第3話

 清水を含めた筆で空をなぞったように、あたりが淡い朱色の光で包まれるころ。

 夜が近づくにつれて穂楽の町じゅうに張りめぐらされた吊り提灯の明かりが灯り、通りを歩く人の数が徐々に増してきた。

 もっとも人通りの多い道から小道をひとつ、入った最奥にある鷲星の店は、三階建ての大きな建物だった。周囲の建物と比べて、高さが図抜けている。柱や壁は朱色や緑などの極彩色に塗られており、派手さが目を引いた。

「まえは連れ込み宿だったんだと。居抜きで入ってから塗り替えていないんだ。近所の人には不評なんだよな、この外観」

 二人ぶんの天燈の材料を小脇に抱えた鷲星は大鷲団の門を開き、織風を招き入れた。

「連れ込み宿とは、どういう宿なのだ?」

「好みの相手を連れ込んで、いいことにおよぶ場所だよ」

 鷲星がにやりといやらしい笑みを作るので、なるほど、閨での秘め事を行う場所なのか……と鈍い織風も即座に理解した。無邪気に尋ねてしまったおのれの粗忽さが恥ずかしくなり、織風はかーっと顔を赤らめた。

 店の一階は質店になっている。ぴかぴかに磨かれた白石の敷き詰められた床。陶器の容れ物に宝飾品が納められ、長机に整然とさまざまな品が並んでいる。派手な店構えに比べて、内部は質素にまとめられていた。

 ちょうど客足が途絶えた合間だったのか、頬杖をついてつまらなそうに店番をしていた男が、入店してきた店の主とその連れを目にして途端に色めきたった。

「あら、あら、あらー!」

 撥ね板を上げ、番台から出て二人を出迎える。

「鷲星! 同伴でお戻りかい。こちらの別嬪さんは、一体どこの貴族の御仁で?」

 男は揉み手をしながら満面の笑みだ。特殊な薬剤で脱色でもしているのか。茶髪のところどころに金色の毛が混じっている。西方から伝来したと思しき黒硝子のはまった小さな丸眼鏡をかけて、どこかうろんな雰囲気のある店番係は、品定めするように織風のまわりをぐるぐるとまわっている。

(お金を持っていると思われているんだろうか、私は……)

 織風は制御を失った犬と化した男に、困ったような笑顔を向けた。町の人たちと比較して、おのれの身なりのよさは自覚するところだ。質草をたくさん買ってくれそうな金のにおいを嗅ぎつけたのかもしれない。

「泰明。こいつは客じゃない。天人だ」

「て、天人……!」

 泰明は軽薄そうな態度を瞬時に引っ込めて、腰の後ろで手を組み、しゅっと背筋を伸ばして直立した。直立しつつ、「どうりで、その美貌なわけだ……」と感心したようにつぶやく。

「乞縁節を見物するってんで、俺の部屋に案内する。貸し出し用の部屋、空いてただろ? 今晩はあの部屋に泊まってもらうから」

「泊まる! 天人が!」

 あいかわらず直立したまま、泰明は喫驚の声を発した。

「せっかくの乞縁節だ。今日は早めに店じまいにしちまおうぜ。みんな空を見上げるのに夢中で、質屋になんか来ないだろうから」

 店主から早上がりを許された泰明は、天人の来訪で堅くなっていた体の硬直を解くと、会計棚を閉めて閉店準備に入った。すばやく手を動かしつつも、目線はじいっと織風を追っている。

(あれが泰明か。店番を任せているから心配ないと言っていた人。きっと信頼しているのだろうな)

 鷲星に階上へと案内されつつ、織風は親しみを込めて笑顔で泰明に向かい手を振った。泰明は「ぐはっ」と断末魔のような妙な空咳をして、あわてて目線を逸らすと、いそいそと表の扉を閉めにかかった。


 一階は質店と借り入れ申し込み窓口の併設された店舗、二階は在庫品の倉庫と従業員の休憩部屋。鷲星の仕事場兼寝室は三階にあった。三階の半分を占有するほど広く、南向きに開いた窓は露台へとつながっており、外の景色がよく見える。ここで鷲星は質の品定めをするらしい。机の上にまだ、値段のつかない品がごろごろと転がっていた。

「鷲星、これはなんだろうか?」

 めずらしい置物に興味を惹かれて、織風は大きな仕事机に近づく。

「それか? 宇宙の形を模した天球儀だそうだ。もともとは客が質で差し入れていたんだが、これは俺が気に入って自分のもんにした」

 宇宙は無数の星々が浮かび、この世界を取り巻く真っ暗な空間なのだそうだ。

 これが、宇宙の姿? 円環が幾重にも重なった金属の飾りを、織風は不思議そうに指で突いた。支柱で支えられた金属の輪が複数、くるくると回転しながら交差する。

「天燈を飛ばすのは六つ半からだ。それまでに組み立てちまおう」

 部屋との仕切り扉を開け放ち、露台に座ると鷲星は、さきほど買い求めた竹ひごと漉き紙を手に、すばやく天燈を組み立ててゆく。

「ずいぶん作り慣れているのだな」

「ガキのころから、毎年のように自作して飛ばしてりゃ、自然とうまくなる。織風のはどうする? 自分で作ってみるか?」

「ああ。やってみたい」

 鷲星の手から材料を受け取ると、たったいま組み上げられたばかりの天燈をお手本に、織風も形を作ってゆく。糊で紙を貼り合わせるまえに全体を確認してみたが、竹ひごの曲げ方にコツがいるようで、全体的に右側に偏りゆがんでいた。

