第5話

 また五日が経過した。鷲星と約束した酉の刻に、織風は大鷲団に姿をあらわした。

「よう」

 部屋の戸口に顔を見せた織風に、鷲星は片手を上げてあいさつをよこす。椅子に背を斜めにもたせ、机にだらしなく両足を乗せた格好で、うまそうに煙草を吸っていた。

「そういうものを吸うのだな」

「たまにな。疲れたときに吸うと、ふっと張り詰めていた気が抜けるんだ」

 鷲星はとん、と灰皿に白灰を落として、煙のくすぶる管を置いた。

「茶を飲むか?」

「ああ、そうしよう」

 てっきり階下で茶を淹れて戻ってくるのかと思っていたが、急須と椀を乗せた盆がすでに、露台に用意されていた。

「最近、蒸し暑いからな。さっぱりしたくて水出しにした」

 硝子製の急須に、水分を吸ってほぐれた茶葉が沈んでいる。真夏の草原地を思わせる爽やかな緑色をした液体を、鷲星は茶碗に注ぎ分けた。

「商いはうまくいったのか? 今日、大きなお客が来たのだろう?」

 茶をひと口嚥下してから尋ねた。しゃべると、茶葉のにおいに花の蜜のようなにおいが混ざり、鼻から抜けて気分が安らぐ。煙草を吸うと気が抜けるのも、きっとこんな気分なのだろうなと織風は想像した。

「ああ、大成功。最近、家を建て替えたから装飾によさそうな店の品をまとめて買い取りたいって富豪の客だったんだ。一度に引き取ってくれて、今月は潤ったな」

 月初に乞縁節のあった月も、もう半分を過ぎるころだ。これからますます、暑さが増す。

 商売がうまくいって上機嫌なのか、鷲星は終始、気分がよさそうだった。顔が普段よりもほがらかにゆるんでいる。

「仕事の話を覚えててくれて嬉しいな」

「それは、覚えているに決まっているだろう。たった五日まえのことだ」

「たった五日か。俺にとっては、このうえなく長い五日だったけどな」

 鷲星は頬杖で首をかしげて、じいっと織風の顔を見つめる。優しさをたたえた視線を浴びているとなぜだか居たたまれなくなり、あからさまに視線を逸らしたと疑われないさりげなさを装い、織風はふい、と軽く下を向いた。

 急須に残っていた茶もすっかり尽きたころ、鷲星から補血の誘いがかかった。

「どうせ飲むんなら、せっかくだからさ」

 今夜は相当、気分がいいらしい。鷲星が調子に乗った。織風を立たせて、背中と膝の二点で抱え上げると、寝所へと移動する。寝台にどさりと織風を降ろした。

「こんなところでか? 血が滴ったら、敷布が汚れてしまわないだろうか」

「かまわない。血の補給は夫婦の大事な営みだ。寝所こそ、その場にふさわしい」

 わざと大真面目な顔をして、とんでもない冗談を口にする。

「だからきみは、どうして房事になぞらえたがるのだ……」

 気分がげんなりとして目を閉じた織風を、鷲星は笑い飛ばした。

 人は繁殖のため、性的な営みを必要とする。営みを通じて、互いの愛情も確認する。知識としては知っていて、ふうんそうなのかと納得していたが、いざ自分が房事の当事者のように扱われ、しかも相手は鷲星であることも手伝うと、どうも気分が落ち着かない。

「あのなあ。俺は腐っても式鬼だ。このさき、相手はおまえさん一人にお仕えしなきゃならない。だったら戯れに、夫婦の真似ごとして気分を満たすくらい協力してくれるよな?」

 織風の良心を鋭利な鍬でぐさぐさ刺しておねだりを通そうとするときの、人の悪い笑みを鷲星は浮かべていた。

 寝台に仰臥したところを、鷲星に上から覆いかぶさられる。期待感に満ちた視線の圧に追い立てられるようにして、織風は手の平を傷つけた。いつものように手の甲でないのは単純に、手首を上げていれば腕に沿って血が流れるのを目で追えるので、うかつに布団を汚すこともないだろうと思ったからだった。

