。織風はいつか、鷲星を愛したい。鷲星が織風を愛してくれるのと同じように。だからこれが愛なのだと実感したい。思ったことをちゃんと言葉にして、愛の実感に身を震わせて、しっかりと覚えておきたかった。

「鷲星は私がお役目を果たしても、果たさなくても、どちらでもいいのです。天人であろうとなかろうと、私を好きでいてくれる。ただ私が望まないことはしなくていいのだと、私の幸せだけを願ってくれている。見返りを求めず、ただひたすらに相手の幸せだけを願う。私はこれが愛だと思ったのです。鷲星が私にくれたのは、本物の愛なのです」

 愛とは思いやり。愛とは、見返りを求めず相手の幸せを願うこと。

 人が愛を希う理由が、織風にもよくわかった。愛する人を見つけたい。愛してくれる人を見つけたい。だれかの幸福を願う気持ちはこんなにも、うつくしいものだから。

 鷲星は織風に本当の愛をくれた。目を開けていられないほどまばゆい力強さに満ちて、同時にいつまでも身を浸していたくなるほどあたたかな愛を教えてくれた鷲星のことを織風はますます、好きになった。同じだけの愛を鷲星に返してあげたいと心から思う。 

 織風はひとつずつ慎重に、言葉を選んで話した。すっかり話終えると、極北王の顔にみるみる悲しみが広がっていく。王は徐々に理解しつつあるのだろう。鷲星と自分の、決定的な違いを。

「極北王はきっと私が天人だから、私を好きでいてくれるのです」

「それは……っ。むろん、それだけでは、ない……」

 織風にずばりと突きつけられ、言葉が尻すぼみになった王はくやしそうに唇を噛む。織風自身に魅了されているところももちろんあるが、天人としての利用価値を見出しているからこそ、近づいた側面が大きいのだろう。

「私はあなたの望む存在にはなれません。でも、あなたの望みが叶うように、お手伝いすることはできます」

 織風はうなだれる極北王の手を取った。

「愛鸞帝に、あなたさまが不安に思っている気持ちを伝えましょう。思いやりに満ちた愛鸞帝のことです。このさきも長いこと帝位に就けないのでは、とあせる気持ちがあることを伝えれば、なんらかの形で早くから政事にかかわれるように取り計らってくださるかもしれない。それとあなたのことを愛し、あなたが本当に愛することができる人も、一緒に探しましょう」

 この少年の心にはうろが空いている。うろを埋めるものをあれこれ探して迷子になっているだけなのだ。そう信じて織風は握る手に力を込める。

「さきほど、愛鸞帝とご自身は同じだとおっしゃいました。どこか微妙に重ならない部分があるような気がしていて、どこが違うのかとっさに言葉にできなかった。でも、ようやくわかったのです」

 織風は不安げに揺れる極北王の瞳をのぞき込みながら、翻意をうながす言葉を紡ぐ。

「選択を迷われたとき、愛鸞帝はいつも、『その選択がより多くの人のためになるのかどうか』を指針として、決定をなされると聞きました。愛鸞帝が動かれるのはいつも、だれかのためなのです。でもあなたさまは、ご自身の身を立てるために謀反を決行されようとしている。それは詔帝として、正しい道ではないのです」

 極北王の口から、民に配慮する言葉はひとつも出なかった。

「いまからでも遅くはない。謀反の件は聞かなかったことにいたします。どうかお仲間に伝えて、決行は取りやめにしてください」

 すこし厳しい言い方をしてしまったと思い、織風はほほえんで王の気持ちをなだめようとした。嘆くことなく、あるべき道に戻れるように考えなおしてほしかった。

「……もう遅い」

 極北王は表情をこわばらせ、謀反撤回を拒んだ。

「もう遅いのだ、織風よ。表に出てみよ。そろそろ、宴がはじまるころだ」

 不穏な言葉に織風は、薄衣の裾を揺らして外へと飛び出した。民家がないので、外は真っ暗だ。月明かりと星明かりだけが頼りになる。織風は手から焔玉をいくつか浮かび上がらせ、周辺を照らした。背後から、草を踏みしめ極北王が歩んでくる。