「貸してみな」

 鷲星は織風が組んだ竹ひごをすこしずつ引っ張ったり、たわませたりして、形を整えてゆく。すこし手を加えただけで、鷲星の作ったものに見劣りしない骨組みが完成した。

「わあ、器用だなあ」

 手直しされた骨組みに、織風は紙を貼り付けてゆく。

「糊は薄く伸ばすのがコツだ。重さが増すと、高く飛ばなくなる。高く飛ぶほど、願いが天帝に聞き届けられると言われてるからな」

「へえ……。乞縁節と言ったか。今宵はみな、恋愛成就を祈願するのだろう?」

 人の願いは決まっている。人は繁殖のために生殖を必要とする。愛を欲する。

 生殖行動が恋愛感情を伴うものだとは、織風も理解している。でも実感を伴ってはわからない。なにせ天人の赤子はみな、蓮花天の大蓮のなかに生まれてくるのだ。天人は人とは違い、子孫を残すために生殖を必要としない。生殖や、生殖を効率的に進めるために付随する色恋感情とは、無縁な世界に生きているのだ。

 鷲星は部屋の机から筆と硯を持ち出して露台に置くと、小さな紙片になにか書き付けはじめた。

「そうだ。それもただの恋愛成就じゃない。来世こそは一緒になろうと前世で約束を交わした、運命の相手との再会を願うものなんだ」

「前世……」

 万感を込めてつぶやいた。

 織風はできれば、前世の記憶を取り戻したいと思っている。天人ならば前世の記憶があるのが普通だ。多少なりとも、前世で学んだこの世の知識がはじめから頭に入っているのは、お役目を果たすうえで有利なはず。そのため記憶が欠落している自分は、初手からほかの天人に差を開けられているのではないかと考えてしまうことがある。織風はそのつど、自分の努力ではどうしようもないところに原因を求めて、言い訳にしてはいけないと自分を叱咤し、不埒な考えを頭から追い払う繰り返しだ。そんな繰り返しに辟易していた。記憶が戻ればひとつ、気疲れする悩みが減る。

嵐鷲王らんじゅうおう絹雲ケンウンの物語。織風は聞いたことないか?」

 ない、と織風は首を振る。筆を動かす手を止めると、鷲星は語りはじめた。

「昔々あるところに、嵐鷲王という王さまがいました。嵐鷲王が治めていたのは、現在のきん州の一部に当たる小国で、時代はそう……東西戦乱が終わって、いよいよ金襴きんらん王朝の時代に入る手前。いまから七百年くらいまえだな」

 天帝が直接、地上を治めていたとされる神話の時代――黎皇れいこうを過ぎ、人に統治権の譲り渡された明燭めいしょくの時代。そして桂樹けいじゅ安寧あんねいの二王朝が立ったのち、数多の小国が東西の連合軍に分かれてぶつかり合い、安寧王朝が討たれたのが東西戦乱の時代だ。戦乱の覇者となり、小国をまとめあげてはじめて、国家統一を果たしたのが金襴王朝。いまの凌雲王朝の前身となった国だ。金襴から政権を奪取した凌雲王朝は、五州、二十五省、百二十五県を擁する大国として、二百年を超えてこの国を統治している。

「その、嵐鷲王という人は実在の人物なのだろうか?」

「一応は史実とされているな」

 事実かどうかはあまり興味がなさそうに、鷲星は首をすくめた。

「嵐鷲王には絹雲という臣下がいました。二人は大変仲むつまじく、将来は結婚する約束をしていました。――ちなみに、嵐鷲王と絹雲は両方とも男だ」

 子孫を残すために男女のつがいを必要とする人間にとって、同性愛はめずらしいことだ。ただこの国には昔から一定数、同性とのつきあいを好む層がおり、また史実としていくつも、同性間の熱い感情の結びつきを題材にした逸話が残っている。そのことから一般的にも同性愛は許容されていたのだと、織風は蓮花天で地上のことを学ぶうえで把握していた。

「嵐鷲王の治める国の隣には、呉寿王ごじゅおうの治める雀国じゃくこくがありました。この呉寿が悪いやつでな、私腹を肥やすことしか頭になかった。それから、美人に目がない。呉寿は嵐鷲王の所有する鉄山に、それから絹雲をよこせとのたまいやがった。嵐鷲王は、鉄山ならば呉寿の子の代にゆずろうと約束をした。ただ絹雲だけは、命に代えてもやれないとことわった。ところが」

 ずっと手のひらに紙を隠し持っていた鷲星は、墨がじゅうぶんに乾いたのを確認してから紙を折りたたみ、天燈の底へと差し込んだ。

「欲をかいた呉寿は子の代まで待てなかった。鉄山と絹雲を両方手に入れる策を弄し、絹雲が雀国に下るのならば、鉄山はあきらめると言ったのさ」

 そこで一度、鷲星の言葉がやんだ。

「それで、どうなったのだ?」

「物語の結末は、嵐鷲王が考えもしなかったほうへと動いていく。……絹雲が嵐鷲王にだまって、一人で雀国に下った。絹雲を追って嵐鷲王が呉寿の城にたどり着いたとき、王の目のまえで絹雲は自害した」

「え……」

 どくんと織風の心臓が跳ねた。鷲星が一度沈黙したときから、話の行きさきが芳しくない予感が、なんとなくしていた。

「人身御供がいなくなった以上、これで呉寿に鉄山をゆずる義理はなくなった。絹雲は自分の命を犠牲にしてまで、嵐鷲王の尊厳を守ったんだ。……本当に馬鹿なことをした。尊厳なんか、飯の足しにはならないのに」