「そんじゃ、いただきます」

 織風に覆い被さると、顔のまえに差し出された手に鷲星は顔を近づける。ちろ、と鷲星の舌が手の平に這う。内側のほうが触覚が発達しているためか、普段以上に舌のぬめりや熱さがよく伝わってきて、感触の違いにおどろいた。

(いつもと、感覚が違う……)

「おまえの血は甘いな。飲むと頭がくらくらする」

 早くも鷲星はうっとりと目を閉じ、酔ったような様子だ。頬をすりつけ、一滴も漏らすまいと舌を大胆に伸ばして手を舐める。いささか、見境なく餌にむしゃぶりつく野良犬じみていた。

 手の内側がくすぐったい。けれどいまさらやめてほしいとは言えない。言ってしまえば、制止した理由を問われることになる。くすぐったいのでやめてほしいと言うのは、なぜだかものすごく恥ずかしい申告をしているような気持ちになり、言い出せなかった。

「……ぁ……」

 かすかな声が漏れて、織風はあわてて袖で口を押さえた。くすぐったくてつい、声が漏れてしまっただけなのだ。たいしたことではないと自分に言い聞かせる。

「ふうん?」

 織風の反応が面白かったようで、鷲星は鼻を鳴らす。織風の手をもむようにして開かせると、指の股を舐めはじめた。それも丁寧に、親指と人差し指の間からはじまり、ひとつひとつの水かき部分を執拗に舐める。

 織風は袖の下で懸命に、ふっと息を押し殺していた。気を抜くとおかしな声が漏れてしまいそうだった。そんなところに血液は付着していないのに。文句を言いたくとも、口を開いたらおかしな声が飛び出てしまいそうで、制止できずにいた。

 舌が薬指と小指の間に到達したところで、ちろちろと舌先に微細な振動を加えられた。もう耐えきれなくなった。

「あ……っ、ふ……ぁ……」

 織風はたまらず声を漏らしていた。確実に鷲星にも聞かれた。顔がかーっと赤らむ。

「ごちそうさん。うまかったよ」

 織風が羞恥で身動きできなくなっていたところで、あっさりと解放された。鷲星はさっさと寝台に身を起こし、跳ね上がるようにして立つと露台の戸を閉めにかかる。自分ばかりが動揺していたようで、余裕の態度がうらめしかった。

「今晩はどうする? 部屋を貸すか?」

 織風はむくりと身を起こして、わずかに寝乱れた着物を整える。

「いや、明日の朝のおつとめをだれにも引き継いでこなかったから。今日は帰る」

 天人誕生の日課を口実にできてよかったと、織風は安堵しながら立ち上がった。

「次はまた五日後か?」

「ああ」

「じゃあ――」

 酉四つのときに来てほしいと鷲星に指定された。

「早いが遅れるなよ、織風。遅刻したら……次は閨での仕置きを追加させてもらうか」

 顔を見ずとも声の調子から、口元がおかしそうに、にたにたとゆがんでいるのが想像できる。閨での仕置きなど、どれほどいやらしいことをされるのか、わかったものではない。

「約束は違わないよ。ちゃんと酉の刻に来る。では」

 そっけない別れを告げ、織風は部屋をあとにした。鷲星に押し倒され、おかしな声が出てしまったことに動揺しつつ、ふらつく足取りで階段を降りた。


「すまないっ! どいてくれ……!」

 衣を揺らして、穂楽の大通りを織風が駆ける。早朝から仕込みをはじめた露天商や、配送人にぶつかりそうになるたびに謝り、また走る。この大通りを抜けて小道に入れば、目指す大鷲団はもうすぐだ。

 うかつだった。

 前回の逢瀬からまた五日が経過した約束の日。

 この日は地上への出発まえに、翠藍から頼まれていた帳簿提出をする予定だった。薬剤の買い出しなど、地上の貨幣を使用する場面がある。翠藍は天人の長である立場を利用してただで品物を入手することはなく、ちゃんと対価となる金銭を支払う主義で、配下の天人たちにも徹底させていた。織風は自身が地上で消費したぶんの出納記録につき、翠藍に提出予定だった。

