第2話

 日課である天人の赤子の誕生報告を終えた織風は、その場で翠藍から新たなお使いを頼まれた。

 織風はエイの霊獣、杼把ヒパに乗り蓮花天を出て、穂楽の町に降り立った。蓮花天と地上は、霊獣で空間を飛び越えて行き来する。一瞬のうちに着いてしまうため、どれほど距離が離れているのか地理感覚がない。蓮花天が果たしてどこにあるのか。織風を含めて、正確な場所を説明できる天人はいなかった。

「ありがとう、杼把」

 織風は杼把に礼を言ってその背中をなでる。杼把はとんでもないですよ、とでも言うように織風の周囲をゆっくりと一周すると、空気に溶けて消えてしまった。

 織風は翠藍より授けられた紙片を広げる。訪ねてほしい店と調達してほしい薬剤の材料が書いてある。店により入荷するものが異なるらしく、穂楽の町を縦断、横断する形で、複数の店が指定されていた。頭のなかで店をめぐる順番を組み立てると、織風はさっそく、穂楽の町の雑踏へとその身を投じた。

 翠藍は天人たちを率いる長というだけでなく、ほかの天人たちと同様に、地上でのお役目も担っている。翠藍は薬師なのだ。愛鸞帝の要請を受けて、まだ地上にはない新薬の研究、開発を行う。翠藍と愛鸞帝が共同開発した新薬により、これまで不治の病とみなされていた肺病に皮膚炎など、完治可能になった病気がいくつもある。

 愛鸞帝はわずか十五歳の若さで謀反を起こすと、実の父親である先帝の堯天帝ぎょうてんていに禅譲を迫り、見事に帝位交代をなしとげた。即位するとすぐに、帝の妃嬪に子どもたちの住まいだった後宮を廃し、後宮の一部を薬事院やくじいんとして再利用し、民間向けに門戸を開いたのが、人々が思い出す帝の最初の偉業だ。以来、愛鸞帝は精力的に、医療の充実に力を注いできた。

 愛鸞帝の尽力により、死亡率や重篤な病の罹患率は、この四十年で激減している。穂楽の町の区画整備、西国との新たな交易路の確立、治水工事、税制や貨幣制の整備など、医療の充実以外にも、この賢王の功績は枚挙にいとまがない。

 この世は本来、あらゆる生類を統べる天帝が治めるべきもの。この世の帝は、天帝に代わり地上を正しく治めるように、とみことのりを賜った代理の王に過ぎない。ゆえに凌雲国が興るはるか昔より、代々この国の王は天帝の詔を履行する人間の帝――詔帝しょうていと呼ばれてきた。愛鸞帝のなしとげた数々の偉業はまさに、詔帝としてあるべき姿を体現したものといえるだろう。

 織風は複数の薬店をめぐり、必要な材料を順調に調達する。これまで何度か訪れたことのある店もあったので、慣れた道のりだった。

 穂楽の町は大小の通りが縦横に走り、マス目状に区画が区切られている。通りを間違えない限りはわかりやすいことこのうえないのだが、どこも見た目が似ているので、中心街を逸れるほど、建造物を目印に当たりをつけるのは難しくなる。通りの名称も付いていないような場所にぽつんと位置し、探すのに手こずりそうな店は最後にまわした。

 予感していたとおり、最後の店はなかなか見つからなかった。

「あれ……ここはどこだろう?」

 翠藍のくれた地図を確認して、織風はつぶやいた。地図と見比べながら歩いてきたはずなのに。思ったのとは違う通りに出た。中心街からはだいぶ離れた、人気がなくうら寂しい場所だ。

 あれー、あれー、と地図と通りとをにらめっこしているうちに、救世主――だったらよかったのだが、思いがけない顔見知りに取り囲まれた。

「あれー! 織風じゃん!」

「こんなところでなにしてんだ?」

「さてはおまえ、迷子になったんだろ?」

 織風が地図から目を離すと、三人の子どもたちが取り囲んでやいのやいの言っている。最初に声をかけた子どもが練心レンシン。次が弯月ワンゲツ。織風が迷子になったのではと鋭い勘を発揮したのが磐仲バンチュウだ。三人はいつも行動をともにする、穂楽きっての悪童どもだった。天人をめずらしがって――というよりは、その頭脳は怜悧にして英邁、その姿は麗しく端然という天人の想像図をくつがえすおっとりさと愚鈍さとをたたえた織風を面白がり、地上に降りて遭遇するたびにからかってくる。

 知り合いに遭遇した安堵から、織風はほうっと息を吐いた。

「この店に行きたいのだ。きみたち、わからないかな?」

「んー?」

 織風の差し出した地図を練心が指でつまみ取り、三人は顔を寄せて紙片をのぞき込む。眉間にしわがより、うーんとうなる。入り組んだ隘路は穂楽に住み慣れた子どもたちをも、惑わせるものらしい。

「いや、この地図じゃぜんぜんわかんねえよ」

 練心はため息をついて地図から目を離す。

「戻って、知っていそうな人に聞いてみろよ」「それがいい」

 練心と弯月に戻ることを進言されて、織風はやや迷った。近いところにはいるはずなのに。再び中心街に戻り、行き方を教わってまた歩いてくるのか。歩いているうちに、せっかく尋ねた道順を忘れてしまいそうだ。