「鷲星……?」

 織風は心配になり名を呼んだ。鷲星がまるで昨日あった出来事を思い出し、語っているかのような苦々しい表情をしていたからだ。

 鷲星はいつもの皮肉げな笑みを浮かべると、胸元から燐寸を取り出して露台に置いた。あとで蝋燭に点灯するためのものだ。

「呉寿王に引き裂かれた若い恋人たちを哀れに思った天帝は、『来世ではきっと嵐鷲王と一緒になれますように』という、いまわの際の絹雲の遺言を聞き届けた。来世で出会った二人が、間違いなくお互いを見つけられるように。天帝は絹雲の魂魄の一部を取り出し、嵐鷲王の魂魄に混ぜ込んだんだ。そうすれば転生したときに魂魄が饗応して、嵐鷲王には必ず相手がわかるからな」

「魂魄の一部を渡したのか。絹雲も魂魄が欠けているなんて、なんだか私と状況が似ているな。待てよ……すると……」

 主の誇りを守るべく死んでいった忠臣の悲劇を思い、織風は気づいた。

「人と天人は魄はなくとも魂さえあれば転生が可能だと、頻羽さまがおっしゃっていた。ひょっとして絹雲は、嵐鷲王に魄を渡したのではないだろうか? そうだとしたら絹雲の魂魄を持つ嵐鷲王は絹雲のことがわかっても、魄を渡して記憶を失った絹雲は嵐鷲王のことがわからないのではないか? 仮に再会できたとしても、片方が前世のことを覚えていないのでは名乗ってもな……」

 鷲星はいつも半目気味の目を刮目して、じいっと視線を織風に注いでいる。

「な、なぜ見つめるのだ……?」

「いや……。愚鈍なのはおまえさんの歩みだけだったかと思って」

「……んん?」

 なにか嫌味を言われた気もするが、口論するようなことでもないので気にしないでおく。

「健気な絹雲は前世で嵐鷲王に約束したんだ。たとえお互いに姿形が変わっていても、必ずあなたを見つけだすと。だから嵐鷲王も、安心して魂魄をあずかった」

「なるほど、わかった気がする。乞縁節というのは、離ればなれになった二人の再会という願いを、天燈に託す日なのだな」

「いーや、違う。人間はおまえさんが思うよりも、はるかに利己的だよ」

 鷲星は小指で、豊かな髪を掻く。

「だれもが悲劇の主人公なのさ。我こそは嵐鷲王や絹雲の生まれ変わりであるとして、約束の人が眼前にあらわれてくれることを願っている。あー、二人のうち、どちらに自分をなぞらえるかは、どちらにより感情移入をするかによるな」

「なるほど。鷲星はどちらにより共感するのだ?」

「断然、嵐鷲王だな。俺には、置いていかれたもんの寂しさがわかる」

 ずっと昔に起こったことで、いまでは史実とされているけれど、実際は作り話なのかどうかもわからない物語を、まるで昨日あった出来事のように鷲星は語る。自らの名前の一部を冠した大鷲団という店を率い、商売人として地に足のついた生活ぶりで、どちらかといえば夢物語に目を輝かせる類いの人間ではないはずの鷲星の物語への埋没ぶりは、織風には意外に思えた。

 鷲星が切なそうな顔をするのは、なぜなのだろう。切なさの正体をつかもうと口を開きかけたところで、さきんじて質問を挟まれる。

「おまえさんは? どっちに共感する?」

「……私は、絹雲かな。私はできれば記憶を取り戻したいと思っている。きっと絹雲も、前世で失ってしまった嵐鷲王との絆を、早く取り戻したいはずだから」

「そうか」

 鷲星は硯に置いておいた筆を取り、新しい紙片とともに織風に差し出した。

「そんじゃ、願いを書けよ。書いたら俺に見せないように、天燈の底に入れろ。願いは天帝にしか、見せちゃいけない」

「すてきな恋人と出会えますように、と書けばいいのだろうか?」

 たとえば頻羽と剛毅のように、互いを特別に思う相手がいるのは、うらやましくも感じられる。ただ天人として半人まえの身分で、恋愛にうつつを抜かしている場合ではないと自分を戒める。そもそも、だれかに恋心を抱くという感覚が、織風にはわからなかった。めぐり会いたい人などいない。

「私に願いはないな。じゃあ代わりに、鷲星の願いがかないますようにって書くよ」

「……そうか」

 なにが悲しいのか。鷲星は、瞳に深い寂寥をたたえて、薄く笑った。

 六つ半を過ぎ、次々と空中に天燈が放たれる。海の深いところから、無数の海月がいっせいに海上を目指すかのような幽玄な光景に、織風は欄干にもたれて、しばしうっとりと見入っていた。

「鷲星、穂楽はうつくしいところだな」

「そうか? 俺たちの町を気に入ってくれて嬉しいよ。さすが愛鸞帝は英明なりだな」

 欄干にもたれてうっとりとする織風をほほえましそうに見つめながら、鷲星が冗談めかして詔帝を称える。

 穂楽はうつくしい。町はうつくしく整備され、食べ物はおいしく、なによりも町を行き交う人々の顔は活き活きとして、みなが幸福そうなのだ。ここは人の心がうつくしい町なのだと織風は思った。

 空へと昇っていくいくつもの天燈。ひとつ、ひとつにだれかの真剣な願いを乗せている。天燈の数だけ、人の願いがある。

 人は愛を希う。これほど多くの人が愛を希う光景を――織風はうつくしいと感じた。愛を願う人の思いはうつくしい。愛といううつくしいものを求めることに誠実で、真剣な人の心がうつくしいのだ。