 まだ夜も明けきらないうちから起きだして、帳簿に誤りがないか最終確認をする。そのあとで、日課である天人誕生の確認もすませてしまった。この日のお役目はすべて終了だ。思いのほか時間がかからなかった。鷲星との約束の時刻は夕刻なので、まだまだ余裕がある。しばらく二度寝をしようかと寝台に横になったところで、聞き間違いをしていたことに気がついたのだ。

 あの晩、閨で手を舐められ、あられもない声が出たことで動揺してしまい、頭がぼうっとしていた。てっきり、その晩と同じ酉の刻に来いと指定されたのだと思っていた。ところが鷲星の発言を思い返してみると、「早いが遅れるなよ」とわざわざ付け足していた。待ち合わせが夕刻ならば、そんなことは言わない。酉の刻ではなく、寅の刻と指定されたのだ。

 両頬を手で押さえ、ぎゃーっと声に出さずに叫んだ。地上も夜明けが近いではないか。約束の時刻が迫っていることに絶望する。すこしでも遅れたら、仕置きを追加される。ただのお使いならばいくらでもこなしてやるが、今回は房事の真似事をさせられるに違いない。

 その仕置きは織風が望まないものだ。夫婦同士が愛の営みをするように、鷲星と向かい合い布団に寝転んでいるのでさえ、ものすごく気まずいのに。あれ以上大胆なことをさせられたら、頭がどうなってしまうかわからない。

 織風は杼把に乗り急いで蓮花天を降りると、穂楽の町を駆け抜け、そしてなんとか、約束の時間ぴったりに鷲星の部屋へと飛び込んだのだった。


 部屋に飛び込み、ようやく織風の息が整いはじめたところで、言葉にたっぷりとからかいをまぶした鷲星に言われた。

「いやー、時間を勘違いしているみたいだったから。夜まで来ないかと思ってた」

 鷲星は織風が聞き誤ったのを承知でいたらしい。だったらあのとき、呼び止めて確認してくれればいいものを。織風が本当に気づかないままだったなら、好きな仕置きを追加できるうまみがあると思って、あえてだまっていたのだろう。

「本当に人が悪い」

 織風はむっとして唇を尖らせる。

「そう怒るなよ。いつ気づいた?」

 気安く近づき、まだ汗が引かないままの織風を鷲星は抱え上げる。大半の人はまだ寝ている時刻にもかかわらず、鷲星の目はぱっちりと開いていて、昼日中と変わらないくらい覚醒していた。

「……待ち合わせの時刻を思い返していて気づいたよ。しかしなぜ、今日に限ってこんなに朝早いのだ……」

 まずは間に合ったことの安堵感。それから全力疾走したあとの疲労感で、織風はぐったりとした。不覚だったが、鷲星の胸板に上半身をあずけると体が楽だった。

「朝飯。朝しかやってない店があるから。そこに連れてってやりたくてさ」

「あああ、そうか……」

 鷲星の優しさが徒になる。

「お、汗のにおい」

 鷲星が首筋に鼻を突っ込んで、余計なことを言った。かーっと顔を赤らめた織風が腕のなかで暴れ出すまえに、ふわりと寝台に降ろす。

「お疲れのところ悪いんだけどさ。忘れないうちに、いいか?」

 織風は無言で帯の隙間から小刀を取り出した。手に向けていた刃物の向きさきを変え、腕に向ける。手は敏感すぎることがよくわかったので、避けるつもりだった。

「腕じゃなくて手の平にしろよ」

 鷲星は不満そうだ。織風の手首を握りしめ、舞踊をさせるようにふらふらと揺する。

「どうして。血を舐めるだけなのだから、どこでもいいだろう」

 どうも織風に関してだけ、鷲星はわがままになる傾向がありはしないか。さすがに織風も気がつくほど明白だ。織風の申し訳なさにつけこんで利用できる優位な立場にいるので、つい態度が大きくなるのかもしれない。

「どこでもいいのか? だったら太ももとか尻にするか! どうせなら、舐めていて楽しいところがいいからな」

(くうーっ……!)