「あちらが永盛城の方角だ。よく見よ」

 指し示された方角を見て、織風は息を飲んだ。長い火柱が立ち上っている。

 火柱は、よく目を凝らすと炎ではないことがわかる。もっと細長く、風に揺られるのぼりのようにくねくねとうねっている。赤色をした巨大なムカデが、天に向かってくねっているのだ。その姿のおぞましさに気づき、織風は喉の奥で悲鳴を飲み込んだ。

「あれは……。なんです……」

「我らの放った妖魔だ。永盛城に何十体もいる」

 織風は驚愕の目で、隣に立つ極北王を見つめた。王は静かな表情で、永盛城のほうに視線を止めている。

「いまは永盛城内だけで暴れるように指示しているが、明朝までに城を明け渡さないのなら、穂楽に放つとおばうえに迫るつもりだ」

 城内にいる頻羽と剛毅、珠翡と樹雫は無事なのか。もっとも気がかりなのは鷲星だ。歴戦の天人と式鬼とは違い、妖魔との戦いには慣れていない。

「まさか……。各地で妖魔が暴れていたのも、あなたさまの仕業ですか」

「そうだ。あれは妖魔を思うがままに動かす術の実験だった。討伐にやってきた天人を敵役として、術士たちに実験に当たらせた。ようやく実践で使いものになるめどが立ったので、私が穂楽に戻ってくるのに合わせて、決行を決めた」

 開きなおったのか、あるいは鏑矢が放たれたあとでは言い訳も手遅れだとあきらめているのか。極北王は包み隠さずに語る。

「実験目的ではあったものの、妖魔跋扈の噂でおばうえの評判が失墜してくれたら、兵を動かすまでもないと期待していた面もあったのだがな。そこは失敗に終わった」

 早く穂楽に戻らなければ。すべてが手遅れになる。永盛城を守る龍尾軍に犠牲が出るかもしれない。人間の兵士は、不死身ではないのだ。

「極北王。私は急ぎ永盛城に戻り、術士のお仲間に妖魔を止めるように伝えます。あなたさまのお仲間がこちらに来たら、城には向かわないように伝えてください。今宵はなにも起きなかったことにします。私が愛鸞帝に掛けあいます」

「いや、もう遅い。こうなれば、予定どおり動くことにする」

 火炎に似た巨大なムカデが、天に向かって何本も立ち上がる。城内か、あるいはその付近で、妖魔を操っている術士がいる。一刻も早く見つけ出して、止めなければ。

 杼把を呼び出そうとしたところで城の方角から大きな白い鳥が、こちらに飛んでくるのが見えた。普通ではありえないほど巨大な鳥は霊獣だ。近づいてくるとその背中に、人が乗っているのが見えた。

「鷲星⁉」

 紐を支えに鳥の背に立っているのは、鷲星だった。

 竹林の上空にやってくると、鳥の姿が徐々に薄くなる。高度が落ちたところで鷲星は鳥の背から飛び降り地面に着地する。鳥はそのまま空気に溶けるように消えてしまった。

「あんまり遅いから迎えにきたぜ、織風」

 うっかり買い忘れた日用品を近所の店に調達に出た人を出迎えに行くような気軽さで、鷲星は片手を上げた。

「鷲星……。鷲星……!」

 織風は胸に飛び込むようにして鷲星に抱きついた。おおっと言い、鷲星がよろめく。

「鷲星、もう、会えないかと思った」

 自分でもどうしてそんなことを口走ったのかわからない。無意識のうちに言葉がこぼれ、それで織風ははじめて、鷲星と引き離されている間、不安でたまらなかったのだと気がついた。