「俺たちも飛ばそう」

 鷲星が燐寸で火を起こし、火種に点火する。

「持ったか? じゃあ空に向かって優しく放て」

 熱した空気でふくらんだ紙の筒をつぶさないようにそうっと持ち上げ、天帝の元に願いを届けておくれ、と思いを込めて天燈を送り出す。天燈は織風の手を離れ、空中へと浮き上がり、ほかの海月の群れに交ざって、やがてどこにいるのか目で追えなくなるほど高いところへと昇っていった。


 翌朝、織風は穂楽の町はずれへと送り届けてもらった。

「鷲星、泊めてくれてありがとう。いいものが見られたし、宿代が節約できたよ」

「どういたしまして。昨日は俺も楽しかったよ。毎年、天燈は一人で飛ばしてたからな」

「鷲星は、見た目よりも……」

 なんと表現すればいいのか、言葉に迷う。

「律儀か? たしかに年中行事を大事にするような人間には見えないかもな」

 言いたかったことをさきまわりされる。らしくないことは本人も自覚があるらしい。

「乞縁節だけははずせなくてな。俺にも、大事な願いがあるんだよ」

 鷲星の願いごとは結局、聞いていない。聞かずともわかる。鷲星にも出会いたい人がいるのだ。前世で別れた運命の人を探している。

(そうだろうな。鷲星も人間だ。いずれ遠くないうちに伴侶を見つけて、一緒になりたいのだろう)

 鷲星が結婚して家庭を持つのなら、もちろん祝福したい。面倒見がいい鷲星は、よき父親になりそうだ。かたわらに妻がおり、子どもを抱きかかえた鷲星の将来像を想像すると、ほほえましくもありまた、胸の一部がしゅんとしぼんでしまうような寂寥とした感じを覚えた。

(どうしてがっかりするのだろう……。本当は祝福すべきことなのに。鷲星が結婚するのが残念なのだろうか。……どうもおかしいな、私は)

 織風は手で印を結び、霊獣の杼把を呼び出した。杼把のぶよんとした背中に乗ったところで、

「織風。次はいつこっちに来る?」

「え?」

 鷲星から問われる。次の予定を聞かれたのははじめてだった。

「翠藍さまのお使いがいつあるかわからないから、なんとも言えないな……。けれど薬の研究はずっと続いているから、今後も定期的に降りてくることがあるだろう」

「そうか」

 いつと明言されず、鷲星の顔がどこか残念そうだった。

(鷲星……。ひょっとして、私に会えないのが寂しいのか……?)

 鷲星がまた、織風に会いたいと思ってくれている。織風の胸にじんわりとあたたかなものが湧き上がった。

「次がいつになるかはわからない。けれどその代わりに、また地上に降りたときには必ずきみの店に立ち寄ろう」

「それは、約束か?」

「ああ約束だ」

 鷲星は満足そうにほほえむと、杼把のひれをなでて「もう行きな」とうながした。

「では、また」

 杼把が上空へと浮き上がる。鷲星に向かい手を振ると、そのまま蓮花天へと昇る異空間に突入すると見せかけて、織風は向きさきを変えた。

「杼把。あそこに岩石の切り立った大きな山が見えるだろう? あそこのふもとを目指してくれるか?」

 杼把はぴっと尾棘を振って方向転換をする。

(帰るふりをしてすまない、鷲星)

 だましたようで、やや心苦しく感じる。

 昨日、食堂の李夫人が話していたことがどうしても気になった。このごろ、穂楽周辺の土地が痩せており、農作物が不作だと。

 不安を煽動した術士を追い払ったことは、たしかに織風の自信へとつながった。

 だれかの不安を取り除くことにこそ、天人としての自分の価値があるのではないか。なにかしら人々の心配の種をひとつでも取り除く手伝いをすることで、織風はお役目へとつながる道を見出そうとしていた。お役目探しは本当に自分の望んだことなのか。おのれの気持ちの在処がわからなくなる一件があったせいで、余計に。

 土地には気がめぐっている。気の流れが滞ると、土地の栄養のめぐりが悪くなり、土は乾き草木がよく育たなくなり、住むのに適した環境ではなくなる。穂楽の町は、大小の通りを縦横に走らせて細かく区画分けをすることで、通りを往来する人の流れで自然と町全体へと気が循環するような優れた構造になっていた。

 穂楽の気のめぐりは、周辺の土地にも波及する。昨日、町を歩いてみて気の流れに問題がないことは確認済みだ。急に近隣の土地が枯れたのは、愛鸞帝が詔帝として不適格だからではない。なにか原因があるはずだ。

 天燈を作っているときに露台から町周辺を見渡してみると、気の流れがぷつりと途切れる感覚のする場所があった。いま、杼把が目指している大きな岩山――七曜山しちようさんのふもとあたりだ。

「杼把、降下して、しばらくこのあたりを飛んでみてくれないか」

 杼把は頭を下げて地面へと向かう。

(ここだ……。穂楽からの気の流れが弱くなる場所)

 違和感の強まった場所で一度杼把を降り、目を閉じて気脈の停滞箇所を探す。ふと、一本の大きな木のうろが気になり内部をのぞいてみると、琴柱に似た形をした木製の楔が打ち込まれていた。

「これで気の流れをせき止めていたのだな」

 杼把も主人の隣にはべり、木のうろをのぞきこむ。

「だれがなんのために、こんなことをしたのだろうね」

 疑問に同調して、杼把は首をかしげるように体を斜めにした。

 織風は楔を引き抜くと印を結び、手に火を熾して燃やしてしまった。これで細っていた気の流れが再び、元のようになめらかに循環しはじめるだろう。

(よかった。これで土地は自然に回復する)

 その瞬間、びくん、と織風の体が震えた。頭で理解するよりもさきに、体が反応した。

(なんだ……?)