 元気よく言い放たれた脅しに屈して織風は、すなおに手の平に刃を押し当てた。

 いつもと同じ深さに切り込んだはずが、走ってきたせいで血のめぐりがよくなっているのか、傷から流れる血流が速い。

「おっと」

 敷布に滴り落ちるまえに、鷲星が舌で受け止めた。鷲星は織風の手を軽く握り、口に押し当てるようにしながら舌を這わせる。その間、織風は必死に鷲星の舌から気を逸らした。

「なんだか今日はいつにも増して、血が熱く感じられるな」

「そうか? 走ってきたからだろうか」

(そういえば、汗のにおいを嗅がれてしまったな……)

 織風は鷲星に取られていない右手で首筋にそっと触れ、汗が引いたことをたしかめる。傷口をうまそうに舌でなぞっていた鷲星に目ざとく見とがめられ、たっぷりとした髪の付け根に鼻先を差し入れられた。

「さっきも思ったけど、ここ、甘いにおいがする。おまえさんは汗まで甘いんだな」

「っ……! やめるのだ、鷲星……」

 抵抗も迫力不足だ。鷲星は図に乗って、織風の細い首筋に唇を押し当てるような真似までする。

「戯れが、過ぎる」

 徐々に黎明の薄明かりが差し込みはじめた鷲星の寝床で、見つめ合い、性の交わりになぞらえて、おのれの体を餌として捧げる。その行為は淫靡さに満ちていて、人目を忍ぶべき要素があまりにも多い。鷲星の興が乗るなら好きにすればいいと思っていたが、度を超すと取り返しのつかない事態になりはしないかと危惧する。友人同士で、越すべきではない一線がある。

「おまえさんの血は甘い。体からも蜜みたいな、甘くてうまそうな、いいにおいがする。ここも、ぷりっとしてうまそうだ」

 鷲星の人差し指が、赤く色づき、ぷくりとふくらんだ織風の唇を押す。

「いつも、かじりつきたいって思ってる」

 本心なのか。それとも血に酔っているからこその戯れ言か。

 織風が困惑するようなことを口にして、鷲星は織風と額を触れ合わせた。鼻先が軽く触れる。もう唇が接触するのではないかと思える近さに、織風はびくびくした。

 なんだか鷲星の様子がおかしい。本当に酒に酔っているかのようなとろんとした目つきで、声は夢見心地に、ふわふわと雲間に浮いているかのようでなんだか頼りない。

(あの話は本当だったのだな……)

 ――対の式鬼にとって、天人の血は精力剤のような作用があるらしいという、頻羽の話。

 織風の血を飲み、鷲星の体には活力がめぐり高ぶっている。相手への好意によっては、まるで催淫剤のような効果をもたらすと頻羽は言っていたけれど――。

 そうか、友情としての「好き」もその好意の範疇に含まれるのだなと、織風は自分を納得させた。

「織風」

 甘えたように名前を呼ばれて、こめかみから頬、首筋に鷲星が唇を触れさせる。鷲星の触れたところから甘いしびれが全身に広がり、織風の肌がぞく、ぞくと震えた。

 震える肌の感覚の、深淵を探るのがこわかった。房事の模倣をされているのに、決していやな気分ではない。むしろ鷲星が触れてくるのが心地よくて、もっとたくさんの場所に触れてほしくなる。これまでだれにも、さらしたことのない場所を暴かれたいと、切なく願ってしまう。興奮した鷲星から早く逃れなければと思うのに、まだ心地のいい感覚に身をゆだねていたい欲が勝る。自分のなかにそうした情欲の萌芽が育っていることに、織風はうろたえた。

「っ……」

 ちりっと、胸のさきが痛くなった。

「どうした?」

「い、いや……。なんでもないよ……」

 本当は異変を感じた。針でぴゅっと刺されたような痛みを乳のさきに感じてから、じくん、じくんと疼痛が続いている。ひどく痛くて、痛むところを鷲星が噛んで、気をまぎらわせてくれないだろうかと一瞬、とんでもないことを考えた。

