第4話

 頭上から垂らした血液が数滴、鷲星の口に入る。織風の手のひらの傷は端から徐々に回復し、やがて皮膚が完全に癒着した。鷲星が式鬼になったように、織風もまた不死身の天人になったのだ。体につけた傷は残ることなく治ってしまう。

「……私は、なにを……」

 傷が癒えるのを見てようやく、我に返った。そして、おのれのしでかしたことのおそろしさを自覚した。なんということをしてしまったのだろう。自ら選んだ過ちが、たちどころに織風を苛む。

 織風は鷲星と契約を結び、式鬼へと変えた。これで二人は、ひとつの命を永久に分かちあう対となったのだ。織風が鷲星を殺さない限り、あるいは鷲星が織風を殺さない限り。この縁は永遠に続く。

 ――まだ、生きたいか。

 ――では私と、永遠の生をともにする覚悟はあるか。

 そうやって鷲星の意思を確認することなく、織風は勝手に式鬼へと変えてしまった。仕方がない。どうしようもなかったのだ。鷲星は死にかけていた。回復の術では、鷲星の怪我は治せなかった。このままでは鷲星が死んでしまうと必死だったのだ。

 なにがあるべき選択だったのだろう。目のまえで死にかけている人がいるのに、見殺しにするしかなかったというのだろうか。

 式鬼の餌となる天人の血には即効性があるらしい。先刻まで死にかけていたのが嘘のように、鷲星はゆっくりと目を開いた。

「鷲星……っ」

 なんと申し開きをすればいいのだろう。どこから説明すれば納得してもらえるのだろう。鷲星はそんなことを考える暇も与えてはくれなかった。勢いよく立ち上がると、洞窟の天井に向かい一度、大きく吠えた。

 野獣のような声に、びりびりっと鼓膜がしびれる。力の有り余った獣が興奮で狂わないように。体をかけめぐる熱を放散させるために発する咆哮だ。

 声を出し切ると鷲星は六面のいた方向へと疾走する。その動きは、目で追うのが困難なほど速い。大きく飛び上がる。なんの術もかかっていないにもかかわらず、さきほど織風がかけた飛躍の術で飛び上がったのと同じくらいの高さまで飛んでいる。人間の身ではありえない跳躍力だ。鷲星は空中で拳を大きく振りかぶると、落下する勢いを保ったまま、六面の倒れていたあたりに生身の拳を叩き込んだ。

 巌が割れて、がつんと地面が揺れた。

 鷲星はまた飛び上がると、空中で回転しながら地面に蹴り技を見舞った。ずうんと地面が震動する。壁から天井まで振動が響き、頭上から崩れた岩壁の残骸がぱらぱらと舞った。

「鷲星! なにをしているのだ! 鷲星!」

 織風の呼びかけには応えず鷲星は、なにもいない空間に向かって無茶苦茶な攻撃を繰り出し続けている。まだその場に、六面がいると錯覚しているのだ。主である織風に徒なす存在を駆逐するために暴れまわっている。

 我を忘れた鷲星が暴れまわるのは、織風が血を与えたからだ。対となった天人の血は、途方もない活力を式鬼に与えるのだという。

「鷲星! もうやめてくれ!」

 鷲星の主人は織風なのに。鷲星は織風の静止を聞き入れない。あまりにも激しい破壊衝動に、織風はぞっとした。鷲星は人を超えた存在になったのだ。

(……私が化け物にしてしまった……。鷲星を)

 このまま鷲星が暴れ続けると、洞窟全体が崩落する危険がある。どうすれば、と織風の心細さが最大に達したところで、

「静まれ!」

 背後から聞き覚えのある凜とした声が響いた。頻羽の声だ、と認識するのとほぼ同時に光の矢のようなものが飛んでいき、宙を舞う鷲星に命中する。矢を受けた鷲星はすぐさま力を失い、地面へと失墜していった。

「あっ……!」

 織風は空気の膜を作り、墜落する手前で鷲星の体を受け止めた。着地させたところにあわてて駆け寄り、鷲星のかたわらにひざまづいて様子をたしかめる。さきほどまでの戦の神のごとき暴れぶりが嘘のように、鷲星はすうすうとおだやかな寝息を立てて眠っていた。