 織風は七曜山の山頂をにらんだ。そちらの方面から、突如として気脈の大きな乱れを感じたのだ。山頂に、なにかがある。

 あの気配の正体は。まさか……妖魔。それもかなり大きな力を秘めた魔の者が、山頂に巣くっている可能性がある。

 数多くの戦、疫病、不安定な政事に悩まされてきた東西戦乱時代までは、不安定な世のなかを反映してか、妖魔の誕生が絶えず、そのたびに人間の術士が封印してきた。東西戦乱時代が終わり、凌雲王朝の前時代――金襴の時代になると国家は盤石となり、ずいぶんと暮らしやすい世のなかになった。新たな妖魔の誕生は見られなくなり、稀に過去に封じたもののほころびが生じたことで復活した妖魔がいても、すぐに天人と式鬼が派遣され、力を取り戻すまえに討伐されたので、なんの被害ももたらすことはなかったのだ。

(いままでなにも感じなかったのに、どうして突然……)

 天人であれば気づかないはずはない、大きな気配だ。織風はおろか、頻繁に穂楽に出入りする頻羽でさえ、気づかなかったというのだろうか。

 そこで織風ははっとして、いましがた燃やした楔の燃えかすを見つめた。楔をはずした瞬間に空間を覆う紗が取り払われたかのように、七曜山から禍々しい気配が噴出した。

(あの楔は……。ひょっとして妖魔の気配を隠すために打たれていたのか……? 穂楽の気脈が滞ったのは、その影響……?)

 一度蓮花天に戻り、だれを調査に向かわせるか、翠藍に相談すべき場面かもしれない。だがほかの天人もお役目で忙しい。それにせっかくここまで来たのだからと、つい欲をかいてしまう。

(様子を見にいくだけだ。おかしなことがあれば、足を踏み入れればすぐにわかるだろう。この目でたしかめてから、翠藍さまに報告しよう)

「行くよ、杼把」

 織風は杼把の背中に乗ると、勇気づけるように優しくさすり、七曜山に向かうようにうながした。


 登山道の入り口にたどり着いた。山頂に向かいなだらかに傾斜のついた登山口の両脇に杭が打たれている。かつては杭に、魔封じの札がいくつも下げられた縄が渡されていたと見える。その封印の残骸が地面にうち捨てられていた。織風が縄の一端を手に持ち検分すると、刃物を入れたような鋭利な切り口になっており、単に劣化でたわんだのではなさそうだとわかった。

「だれかが封印を破ったのか」

 白灰色の岩石で構成された山は、かつては石灰岩の採掘場所だったらしい。一応、人が歩める程度に足場が整備され、急峻な場所では手すりも整備されているものの、足を滑らせると下はすぐに断崖絶壁という険しい道が続き、心もとないことこのうえない。もっとも、杼把に乗って進む織風には、足場の悪さはさほど問題にならない。一刻も早く山頂へとたどり着こうと、杼把は懸命にひれを動かした。

「植物がほとんど生えていないね」

 かつての鉱山が遺棄された山は、自然豊かさとは縁遠い。

 順調に中腹まで進んだところで、背後から自分をつけ狙う妙な気配に気がつき、織風は杼把から飛び降りた。

「杼把! 隠れておいで!」

 杼把があわあわと岩陰へと飛び去るのを横目に、すばやく印を結んで花蝶扇かちょうせんを取り出す。花蝶扇は翠藍が授けてくれた武具で、蝶の翅をかたどった大きな扇だ。二本で一対として操る。扇の端には、先端に鉤針の付いた鋼索が五本垂れ下がっている。扇を振ることで鋼策が宙に舞って敵をなぎ払い、鉤針が長い爪のように敵を刺す。

 扇をかまえた織風が気配の向かってくるほう――背後に方向転換する。頭が虎で、下半身が大蛇となった、異形の生き物がものすごい勢いで地面を走り、織風に向かってきていた。

(あれは……。眷魔けんま……)

 眷魔は、妖魔が生み出し使役する生き物だ。生き物同士の魂を混ぜ合わせて作り出すのだという。知識としては知っていたのでそれとわかったが、実物に出くわすのははじめてだった。その見た目から虎と蛇を掛け合わせたものだろう。

 異形の生物の見た目におののきつつも、織風は回旋しながら扇を振るった。空中に鋼の線が走り、地面を鉤針が穿ち、土煙が舞い上がる。

 自分ではなにもいいところがないと思い込んでいる織風だが、扇を使った舞のうまさは天人随一とほめられたことがある。舞いの得意な織風なら必ず使いこなせるからと翠藍は、使い慣れた扇をかたどった武器にしてくれたのだ。

「来てはいけない!」

 織風は虎と大蛇の眷魔に向かい、警告を発する。眷魔は人語を介さない。無駄だろうとわかってはいたが、無益な殺生は望まなかった。

 蛇の下半身が地面を滑り、宙に浮いた。虎は大口を開いて、織風に噛みつこうとする。

「くっ……!」

 織風はやむなく、扇を大きく振るい、鉤針で虎の首を刺した。断末魔の悲鳴を上げて、眷魔は黒い霧になって消えた。

 妖魔の使役する魔性の生き物とはいえ、生類の命を奪ってしまった罪悪感は簡単にはぬぐえない。眷魔の消失した方向をしばし呆然と見やってから、織風はようやく、現実に立ち戻った。