「ここから甘いにおいがする。蜂蜜をたくさん入れた、牛乳茶みたいなまろやかなにおい」

 すん、と鷲星が胸元でにおいを嗅ぐ。餌を求める式鬼の嗅覚をあなどってはならない。幾重にも着物を重ねた奥で生じた異変に気づかれたのかと、ぎくりとした。

「記憶は戻ったか?」

 切ない声で、唐突に問われた。なぜいまなのだと織風が困惑する時分に前世のことを問われたのは、これで二回目だ。

「いや、あいかわらずだが……」

 乞縁節の晩に織風は、どうか鷲星の願いがかないますようにと祈りの短冊に書き付けた。自分のことはなにもお願いしないつもりでいたが、せっかくなのでと気が変わり、その隣にやや小さめの字で、どうか私の記憶が戻りますようにと追記しておいたのだ。天燈は高く飛んだのに、いまだに天帝が織風の願いを聞き届ける気配はない。

「そうか……」

 熱を帯びた鷲星の声に、哀切がにじむ。

 ぎゅっと下半身が密着し、織風ははっとした。鷲星の股間のものが大きくふくらんでいる。衣服越しに押し当てられても、その大きさと熱がはっきりと伝わってきた。

 この男は、私に欲情している……。

 いつか運命の人とめぐり合い、家庭を築きたいと天帝に願いをかけたはずの鷲星が、友人の織風に欲情する。鷲星は織風の式鬼だから。対の天人の血は精力剤となるから。

 鷲星は地上で、はじめてできた友達だった。織風が頼りないので小言めいたことを口にしつつも、なんだかんだと世話をしてくれる優しい人だと思っていた。態度がそっけないのは、織風に余計な気を遣わせないための配慮なのだととっくに気がついていた。

 運命は皮肉だ。運命は残酷だ。織風は鷲星のことを友人として好いているのに。好きだからこそどうにかして彼を、彼の望む幸せの岐路に戻してやりたいと願ったのに。いまや鷲星の情動でさえも、織風の支配下にある。

「血を飲むと、気分が高ぶってどうしようもなくなるんだ。織風」

 鷲星はなにかをねだるように、べったりと甘えた声でささやきかける。

「なあ、俺にもっと餌をくれ」

 鷲星は甘い香りの根源をたどり、織風の着物の合わせ目に手をかけて、左右に開いた。

「待って、鷲星……!」

 ぬくもった肌が夜明けまえの清麗な空気にさらさた。あわてて着物をかき合わせようとしたところで、両手首をつかまれ、敷布に縫い止められた。

「織風、なんだこれ」

「なに……?」

 鷲星がぎらぎらと熱をたぎらせて視線を注ぐほうを見て驚愕した。乳のさきから透明な蜜がにじんでいる。さきほど乳がつーんと痛くなった理由がこれか、と把握して、頭がくらくらした。

 蓮花天では翠藍に頼まれた雑務をこなしつつ、対の契約を解く方法がないか調べようと、空いた時間で書庫に通い詰めた。そのなかで、式鬼の餌は血液のみではないこと。天人の血液から作られ、その体から分泌される種々の蜜もまた、極上のごちそうになることを学んだのだ。でも蜜の精製が、まさか自分の身に起こるとは考えもしなかった。

「鷲星、見ないでほしい。すぐに拭くから」

 あわてて身を起こそうとしても、寝台に磔にされたように手首を固定され、下半身は鷲星にのしかかられてまるで身動きができない。穴が空くほど凝視される羞恥に耐えていると、つうん、と乳のさきに感じる疼痛が強まった。蜜がにじむ経路が拓いたためか、乳首がいつもよりも大きくふくれ、また色も濃くなっている気がするのもまた、織風を恥ずかしくさせた。