 力が抜けて織風ははーっと息を吐き、座したまま背中から地面に向かって潰れた。はたから見ると、鷲星に向かって土下座をしているように見えなくもない。

 織風の背後から頻羽と、剛毅が近づいてくる。頻羽が光の矢を放ち、鷲星は頻羽の術を受けて、眠らされたのだ。

「ものすごい力の波動を感じて駆けつけてみれば……。織風よ。一体なにがあった?」

 暴れまわる鷲星。なすすべもなく立ち尽くす織風。たったいま目にした奇怪な状況を飲み込めないようで、振り仰いだ頻羽の顔が当惑していた。


「いやー、あんたらに礼を言うよ。おかげで、朝から飯がうまい!」

 鷲星は元気に飯をかきこみながら礼を言い、同席した織風、頻羽、剛毅は顔を見合わせた。三人がおどろくほど、鷲星は朝からよく食べた。

 妖魔討伐のお役目を終えて穂楽に戻るところだった頻羽と剛毅は、七曜山の山頂から、大きな妖魔の気配を感知した。まだ翠藍から命は下っていないが、首都に近いところで感知した以上、ほうってはおけない。頻羽の天馬で急ぎ駆けつけてみると、いつの間にか妖魔の気配は消えて、代わりに呆然と立ち尽くす織風と、なにもない空間に向かって暴れまくる鷲星に出くわした。

 頻羽の術で昏倒したまま、杼把に乗せられ穂楽の大鷲団へと運ばれた鷲星は、昼過ぎから翌朝までいっさい身じろぎすることなく眠り続け、朝になるとすっきりと元気よく目覚めた。そして、様子を気にして店にとどまっていた織風、頻羽、剛毅の三人を誘い出すと、李食堂の朝食にありつこうとやってきたのだった。これもやはり式鬼になった影響か。昨日死にかけたのだとは思えない、驚異の回復ぶりだった。

 織風と頻羽。天人が二人もいるとさすがに目立つので、静かに飯を食いたいだろうと気を利かせた李夫人は、二階席の奥にある半個室に四人のための座席を設けてくれた。李夫人の店は朝から朝食目当ての客足が絶えない。鷲星が何度もお代わりに呼ぶので、夫人は厨房とほかの客席とを行ったり来たりで大忙しだ。

「いつも以上によく食べるね、あんたは」

 李夫人はあきれつつも嬉しそうに、どんぶりになみなみと注がれた粥を差し出す。

「今朝はなんだか不思議でな。無限に飯が入るんだよ。食っても食っても満腹にならないんだ。おばさん、揚げ餅もお代わり!」

「はいはい」

 李夫人と鷲星のやりとりに、織風の表情が引きつった。頻羽と剛毅もこわごわと織風を見つめ、「まだ式鬼になったことを言っていないのか」と遠慮がちに瞳で問いかけている。

(朝までずっと眠ったままだったのだ……。話す機会がなかった……)

 まだ朝のうちで気温が上がりきっていないなかだというのに。織風は頭から大量の汗をかき、塩飴にでもなってしまいそうだった。

 だいたい、どんな顔をして告げればいいのだ。

(鷲星、きみは――式鬼になったのだ。永遠に死ねない体になって、人ではなくなったから、飯も必要としない。天人が人の飯を食らうのと同じように、きみが口にするものは、喉を通過するまえにどこかへ消えてしまう。だからいつまでも満腹感を覚えることなく、朝食が際限なく入るのだ――)

 説明の仕方を頭のなかで練ってみて、これじゃないと織風は頭をぶるぶると振る。

「なんだ? 織風。水を浴びた犬みたいになってるぞ」

 さじで粥をよどみなく口に運びながら、鷲星が笑って軽口を叩く。

「その、鷲星」

 秘密を隠したままでいる重さに耐えきれず、織風はとうとう口を開いた。

「あのとき、きみは六面に背中を刺されただろう。どうしていまも生きているのだと思う?」

「ん?」

 鷲星は軽く斜めうえに視線を這わせる。

「それはそっちの、頻羽さんと剛毅さんが助けてくれたんだろ?」

「いや……。私たちはきみを眠らせて、穂楽に運んだだけだよ」

 どう説明したものか。ちらちらと織風と視線を交わしつつ、頻羽が核心に触れないところだけを端的に答える。

「じゃあ、織風が助けてくれたのか! ぼーっとしているようでさすがは天人だな。回復の術なんかも使えるんだろう?」

 ぽん、と手を打ち鷲星は、にこにこ笑顔で織風を見つめる。

(……言い出しづらいのだが……!)