「杼把、もう大丈夫だよ」

 隠れていた杼把がふよーっと進み出てくる。戦闘を終えた織風を気遣うように、周囲を一周した。

「眷魔が出たね。ここに妖魔がいるので間違いなさそうだ」

 一刻も早く引き返すべく、織風は杼把の背中に乗る。穂楽にほど近いところに妖魔が潜伏している。

(放ったままにしておいて、穂楽にいる人たちは大丈夫だろうか。……あの子どもたちが間違って、七曜山に近づかなければいいのだが)

 好奇心旺盛な練心、弯月、盤仲の顔がちらつく。

 町の人たちのことが気がかりだったが、織風単独での討伐は禁じられているのでやむを得ない。

「杼把、一度蓮花天に戻ろう。翠藍さまに報告する。私が封印の呪をかけなおせば、しばらくは妖魔が暴れ出すこともないだろう」

 登山口に杼把を向かわせかけたところで、織風は山頂からなにかの叫び声を聞いた。声は風に乗り反響し、延々と続いている。

 耳をすませると、かん高い声。子どもの叫び声のようだった。織風、織風と、名前を呼んでいる。

「この声……」

 助けて、織風。こわいよ、織風……!

 練心、弯月、盤仲の声が重なって聞こえた。

「子どもたち……!」

 引き返そうと思ったところで、事情が変わった。穂楽の悪童が妖魔に捕らえられている。行きさきを変え、急いで杼把を山頂へと向かわせた。

「ありがとう。ここからは、私一人で行く」

 山の頂にある大きな洞窟のまえで杼把から飛び降りる。杼把は空気に溶けて消えた。

「練心!」

 織風は衣の裾を揺らして、洞窟の内部へと走った。

「弯月! 盤仲!」

 織風の呼びかけに子どもたちは応えてくれるか。声に、耳をすませる。返事はなかった。

「練心……!」

 まさかもう妖魔に食べられてしまったあとなのではないか。いやな予感で全身から血の気が引いていく。

 織風……織風…………!

 かすかにだが、ほら穴の奥から声が聞こえてくる。よかった、まだ生きていると安堵した。

 洞窟内部は、徐々に外の光が届かなくなってくる。ほの暗い洞窟内部を照らすため、織風は手のひらから小さな焔を発生させて体のまわりに散らした。

「みんな、どこに……」

 きょろきょろと視線を動かして子どもの姿を探していた織風は息を呑んだ。突如として目のまえに大きな巌の壁が立ちはだかったのだ。危うくぶつかりかけるところだった。

 はじめ巌のように見えたその壁から、息づかいを感じる。壁は微妙にだが、自ら揺れてもいた。この壁は生きている。

 肌は浅黒く、ごつごつと粗い岩肌のような質感だ。背丈が織風の何倍もある。見上げたさきに、六つの頭が付いていた。表面がでこぼことした六つの頭は、よく見ると人の表情のようにも見えるし、ただの無機質な岩石の表面のようにも見えた。

 やはり妖魔はいた。それも特大の妖魔が洞窟の奥に潜んでいた。

(六つの顔……。こやつは六面むめんだ……)

 名もなき妖魔にうってつけの名が思い浮かぶ。

 織風……織風……織風……。

 岩に反響して響く子どもの声。されど姿はない。

 織風……織風……。

 かん高い子どもの声の末尾が濁り、ひどくしゃがれた醜悪な声に変わった。目のまえの異形の生物が発する声に取って変わったのだ。けたけた、けたけたと響く笑いの不協和音が、織風の鼓膜を不快に揺らす。

 一体なにがどうなっているのか。織風が事態を飲み込むまえに、衝撃が地面を穿った。織風は背後に飛びすさり、すんでのところで避ける。妖魔が放った石のつぶてが、地面をえぐり穴を空けていた。妖魔は体の両脇から複数生えた腕らしき部位を動かして、地面に落ちた岩石を拾うと、次々と織風に向かって放つ。

 避けつつ反撃しようと花蝶扇から鋼索を放ったところで、妖魔の足下に練心の姿が浮かんだ。

「練心⁉」

 見慣れた子どもの姿に気づき、あわてて鋼索の軌道を逸らす。鋼の糸は練心を避けて、離れた岩肌へと突き刺さった。砂煙の奥に目を凝らす。六面の足下にいた練心は、風塵と化す砂の城のように消えてしまった。

「これは幻影か」

 子どもたちの姿と声は、妖魔の作り出した幻だったのだとようやく気づいた。子どもの声を真似て、下山しようとする織風を招き寄せたのだ。ようやくからくりに気づいたところで、妖魔の巣に飛び込んでしまったあとだ。せっかく引き寄せた獲物を、簡単には逃がしてはくれないだろう。

 妖魔は次々と石を放つ。人間の急所を心得ているようで、頭を的確に狙ってくる。織風は投石を避けつつ花蝶扇で応戦を試みるも、鋼索が飛んでくると見るや、妖魔はすかさず織風の顔見知りを出現させて防御壁代わりにするので、そのつど織風は幻影に当たらないように鋼の軌道修正をしなければならなかった。幻影だとわかっていても、見知った人を攻撃するのはどうしても躊躇する。

 練心、弯月、盤仲のほかにも、食堂の李夫人、大鷲団の泰明、そして、鷲星。織風の地上での知り合いが次々と人型を取り、出現する。鋼索を体の周りに飛びまわらせて、妖魔の放つ石つぶてを次々とはたき落としていたが、湿気でぬめり気を帯びた地面で足を滑らせてしまった。