「血と同じにおいがする。もう、我慢できねえ」

「あ……、うそ、や、やめろっ……! 鷲星……!」

 織風が悲鳴を上げるのも意に介さず、興奮をたぎらせた鷲星は胸のさきに吸い付いた。蜜の滴を丁寧に舐め取り、ちゅぱちゅぱと吸い上げる。

「いやだっ、いやだ――」

 織風は頭を振り、じたばたと抵抗した。抵抗とは裏腹に、乳のさきからはあとからあとから蜜がにじみ、受け皿をなくして腋窩までこぼれるほどだった。

 右と思えば今度は左に。見境なく吸い付く鷲星の下半身が重量を増した。このままでは犯される、とさきの展開に恐怖して、織風の頭が冷えた。

 乞縁節の晩に話をしながら、天燈に火を灯して一緒に飛ばしたのは楽しかった。天人だからといって、鷲星は織風を特別扱いしない。対等な目線で話をして、そばにいてくれる。それは心地のいいことだったのに。鷲星といるとどことなく安心して、くつろいでいられたのに。

 友達だと思っていた人から欲情を向けられる。鷲星が織風の血液を餌として、高ぶるからだ。一線をあっさりと飛び越え、友人同士ではあってはならない行為に手を染めようとしている。これもまた、鷲星を式鬼に変えてしまった罰なのか。友情が壊れることもまた式鬼の代償というのなら、あまりにもむごい。

 式鬼を誘う蜜を胸から分泌し、恋人同士がするような愛撫をされて、きっと織風が恥ずかしい思いをしているだろうと気遣えない鷲星ではないはずなのに。こうして辱められるのもまた、鷲星の命をもてあそんだ罰だというのか。

「もうやめてくれ、鷲星……」

 興奮しきった鷲星から、やけに意地になっているような気配がするのを織風は肌で感じた。血液で酔っているせいだけではない。こうして織風を辱めて追い詰めるのには、鷲星の意志も混ざっている。

「……私に対して、怒っているのなら……ちゃんとそう……言ってほしい……」

 織風の頬を涙が伝い、枕に落ちた滴が点を描いた。

「式鬼にしたことを、本当は怒っているのだろう……? 夫婦の真似事でいやがらせをしなくとも直接、責めてくれたほうがよほど、よほど……!」

 楽なのに。そう言おうとして続きは言えなかった。怒りを直接ぶつけてくれたほうが楽だからそうしろと口にするのは、あまりにも織風に都合がよすぎると思ったのだ。

 本心を隠したまま、俺がおまえさんを翻弄するのにつきあえ。それが対の契約への罰だから。

 鷲星がそう希望するのなら、織風はとことんつきあうしかない。鷲星はなにも悪くないのだ。鷲星がせめてもの憂さ晴らしをしたいのなら、織風には従う義務がある。 

 織風の選択は間違っていたから。その報いを受けなくてはならないから。ただ、対の契約によって二人の間にある友情が壊れてしまったことだけは無性に悲しく、すがれるのであれば慈悲を請いたかった。

 ふっと全身にかかっていた重圧が軽くなった。鷲星が身を引いたのだ。

「悪い。つい、見境をなくした」

 鷲星は冷静さを取り戻したようで、寝台に腰かける。気まずさからか、頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。

「怒ってない」

 ふうっと息をつき、鷲星が言葉を漏らした。

「俺を式鬼に変えたことについては、怒っていないよ、織風。本当に怒っていない」

 鷲星から、半月ほどなにも食っていない獣のような貪欲さがすっかり消えている。理性を取り戻したのだ。だから「怒っていない」という言葉に嘘はなさそうだった。ただ、「式鬼に変えたことは」と怒りの範囲を限定したのがやや引っかかる。

「ではなにに対して、怒っているのだ」

 織風はゆっくりと寝台に身を起こし、胸元ががばりと開いた着物をかき合わせた。露台を向いて寝台に腰かける鷲星の表情は見えない。

「おまえさんが、俺を愛していないからだ」

「愛……」

 想定していたどの答えにも当てはまらない回答が返ってきて、織風は眉をしかめた。

「愛してほしいのか……? なぜ私に……?」

 愛を乞われても、わからない。織風はだれかを愛したことも、愛されたこともないのだ。鷲星には好意を抱いているが、それは鷲星の求める愛とは質の違うものだとわかる。

 鷲星が首だけひねり、寝台のほうを振り返る。口元には、いつもの皮肉げな薄い笑みが浮かんでいる。けれど目はまったく笑っていなくて、織風はぎょっとした。暁天の薄明かりに照らされたその瞳は、どこまでも酷薄な光を宿しており、氷柱の切っ先のように冷たかった。