 織風は作り笑顔を浮かべつつ、どう切り出したものかと思案した。

「その、鷲星。私は、きみに謝らなければならないことがあるのだ」

 織風が助けてくれたことになんの疑問も抱かない鷲星に対して、良心が痛んだ。織風は観念して、すべてを白状することにした。

 妖魔に殺されかけた鷲星を救うため、織風は鷲星と対の契約を交わし、おのれの式鬼としたこと。対となった天人と式鬼はひとつの命を分かち、お互いがお互いを殺す以外には、死ぬ手段がなくなること。

 式鬼は主となった天人に隷属し、生き延びるためにその血を糧として必要とする。血は五日おきに必要となり、万が一、六日を超えて血を与えられないと、式鬼は徐々に弱って死に至る。天人の血を糧とするので、人間の飲食物はもう必要としない。だから満腹にはならない。鷲星はもう、人ではなくなったのだ。

「私に回復の術が使えていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。力不足を、本当に申し訳なく思っている」

「ふーん」

 話を聞き終えた鷲星はたいして興味もなさそうにあいづちを打つと、飯の続きを口に放り込んで、頬をいっぱいにふくらませながら咀嚼した。

「鷲星殿。突然のことで混乱しているだろうが、式鬼になったことはくれぐれも内密に頼む。むやみに広めてはならない、蓮花天最大の秘密なのだ。永遠の命を得ようと、我々を利用しようとする輩がいるかもしれないから」

「おう、わかった」

 頻羽が頼むのにも、鷲星は鷹揚にうなずく。

「そ、それだけか……?」

 どうして俺を勝手に式鬼に変えたのだ。不死身なんて望んでいなかったのに。

 そう言って激高されることを覚悟していたのに。あまりに反応があっさりしているので、これには織風が拍子抜けだ。

「鷲星殿。そう、あまり悲嘆されるようなことでもない」

 衝撃が強すぎて逆に反応が淡泊になっているのではと疑ったのか。剛毅が口を挟む。

「式鬼になったとき、はじめは俺も戸惑ったものだ。けれど、敬愛する主に終わることなく仕えられるというのは、それはそれですばらしいことだと……」

「剛毅。宗教の勧誘みたいになっているぞ」

 頻羽にすばやくさえぎられ、式鬼人生のすばらしさを説こうとした剛毅は口をつぐんだ。

「べつに、なにも問題ない」

 鷲星は丼から目を離さずに、箸をひょいと上下に振る。

「まあ満腹感がないのはちょっと物足りない気もするが、いつでもひと口目のうまさで飯が食えるのはいいことだ。それに、解決策がないわけじゃない」

 からし菜の漬物を粥のうえに振りかけながら、鷲星は事もなげに言う。

「織風。俺が八十歳になったら俺を殺せ。それで対の契約は終了。晴れておまえも自由の身だ。あと六十年弱はそこそこ長いが、まあそこは俺を生かすためだと思って辛抱してくれ」

「は……?」

 殺せと言ったか? 織風に、自分を殺せと。

 混乱で一瞬思考停止したのち、錯乱した織風はぎゃーっと大声で叫んだ。

 殺せなど、あまりにもむごい提案だ。織風の叫びは長く尾を引く。階下の客達は、一体何事かと二階席を見上げて不審に思っていることだろう。頻羽は騒ぐ子どもに注意するように「わあ、こら。しーっ」と人差し指を唇に立てて織風をなだめた。

「じゅ、鷲星っ。きみはっ……なにを言って……!」

「俺、そんなにやばいこと言ったか?」

 鷲星は首をかしげる。

「この対の契約ってのは、天人と式鬼が死ななくなるのが利点だろ? またそこが、最大の問題点でもある。だったら人間の寿命ぶん、俺を生かしたら殺せばいいだけの話だ。八十歳だってじゅうぶん長生きだから、べつに残酷なことをするわけじゃない。直接俺を殺すのに気が咎めるってんなら、血の供給を絶って自然死させりゃいい」

 鷲星は発酵茶のお代わりを湯飲みに注ぐと、ひと息に飲み干した。

「人を式鬼に変えるってのがどういうことか。よく考えずに選択した結果の末路としては、上出来だと思うけどな」

 鷲星を式鬼に変えたことをなんとなく責められているような気がしたが、衝撃的な提案におどろきすぎて、いまの発言が嫌味なのかそれともただの感想なのか見極められない。織風はぽわーっと口を開けて力なく椅子にもたれかかった。開いた口から魂が飛んでいきそうだった。

「ごちそうさん」

 鷲星は手巾で口元をぬぐうと、机に四人分の勘定を置いて席を立った。くた、と椅子に体をあずけて放心している織風を横目でちらりと見やってから、「頻羽さんに剛毅さんよ。ちょっといいか?」と、二人と連れだって店外へと出ていった。