「あっ……!」

 からくも踏みとどまり顔を上げると、織風めがけて特大の石が飛んでくるところだった。思わず目を閉じかけたところで、横から鉈を持った手が伸びてきて、石を叩き落とした。

「……鷲星⁉」

 織風をかばい、その背に隠して立ったのは、両手に鉈をたずさえた鷲星だった。ここで出くわすはずのない人の到来に、織風はおどろき目を瞠った。

「間一髪か。途中、変な生き物に足止めされて遅くなった」

 さきほど織風が倒したのとはまた違う眷魔があらわれ、抗戦していたらしい。

「私のあとをつけてきたのか……」

 織風は鷲星の隣に並び立つ。尾行されていたとは知らずにおどろいた。

「こちらに向かうとなぜわかったのだ」

「うまく撒いたつもりか? 別れ際、妙に七曜山のほうを気にしていた。バレバレなんだよ。それより」

 鷲星は体のまえで鉈をかまえる。七曜山のふもとに広がる田園地帯の、納屋からくすねてきたものなのだろう。

「こいつはなんだ。生きているのか?」

「ああ。生きている。これは妖魔だ。長く生きて、霊獣になる寸前だった動物のなれのはて。この山に封じられていたのを、だれかが破ったようなのだ」

「妖魔ね。近頃、各地に出現している迷惑なやつか」

 六面は咆哮を上げて、織風と鷲星をなぎ払おうと、岩が連なる尻尾のような部分を鞭のように振るった。

「飛べ!」

 とっさに印を結んだ織風は自分と鷲星に跳躍の術をかける。常人の跳躍力ではありえないほど高く飛びあがった二人は、岩の鞭を避けるまで滞空したのち、ゆっくりと地面に降り立った。

「織風! さっさとその扇でやっちまえ。間合いが取れるぶん、俺の鉈より有利だろ⁉」

 鷲星は農作業用の鉈を頼りなげにかざす。

「わかってはいるのだが……」

 織風は歯切れ悪い。もたもたしていたところで二人を押しつぶそうと、六面は再び尻尾を振る。

「飛んで!」

 織風の合図で合わせて地面を蹴り、飛ぶ。滞空している間に織風は扇を振るい、鋼索を放った。鉤爪が六面の頭部を打ち砕こうとした寸前で、

「あっ……!」

 巌から生える泰明の姿を見た織風は、またもや武具の軌道を変えた。

「なんでやっちまわない!」

 地面に降り立った鷲星は織風を叱咤する。

「だ、だって……。幻とわかっていても、知っている人の姿を攻撃するのは、気が引けるのだ」

「遠慮するな。顔見知りの的当てだと思って楽しめばいい」

「そんな……」

 鷲星が無茶を言うので困る。

「この岩の化け物はおまえさんが攻撃できなくなるように、幻影を出現させて身を守っているんだろう? このまま攻撃を避け続けていたら、やつの思うつぼだぞ」

 織風はきり、と唇を噛んだ。まさに自衛のために、六面が織風の顔見知りを盾として用いているのだとわかっている。記憶が読まれているのだ。織風が思い浮かべた人から、次々と出現する。

 妖魔は人を殺して食らうための能力が突出している。六面の場合は人の頭のなかを読み取り、見知った人の姿を再現して誘い出したり、身を守る術として使ったりする能力に特化しているのだろう。

 六面は巣穴に飛び込んできた織風と鷲星を、二人とも食う気でいる。無限の回復力を得た天人と式鬼の二名で当たる妖魔退治に、ただの天人と人とが挑んでいる現実に、軽く震えてきた。

(このままでは鷲星の命の保障がない)

 戦いを長引かせないように、六面の急所に当てなければ。急所はどこにあるか。幻影が出現しては消えるのをながめているうちに、織風は一定の法則性を見出していた。

 いまこの場ですべきことは――鷲星が傷つかないようにしっかりと守ること。そして自分もまた、無傷で蓮花天に帰還することだ。

 六面を退治する。覚悟を決めた。

「鷲星! 翠藍さまを狙うのだ!」

 短く告げると織風は、両腕を左右に開いて回旋した。糸玉が中心からほぐれていくように、鋼索が螺旋を描いて宙を舞う。

 六面は織風が頭に思い浮かべた人物を読み取り、姿や声を再現している。はじめに三人の子どもたちの声を借りたのは、下山しかけた織風が穂楽の人々――特に子どもたちの安否を気にかけたからだ。六面と対峙してからは、「この人の姿を取られたらいやだな」と、織風が無意識下で思い浮かべた人の姿を次々と出現させている。

 翠藍さまは、青みがかった長い髪を頭頂部で結い上げた、それはそれはうつくしい天人なのだ。

 以前、鷲星にそう語って聞かせたことがあった。翠藍に直接お目にかかったことはなくとも、外見の特徴は鷲星も把握している。幻影が形を取ればきっと、どれが翠藍なのか鷲星にもわかる。

 織風がもっとも敬愛する天人の長を、六面は一番攻撃してほしくないところに出現させるだろう。つまりそこが、六面の急所だ。

 六面は体の中心から、にょきりと翠藍を生えさせた。足下まで引きずる長い結い髪に、ふんだんに装飾品をまとった薄衣姿の天人の長に、織風は迷うことなく鉤爪を叩き込んだ。

「食らえ!」

 鷲星は叫ぶと大きく振りかぶって鉈の一本を投げつけ、鉤爪の食い込んだあたりに命中させた。岩の外殻が剥がれ、白い球体のようなものがちらりと見える。あれが六面の心臓部だと直感で理解したらしい鷲星は、もう一本の鉈も投げつけ、球体に命中させた。