「おまえさんはなんにもわかっちゃいない。でも、それはおまえさんだけが悪いわけでもない。俺は、この状況を打開できない俺自身にも腹を立てている」

 織風を責めつつ、一方で寛容を示す鷲星の発言はあまりにも抽象度が高い。結局、なにが一番の怒りの根源なのかについて、なんの示唆になっていない。

「鷲星、怒っていることがあるのなら、ちゃんと教えてはくれないだろうか。変にはぐらかされても私は、なにもわからないままだ」

「いやだね。自分で考えるんだな」

「鷲……」

 織風が追加でなにか問いかけるまえに鷲星は、織風の二の腕を軽く叩いて寝台の外へと追いやると、さっさと横になってしまった。

「体に気がめぐりすぎたらしい。このまま動くとめまいがしそうだからすこし寝る。悪いな、織風。せっかく早起きしてもらったのに、朝飯は連れていけそうにない」

「……それは、気にするな」

 これ以上、なにも話すつもりはなさそうだと、織風は嘆息した。

 織風は鷲星を愛していない。織風が鷲星を愛していないことが、鷲星には不満だ。それでどうして怒るのだと、頭が疑問でいっぱいだ。

 運命の人と巡り会いたくて乞縁節に願いをかけたのではなかったのか。式鬼になってからというもの、妻を娶り、普通の家庭を築くことへの憧れを、織風への当てつけに混ぜ込んで散々、口にしていたではないか。

 それなのに――どうして織風の愛を希う?

「なぜ私にこだわるのだ」

 疑問がふくれすぎた。返事はないだろうとわかっていても、問わずにはいられなかった。

「私には、人の愛がわからない。これまでだれかに恋したことも、愛したこともないのだ。私がきみを愛していないのが不満ならば、どうしたらきみを愛したことになる……?」

 いままでだれかに恋い焦がれたことなどない。人を愛する気持ちが、織風にはわからない。誕生のために性愛を媒介としない天人に、人の愛を説いたところでむなしいだけだ。人間と天人は種族が違う。人間の愛の概念など、天人にはない。

「……いまのは傷つくな。おまえさんが俺を愛していないことが、決定的になっちまった」

 肩まで敷布をかぶった鷲星から、くぐもった声が返ってきた。どうやら失言してしまったようだと織風は嘆きつつ、かといってどう訊けばいいのかもわからなかったから、どうしようもない。寝台のそばに棒立ちになり、次の言葉を待つしかなかった。

「愛がどういうものかなんて、教えてやらない」

 織風に背中を向けて横寝をした鷲星は、冷たく言い放った。

「約束を忘れちまう粗忽な天人になんて、だれが教えてやるもんか」

「約束……?」

 五日ごとに通って血を飲ませる。約束の刻限までに姿をあらわし、ついでに鷲星の頼みごとを聞く。いつも織風は、鷲星との約束ごとを果たしてきた。なにか織風が忘れていることがあるのか。鷲星と交わした会話をたどってみても、思い当たる節がまるでない。

 今日の鷲星は、なんだかおかしい。

 血を飲んで興奮したことを隠そうともせずに迫ってきた。なのに、織風が鷲星を愛していないから怒っているのだと宣言して、どうして織風の愛にこだわるのかについては理由をはぐらかす。

 わからない、と思った。鷲星のことがわからない。式鬼にされたことを怒っていないと言いながらも、やはり怒っているではないか。でも怒りの真の理由については、話してくれない。尋ねることさえ、鷲星をむっとさせるようだ。

「……俺はもう寝る。次はもう、時間を指定しない。おまえさんの好きな時間に来ればいいさ」

 それきり、鷲星が言葉をかけてくることはなかった。

 会話が妙なところで途切れて、落ち着かない。織風は衣擦れの音を大きくしないように注意を払いながら、部屋を出ていった。そそくさと逃げるように立ち去ったのだと、思われたくはなかったから。

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