 ああ、天井のあんなところにも龍の柄が……。織風はしばし椅子に体をあずけて、店内の装飾を見るともなしにぼうっとながめていた。

「あの……。天人さま。もう次のお客さんのために席を空けてもよろしいですか?」

 すっかり皿が片付けられ、台ふきんを片手にした李夫人が遠慮がちに申し出るのにようやく我に返り、「ああっ……、す、すまない! 私はもう、出よう」と、さきに店外に出た三人を追いかける。

 店のまえでは、頻羽と剛毅が待っていた。鷲星はすでにいない。追いついてきた織風に、頻羽は薄く笑顔を作る。

「織風よ。鷲星殿は仕事があるらしいから、さきに帰ったよ」

「はい……」

 放心気味の織風を励ますように、頻羽は軽く肩を叩く。

「まあとにかく、あまり思い詰めるな。まずは鷲星殿とよく話し合ってみることだ」

 剛毅も同意を示してうなずく。

 鷲星が店外に二人を呼び出し、なにか織風に聞かれたくない話をしていたことは間違いないが、頻羽と剛毅がその内容を密告してくれることはなかった。

「で、でも頻羽さま……」

 八十歳になったら俺を殺せ、と鷲星に言われた。思い出して織風は両頬を手で挟みながら、今度は声を発さずにぎゃーっと叫ぶ。織風のあまりの発狂ぶりに、剛毅と気の毒そうに顔を見合わせたあとで、頻羽は言った。

「私もかつて剛毅の命を救おうと、とっさに式鬼に変えてしまった身だ。だからあのとき、ほかに選択の余地がなかったきみの気持ちはよくわかる。ただ、かつて同じ境遇を味わった者からの箴言として、よく考えてみてほしいのだ。あのとき倒れていたのが鷲星ではなかったとしても、きみはその人を式鬼に変えられたか?」

 問われて織風は言葉に詰まる。

「あとから振り返ると私は、剛毅以外であったらとても、そんな大それた選択ができたとは思えないよ」

「頻羽さま……」

 剛毅が嬉しそうにほほえみ、頻羽もはにかむ。

 あのとき倒れていたのがたとえば、李夫人だったら。あるいは泰明だったら。織風は同じく式鬼に変えられただろうか。

 鷲星だったからこそ迷いなく、対の契約を結べたのか。あるいは、だれが相手でも同じように衝動的に、対の契約を結んでしまったのか。いくら思い返してみても、それはそのときと同じ状況になってみないとわからないとしか言えない。

「それと、鷲星殿から伝言だ。『俺は蓮花天には上がらない。だから、五日ごとにおまえさんが通ってこい』だそうだよ」

 ああ……。そうだった。気まずいけれど鷲星を延命させるため、血の補給を継続すべく、定期的に顔を合わせなければいけないのだった。

 頻羽は難しそうな顔をして、小首をかしげる仕草で問う。

「なあ織風よ。鷲星殿とは、恋仲……ではないのだよな?」

「ち、違います……!」

 びっくりして、織風は飛び上がりそうになりながら否定した。

「そうか。では……」

 頻羽がやや背伸びをして、織風の耳元に口を寄せる。

「その……気をつけるのだぞ。天人の血は、対の式鬼に活力を与える餌となる。その力は絶大だ。あまりに気脈がめぐりすぎて、相手への好意によっては一種の精力剤のような効果をもたらすそうだ」

 織風に気を遣い、頻羽はなるべく直接的な言い方を避けたが、要は織風が鷲星に血を与えると、媚薬のような効能が出るかもしれないという警告だった。

「あれ、ということは剛毅さまは……」

 剛毅がいかに頻羽を慕っているか、織風も承知のところだ。頻羽の血を摂取した剛毅は、頻羽欲しさにたまらなくなるのではないか。

「うん、まあ、恋人同士ならともかく。血を与えるときは不用意に襲われないよう、気をつけるのだぞ」

 頻羽は詳細を濁したものの、頬をぽっと桃色に染めている。その反応から血を摂取した剛毅がどうなってしまうのか、うかがい知れるものがあった。

「それと織風」

 顔の赤みをわずかに残したまま、頻羽は真顔に戻る。

「きみが見つけた、七曜山の妖魔の封印が何者かの手で解かれ、封印が破られたのを隠すように気脈を乱す杭が打たれていたという痕跡。さっそく永盛城に戻り、専門家に伝えてみようと思う。ひょっとすると各地の妖魔の封印も、すでにだれかの手で破られていて、妖魔の力が戻るまで我らが検知できないように隠されているのかもしれない。だから、突如として強大な力を秘めた妖魔が出現したように見えるのやも」