「もう平気だ。ちゃんと、迎えに来ただろ?」

 鷲星は安心させるように、織風の頭をぽんとなでる。ほっとした織風は鷲星の体越しに、ムカデの火炎柱が佇立する永盛城を見やった。

「鷲星、永盛城が大変なことに……」

 鷲星は顔を引き締めてうなずく。

「ああ。天人たちが龍尾軍と連携して対応に当たっている。急いで織風を迎えに行けって、さっきの霊獣は珠翡さんが貸してくれたんだ」

「霊獣は主から離れると実態を保ち続けるのは難しいのに。さすがは珠翡さまだな。永盛城からここまで、よくもってくれた」

 珠翡の計らいと鷲星の勇気に、織風は感謝した。

「どうせ戻ったところで、なにもできまいよ。妖魔はいくらでも用意がある」

 白けた表情の極北王が、ふんと鼻を鳴らす。

「ほおー。おまえさんが黒幕だったか」

 鷲星は子どものいたずらを発見したかのような気楽な調子で反応する。軽く扱われて自尊心が傷ついた極北王の顔に、かっと朱が差した。

「だまれ、愚民が! 明日の詔帝の御前であるぞ!」

「鷲星、極北王は愛鸞帝に禅譲を迫るおつもりなのだ。明日までに城を空けなければ、穂楽にも妖魔が放たれる」

「なーるほど、謀反か」

 鷲星にかかると大事も些事だ。ぼわーっとあくびまでしそうな暢気な様子に、織風も気が抜けそうになる。

「そんじゃあ、俺も参加させてもらおうかな」

「な、なにに……?」

 織風は首をひねる。

「だから謀反にだよ。坊主か俺か。次期詔帝にふさわしいのはどっちか選べって、愛鸞帝に直談判に行こうぜ」

「なにをぬかす」

 あまりにも緊張を欠いた発言に、極北王は怒る気力すら萎えている。鷲星はなにを言い出したのだろう。あまりの事態に乱心してしまったのではないかと、織風は心配になった。

「俺は冗談なんか言っていない。俺とおまえの一騎打ちにしよう。ちょっと寄るところがあるから、織風と一緒にさきに永盛城に向かってる。必ず来いよ!」

「馬鹿なことを」

 極北王ははあーっと息を吐いて、やれやれと頭を振った。

「だが、いいだろう。どうせおばうえのところに行くのは変わらない。おばうえとて、きさまには真剣に取り合わぬだろう」

「じゃ、決まりだな」

 鷲星はにこりと笑い、織風にほほえみかける。

「帰りはおまえさんの杼把に乗せてくれ。それと永盛城に戻るまえに、俺の店に寄ってくれるか?」

 織風はうなずき、杼把を召喚する。

「おおっ、ぶよぶよしてる。こりゃきくらげじゃなくて椎茸だな」

 杼把に一歩脚を乗せた鷲星が、その感触をきのこになぞらえて楽しそうな声を上げた。

 織風と鷲星を乗せた杼把が空中に飛び上がる。

 杼把は巨大な風呂敷のような霊獣だ。体の大きな二人を乗せてもまだ余裕がある。主の緊急事態だと心得ているのか、のんびり屋の杼把にしては最大限の加速を見せた。極北王の隠れ家のあった竹林があっという間に遠のき、穂楽の町並みが眼下に見えてくる。永盛城のお膝元からそれなりに距離が離れていたことを、あらためて織風は認識した。

「頻羽さまにいただいた玉佩を、極北王に捨てられてしまったのだ。だから私の居場所を探してもらうのは無理だとあきらめていたのに。鷲星はどうして、隠れ家の場所がわかったのだ?」

「俺は借金取りだよ。とんずらしたやつの行きそうな場所がわかると言っただろう?」

 なるほど。お役目により磨かれたすばらしい能力なのだな、と織風が感心しかけたところで、

「嘘だよ。どうして俺がおまえの居場所がわかったのか。店に着いてから話そう」

 と、鷲星はあっけなく言った。朱塗りの穂楽の正門が、もう見えている。

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