 鼓膜を切り裂くような断末魔の悲鳴とともに、岩のような六面の体が崩れてゆく。がらがらと体が崩壊し、地面に石垣のように積み上がった。六面がぴくりとも動かなくなるのを確認し、安堵した織風は腰の力が抜けて、その場にへなへなと座り込んだ。

「大丈夫か?」

 鷲星が織風の腕を持ち、立たせる。

「力が抜けてしまった……。妖魔を倒したのだな。信じられない」

「いやいや、おまえさん意外と強いんだな。普段のおっとりのんびりが信じられんほど、機敏に動いていたぞ」

「そうか……?」

 鷲星にほめられて、はじめて妖魔討伐に成功した嬉しさと誇らしさで、腹がくすぐったくなる。萎えていた足に力が戻ってきた。もう自力で歩いて戻れる。

「こんな薄気味悪いところ、さっさと出ようぜ」

「そうだな。私も蓮花天に戻り、翠藍さまに報告をしないと」

 出口へと歩みを進めていたところで、背後からびゅっと風を切る鋭い音が聞こえた。

「織風!」

 音に反応した鷲星に真正面から飛びかかられる。あまりの勢いに二人して地面に倒れ込み、織風はしたたかに尻を打った。

「鷲星、どうしたのだ⁉」

 鷲星の体が重く織風にのしかかる。わずかに顔を上げてぎくりとした。六面に向かって放った鉈が、鷲星の背中に深く突き刺さっているのが見えたのだ。

「鷲星!」

 鷲星はごぶりと血を吐いた。それも大量だ。尋常ではない量の鮮血を目にした織風は、喉の奥で叫び声を上げた。

 あわてて背後を振り返る。体が崩れたはずの六面はまだ生きていた。最後の力を振り絞り、鷲星の投げた鉈を拾い、放ってきた。

 体が崩れただけではだめだったのだ。眷魔と同じく、体が霧になり消えるところまで見届けなくてはならなかった。

 織風は花蝶扇を振るい、今度こそ六面にとどめを刺した。六面は黒い霧となり、消えた。

「鷲星!」

 今度こそ六面を消滅させると、織風は地面に倒れ伏したままの鷲星の元に駆け寄る。鉈が背中に刺さったままだ。これは、致命傷になるのではないか。さきほどから鷲星は微動だにしない。泣き出しそうになりながら柄をつかんで、引き抜いた。

「鷲星! 鷲星!」

 織風の必死の呼びかけにも、鷲星は返事をしなかった。

 早く癒やしてやらなければ。織風は印を結びかける。でも組織の完璧な修復と再現を試みる治癒の術は高度な技で、織風にはかすり傷を治すのが精一杯だ。肺にまで到達する大きな穴が空いたところを、術で癒やすのは無理だった。薬師である翠藍に仕える身でありながら、治癒の術が使えない自分の未熟さが情けなくなる。

(どうして私は、こんなにもだめな天人なのだろう。六面をちゃんと倒したのか、確認を怠ったせいで……!)

 このままでは鷲星が死んでしまう。織風が妖魔の誘いに乗ってしまったために。織風が六面生存を見逃してしまったために。そして鷲星が報復の刃から織風をかばってくれたというのに、織風が満足に回復の術を使えないために。

 自分がもっと、優れた天人だったらよかったのに。後悔と情けなさとで、織風の目に涙が浮かぶ。

 自責の念に駆られているだけ、時間が無駄になる。すぐに杼把を呼び出して、一刻も早く医者に連れていかなければ。

 頭を前向きに切り替えたところで、異変に気づいた。鷲星の背中に耳を当てる。

「……息をしていない……」

 胸を突く衝撃に、織風も瞬間、呼吸が止まった。

 そこからは考えるよりもさきに、体が動いた。

 これまでに一度も、結んだことのない印を織風は結ぶ。自分は一体、なにをしようとしているのか。果たして、これは正しいことなのか。正常に判断する力は、いまはない。

 印を結び終えて祝詞を口にする。天人たちに伝わる秘術。不必要な相手に対してむやみに口外しないようにと翠藍が厳命を下している、天人たちの秘密にかかわるもの。

 それは契約だ。契約者を天人の使役する鬼へと変え、ともに不老不死を得る究極の秘技。

は天人。吾は天帝の意志を代行する者なり。天人の織風が下命す。鷲星は織風の式鬼と成らんことを」

 焔玉の心もとない光をかき消すほどの激しい光が、洞窟内を満たした。

 あたりを真っ白に照らした強い光は、徐々に収まってくる。すっかり光が落ち着くころには、鷲星の背中に開いていた傷は跡形もなくふさがっていた。まだ目を閉じて倒れたままだが、背中が規則正しく上下して、呼吸が戻っている。

 つい先刻、死にかけていた鷲星が息を吹き返した。織風の術で、対の契約が結ばれたのだ。鷲星は織風の式鬼となり、不老不死を得た。体につけられた傷はたちまち修復し、今後は老いでも病でも、死ぬことはなくなる。

 鷲星を殺せる者はいなくなった。ただ一人、この世で織風だけが鷲星の生殺与奪を握る。

「鷲星!」

 式鬼は天人の血を糧とする。織風は護身用に持ち歩いていた小刀を取り出し、手のひらを傷つけると、ぽたぽたと鮮血の流れ出るままに鷲星の口元に垂らした。

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