 永盛城に駐在し妖魔討伐の分析官を務めている、珠翡ジュヒ樹雫ジェダという兄弟の天人がいるのだという。二人は妖魔の出現地点の予測や、異能の分析を行い、どの地にどの天人と式鬼を向かわせるべきか、翠藍に進言する役割を担っている。

 永盛城に戻る頻羽と剛毅を拱手で見送ると、織風も一度蓮花天に帰還すべく、杼把を召喚した。どんなに引き延ばしても五日後にはまた鷲星の元を訪れなくてはならない。気まずさを覚えず顔を合わせられるか、若干不安に感じた。


 洞窟内ではじめて鷲星に血液を与えた日から、五日が経過した。

「おっ、来たな、織風」

 大鷲団の三階で織風の到来を待ち構えていた鷲星は、にこにこ笑顔で出迎えた。

「明日で六日目だぞ。ぎりぎりまでひっぱったんだなあ。地上に降りるのが面倒だったのか? 今日、俺が町を離れていたらどうするつもりだったんだ? ん? 俺は五日ごとに、おまえさんの血がないと生きていけない体になっちまったんだぞ?」

 鷲星は笑顔のまま、ぐりぐりと嫌味攻撃で織風を追い詰める。鷲星と顔を合わせづらく、地上に降りるのを引き延ばして、とうとう延命ぎりぎりの五日目になってしまったのは事実だ。織風は引きつった笑顔で鷲星を見つめる以外、なにも反論できなかった。

「他意はないよ。私も色々と忙しかったのだ。では、さっそく血を……」

 言い訳を口にしながら織風が帯の間から小刀を取り出して手の甲を傷つけようとしたところで、鷲星がその手を握ってやんわりと制する。

「ああ、待て待て。そんな色気のないことをするな。お楽しみは夜になってからでいい」

 どうして房事のような物言いをするのだ……と織風がややうんざりとしたところで、

「織風。俺、りんご飴が食いたくなったから買ってきてくれないか?」

 鷲星はお使いを申しつけた。

「いま⁉」

「いま」

「それなら、ここに来るまでの間に買って来られたのに……」

 大通りに入る手前のところで、飴屋が何店舗か立ち並んでいるのを横目に来たばかりだ。

「欲しいのなら、あとで買ってくるから。とにかく、さきに血を」

 期限は明日までだが、どこかで急に血液が切れて、万が一にも倒れられてはかなわない。ところが織風の手からしゅっと小刀を抜き取ると、鷲星は椅子にふんぞり返った。鞘に収まったままの刀を手でもてあそぶ。

「あーあ。俺は残りの人生ずーっと、おまえさんの世話がないと生きていけない式鬼になっちまったんだぜ? せっかく天帝に運命の相手との再会を希ったのに。こんなんじゃあ、結婚は無理だな。だってもれなく、おまえさんがついて来るんだからさ。天人付きの夫を迎えたい妻なんているもんか。だからそのあわれな身の上に免じて、食いたいもんを食いたいときに買ってきてくれる慈悲深さくらい、見せてくれてもいいんじゃねえかな?」

(くうーっ……!)

 おのれの撒いた種とはいえ、織風の良心を針でちくちく刺す鷲星に憎しみがこみ上げる。

「……わかった。行ってくる」

「頼むぜ。肉桂のまぶしてあるやつな」

 織風は小走りで大通りへと戻り、りんご飴を買い求める行列に並んで会計を済ますと、また小走りに大鷲団へと戻った。紙袋から大ぶりな棒付きりんご飴を取り出し、かぶりついた鷲星が目を丸くする。

「あっ、織風。これじゃねえよ。俺、肉桂のかかってるやつって言ったのに」

「それではないのか……⁉」

 薄い飴がかかったうえから茶色い粉がまぶされていたものを、織風は店主に指さしで注文したのだ。

「これは発酵茶の粉末をまぶしたやつだ。まあ、こっちも好きだから食うけど。色が似てるから間違えたんだろう? おまえさんは本当に粗忽者だよなあ」

 鷲星は織風の自尊心をえぐりつつ、りんご飴をばりばりとかじっている。

「あーあ。俺、肩が凝ったなあ。今日は朝からずーっとそろばんとにらめっこだからなあ」

 飴をくわえながら鷲星は、わざとらしく首をまわし、肩をとんとんと拳で叩く。

「なあ、織風」

 たっぷりと含みを持たせて、鷲星は甘えるように織風の名前を呼ぶ。按摩をしろという要請なのだと観念した織風は背後に立つと、鷲星の首筋をもみはじめた。

「おまえさんの手は力が弱いな。もっと力を入れてもいいぞ」

(くうーっ……!)

 いいように利用されるくやしさから、心でうなりつつも表面上は平静さを保ち続けた。冷静になってみると、鷲星の傍若無人の理由も腑に落ちて、そのもの悲しさに腹の奥底がしゅんと冷えてくる。

 やっぱり、鷲星は式鬼にされたことを怒っているのだ。怒っているけれど直接怒りをぶつけるようなことはせず、こうしてなんだかんだと用事を言いつけ、織風が文句のひとつも言えずに服従するしかない姿を見ては楽しんで憂さを晴らしている。さっぱりとして陽気な気質の鷲星が繰り出す陰湿で粘着質ないやがらせだからこそ、それだけ怒りの根深さを実感して、悲しくなる。

「あ、織風。りんご飴を食ったら喉が渇いた。下で茶、淹れてきてくれ」

「式鬼は、喉の渇きは感じないはずなのだがな」

「あーあ。俺は飲み物ひとつ、ままならないあわれな式鬼なのか。妻を娶り、老後は子や孫に囲まれておだやかに暮らすという、ささやかな夢すらかなわなくなっちまったのに」

「……淹れてくるよ。なに茶がいい?」

(くうーっ……!)

 精一杯優しい声音を出して鷲星の注文を聞いてから、織風はふらふらと部屋を歩み出る。

 扉のまえで、泰明と鉢合わせた。どうもなかの様子が気になり、扉の隙間から二人のやりとりをうかがっていたらしい。

 泰明が気にするのも無理はない。天人は、天帝の使い。ゆえに天人に対する不敬は、天帝に対する不敬と同じこと。天人を不当に扱うと天帝の怒りを買うと、昔から言い伝えられている。

「天人さまを使い走りにするなんておそろしや……。天帝よ、俺はただの、この店の従業員です。どうか俺だけは罰しないでください!」

 階下へと下る織風の耳に、泰明が天帝への祈りを捧げる大きな声が聞こえてきた。


 大鷲団の店じまいをして、すっかり夜も更けたころ。

「織風」

 鷲星は取り上げていた小刀を織風に向かって差し出す。ようやく血を飲む気になったらしい。茶のあともなんやかんやと用事を言いつけられて、一体いつになったら血を飲んでくれるのかと焦れに焦れた織風は、体力よりもむしろ精神力を削られてくたくただった。

「……もう日付が変わるころだ。自ら命を危うくするような真似をするなんて」

 織風は小刀で手の甲を切りつけ、げんなりした顔で鷲星に差し出した。

「異変はなかったから平気さ。それに、すぐに死ぬわけじゃないんだろ?」

 鷲星は姫君の手を取る王子のように、気取った仕草で織風の右手を取り、手の甲にうやうやしく唇を近づけた。ちゅ、と唇が傷口に触れて、織風の手にぴりっと疼痛が走る。鷲星は傷の端から端まで唇をつけて、裂け目を舌でなぞった。

「……そのような、執拗な」

 反応するべきか迷ったが、鷲星の動きがわざとのように緩慢な気がして、思わず織風はため息交じりに文句を口にしていた。

「執拗にもなるさ。これは、おまえさんが俺のためにつけてくれた特別な傷だからな」

 どうしてそれが特別になる。天人の務めとして、対の式鬼を生きながらえさせるだけの行為に過ぎないのに。織風は戸惑い、思わず手を引きたくなった。

 鷲星は愛おしそうに何度も唇を触れさせ、舌で傷口をなぞる。まるで恋人同士の戯れのようだ。ただの餌付けのはずなのに、恋人同士のじゃれ合いなどと錯覚を起こしそうになる自分を織風は恥じた。しばらくすると傷口は端から徐々に癒着して、小刀で傷つけた痕跡をなにも残さずに修復してしまった。

「ごちそうさん」

 顔を上げた鷲星の口元は、織風の血で薄赤く汚れていた。二人の契約を象徴する赤い残滓がそこにあることの気まずさから逃れるように、織風はさっさと手を引いた。

「すんだのなら、私は帰ろう」

 あいさつもそこそこに、織風はくるりときびすを返して、扉のほうへと向く。

「もう遅いから泊まっていけばいいのに」

「……翠藍さまが、今日は戻ってこいと」

 誘いをことわる気まずさから、つい嘘をついてしまった。翠藍には特になにも言われていない。地上での過ごし方は基本的に、天人たちの自主性にゆだねられている。

 ひょんなきっかけで式鬼を得たことはすぐに翠藍に報告したが、特に祝福されることも心配されることもなかった。翠藍の態度からは、織風が対を得たことをどう捉えているのかがまるで読めない。罪悪感でいっぱいの織風は、自らの選択を悔いているのだとはなかなか言い出せず、なんとか契約解除する方法はないかと、博識な天人の長に相談することもできずにいた。

 鷲星を式鬼にしてしまったのは織風なのに。鷲星が怒鳴らないでいてくれることを、ありがたく思うべきなのに。織風が申し訳なさを感じている弱みを握って放埒を繰り返されると、どうしても面白くない気分になってしまう。怒っているのなら不満をぶつけてくれたほうがまだ楽なのに。急ぎではないような用事言いつけて血の摂取を引き延ばし、織風を翻弄するところから、鷲星が本当は怒っているのか、それともただ遊んでいるだけなのか。本音がまるで見えなくて、こわいと感じる。なるべくなら顔を合わせていたくなかった。

 どうして鷲星を式鬼にしてしまったのか。ちゃんと話し合うべきだ。

 頻羽の忠告どおりだと思う。話し合いを避けたままでは、いけないと思ってもいる。話し合わない限り鷲星は織風を翻弄し続けるだろうし、織風も児戯のような鷲星のわがままにつきあうことでしか、罪滅ぼしができなくなる。

 いつまでも、頻羽の助言を無視したままではいられない。健全な状態ではないとわかっているのに、織風は問題に向き合うことを避けていた。どうして鷲星を式鬼にしたのか。鷲星でなくても、式鬼にできたのか。考えても、考えても答えは出なくて、答えのない問いに向き合うのがつらかったのだ。


 蓮花天に戻って四日が過ぎて、また五日目に、織風は鷲星の店へと向かう。

 嫌味を言われるだろうなとわかっていながら、また期日の限界まで期間を空けてしまった。前回、鷲星がなんだかんだと用事を言いつけて、なかなか血を摂取しなかったことで神経が疲弊して、すっかり懲りてしまったのだ。地上での滞在時間を短くすれば、それだけ余計な用事を言いつけられる機会は減るだろうし、期限が迫ったところで訪れれば、さすがの鷲星も血液の摂取を優先せざるを得なくなるだろうと、わざと夜が更けたころに訪れた。

 大鷲団の三階にある鷲星の部屋。部屋は露台へとつながる戸を開け放たれ、月明かりをたっぷりと取り込んでいた。

「織風」

 椅子に座った鷲星は優しくほほえみ、階段から上がってきた織風を手招きする。鷲星の元へと歩み寄りつつ、織風は小刀を取り出して手の甲を切りつけた。

「今日はずいぶん遅かったんだな。前回の仕置きで懲りたか」

 仕置きというところからしてやはり意図的に、織風を振りまわして楽しんでいたらしい。鷲星の声が笑いを含んでいる。

「……それもあるが……。きみがなかなか血を飲んでくれないのは心臓に悪いのだ。いつ倒れてしまうかと、気が気ではないから」

 織風の答えが意外だったのか。鷲星は意外そうに目を丸くしたあとで、真面目な顔で謝った。

「そいつは悪かったよ。やりすぎた。――今度から、ちゃんとさきに血を飲む。だからもうすこし、早く来てくれ」

「どうして」

「一刻も早くおまえさんの顔を見たいからっていうのは、理由にならないか?」

 真面目そうな顔をしていたかと思えば、またにやりと笑ってからかってくるのに閉口して、織風はなにも言わずにふい、と顔を逸らした。

 手を舐められるのはくすぐったい。舐められているのは手のはずなのに、なぜか心がこそばゆく、とても居たたまれない気分になる。

 手に口づけるように血を吸う鷲星の顔を直視できない。濡れた舌の感触に背中が震える。ぬるりと舌が這う感触に思わず声を漏らしそうになるのを、着物の袖で口元を覆い、必死にこらえた。

「なあ、心配させて悪かったよ」

 鷲星の声の調子から、織風をからかう気配が消えた。

「おまえさんをからかって遊んでいたことも、もちろんある。けど血を飲ませたら、おまえさんがさっさと蓮花天に帰っちまうんじゃないかと思って。つい寂しくてな」

「寂しいだなんて……。そんな殊勝な人ではないだろう、きみは」

「そんなことはないさ。乞縁節の晩だって、おまえさんが残ってくれて嬉しかったよ」

 鷲星が嬉しそうにした顔を、織風もよく覚えている。

「私が好きなのか?」

「え?」

 大胆な問いかけに、鷲星が虚を衝かれた顔をする。

「私が好きだから、きみは私に、会いたいと思ってくれているのだろうか?」

「なにを訊くかと思えば……。ああ、そうだよ」

 鷲星はほとんど傷がふさがりかけた手に顔をすり寄せた。触れた頬が熱い。

「俺はおまえさんが好きだ。話をするのが楽しい。一緒にいると面白い。これで答えになってるか? 嫌っているやつに、なるべく早く来てほしいだなんて望むやつはいないさ」

「そうか」

 織風も鷲星が好きだ。話をするのは楽しい。皮肉屋のような見た目に反して中身は気さくで、鷲星がなにを考えているのか興味を惹かれる。それは、一緒にいると面白いということなのだろうと思う。鷲星の「好き」と重なる気持ちだ。

 地上ではじめてできた友人として、織風は鷲星のことが好きだった。鷲星もまた、織風が天人であろうと関係なく、対当な友人として接してくれている、なるべく長い時間を、自分とともに過ごしたいと好意を寄せてくれている。せっかく自分に好意を寄せてくれているのだ。織風は友として、同じく好意でその気持ちに報いたかった。あれこれ用事を言いつけられる地味な報復を受けたわだかまりが、すっと胸のなかから消えた。

「わかった。次からは時間を決めてくれたら、そのときに来よう」

「本当か?」

 鷲星が嬉しそうに顔を輝かせる。手の甲に触れる鷲星の頬が、ますます熱を帯びている。

「顔が熱いな。風邪でも引いたのではないだろうか」

「いや、具合は悪くない。血を飲むとこうなるんだ。体に活力がめぐりすぎて、酒に酔ったような気分になる」

 言われてみると鷲星の目つきがとろんとやわらかくなっていて、酩酊しているような雰囲気がある。

 どうして鷲星を式鬼にしたのだろう。

 鷲星だったから式鬼にしたのか。それともあの場に倒れていたのが鷲星でなくとも、織風は式鬼にしたのか。「もしも鷲星でなければどうしていたか」と頻羽に問われて以来、織風は毎日のように自分に問いかけている。でも答えは同じだ。そのとき、その場面になってみないとわからない。

「織風」

 一瞬べつのことに気を取られたせいで、つい、油断した。

 手の傷はもうふさがり、痛みも消えたところで、鷲星が立ち上がり、おのれの体と机の間に、織風の体を挟み込んだ。やや強引とも思える力強さで、体を寄せてくる。

「鷲星……なにを……」

 背中は机に押さえられ、正面からは鷲星に覆い被さられ、身動きできない。

「織風……」

 本当に酒に酔ったかのような、たっぷりと媚びと甘えを含んだ声で、鷲星は名前を呼んでくる。

「本当は毎日でも通ってきてほしいくらいだ。次はいつ来られる?」

「また、五日後に来るよ。下手に日にちを変えると、逆に間違えそうだから」

「そうか。五日後は昼に大きな商談が入ってるんだ。夜まで会えないな」

 鷲星はやや残念そうな顔をした。本当に酔っているかのようで、なんだか仕草が子どもっぽく見える。

「五日後の、酉の一刻にここに来てくれ。いい茶を仕入れておくから、星見酒ならぬ星見茶とでもいこうぜ」

「ああ、約束しよう」

 五日おきに織風は鷲星の元へと通う。通っておのれの血を与え、延命するとまた蓮花天に戻る。五日おきの補血を何十年も繰り返し、見た目上はもう年を取らなくなった鷲星が、人間の実年齢でいう老年に達したところで、おのれの手で殺し、永久に続く延命の円環から解き放つ。

 いざ約束のときが来たら、織風はためらうことなく鷲星を手にかけられるのだろうか。将来のことを考えると、おそろしさでめまいがする。

 相手を永遠に生に縛る覚悟や、その代償として相手の生殺与奪を握ることへの覚悟ができないままに、対を得てしまった。鷲星を式鬼にしたことへの後悔がどす黒い縄となって織風に巻きつき、全身をぎゅうぎゅうと絞り上げた。

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