「どうせまた翠藍さまのお使いで来たんだろー? お使いひとつこなせない天人を抱えて、翠藍さまも大変だな!」

 磐仲の意地悪なひと言が、織風の胸に突き刺さる。練心と弯月もかばうどころか、「だよなあ。頻羽天人とはぜんぜん違うんでやんの」と同調する始末だ。凌雲国の御殿史学者である頻羽の名声は、子どもたちの間にさえとどろいている。優秀なだれかと比較されるのはつらい。忖度を知らないぶん、子どもは現実を鋭く突き、残酷だ。

 自分は翠藍のお使いひとつ、満足にこなせないだめな天人なのだ。

 織風が表情暗くうつむいたときだった。横から手が伸びてきて、ひょいと練心の持つ地図をつまみあげた。

「あ! 鷲星!」

 練心が上を見上げてその人の名を呼んだ。鷲星は、奪い取った地図と通りとを何度か見比べる。

「いくつか角を曲がれば目当ての店だ。ここからそう遠くない」

 軽く瞥見しただけであっさりと場所を特定した鷲星は、織風に無造作に地図を返した。

「めずらしいなあ! 鷲星がこんな町はずれにいるの」

「まあ、ちょっと野暮用でな」

「わかった! 借金の催促だろ?」

「なあー、鷲星。今日は手伝いはいらないのか? まえに客から巻き上げたもんの運びを手伝わしてくれたじゃないか」

「ありゃたまたま運ぶもんが多かったときだけだ。それに、今日のところはまだ督促日じゃないんでね。手は足りてんだ」

 鷲星がすげなくことわると、子どもたちはええーと残念がる。以前、鷲星の仕事を手伝ったことがあり、そのときにお駄賃をもらったうまみを忘れられずにいるのだろう。

「ほれ、散った散った。ここから奥はガキの行くところじゃないぞ」

「なにがあるんだよ」

鬼子母仙聖きしぼせんせいの霊廟がある。親の言うことを聞かない悪い子どもたちをさらって食っちまう、おそろしい女神さんだ」

 鷲星の言葉に子どもたちは青ざめて、わーっと叫び声を上げて走りながら穂楽の繁華街方面へと消えていった。生意気盛りとはいえ、まだ子どもだましが通じるかわいげも残っている。

 子どもたちの後ろ姿がすっかり消え去ったところで、鷲星はため息をついた。

「場所がわからないんだったら案内役を付けろ。穂楽は町の中心からはずれるほど、道が網目状に入り組んで複雑だ」

 鷲星があきれ顔なので、織風はなぜか叱られたような気分になる。おそるおそる、ちらりと上目遣いに見上げた。

 鷲星は頭ひとつぶん、織風よりも背が高い。若干二十四歳の若者ながら、大都市・穂楽で大きな質店を営んでいる経営者だ。金貸しにしては胸板が厚く、体格が堂々としている。借金を踏み倒して逃げようとする輩を取り押さえるために、日頃から鍛えているから、というのが本人談だ。

 鷲星はところどころにゆるく波打つ癖の入った黒髪の襟足だけを肩にかかる程度に伸ばし、根元を紐でくくっている。髪型のゆるさが、水物商売を扱う男の気ままさを象徴しているかのようだ。厚めの前髪は濃い眉毛にかぶさり、二重の線がくっきりとした大きな瞳を際立たせる。

 高い鼻梁の顔立ちが劇俳優のように整っているのは織風も認めるところだが、鷲星はいつも半目気味にだるそうに話すので、美形がどこか厭世的な雰囲気にゆがめられていた。ついでに、いつも渋い色味の短上着にの地味な出で立ちなので、見た目をよく見せようということになんの意欲もないらしいことがうかがえる。

「ここからさきには不用意に近づくな。あの門を出ると、工部こうぶの目をかいくぐって違法に増築された裏街に入るからな。ぼったくりの娼館に飲み屋ばかりが建ち並んでる」

 短上着の合わせ目に無造作に片手を突っ込んだ鷲星の指さすほうを見やる。人がいるのかもわからないひっそりとした様子だ。官吏の目を逃れるために、あえて歓楽街ではないふうを装っているのかもしれない。

「そんなところに、鬼子母仙聖がお祀りされているのか?」

 あのさびれた様子では、ろくに供養もされていないのかもしれないなと、織風の心が痛んだ。

「いや、それはガキどもを裏街から遠ざけるための方便だ。まあ、あいつらが踏み込んだところで、銭なしのガキだ。声をかけてくる客引きなんざいないだろうけど、念のためな。けど、おまえさんは身なりがいい。よくていいカモにされる」

「悪ければ、どうなるのだ?」

「なんやかんやと不当な借金を負わされて、娼館でただ働き」

 薄絹だけをまとった半裸に近い格好で舞を踊らされる悲惨な末路を想像し、織風は背中がうすら寒くなった。

 鷲星とはじめて出会ったのは、織風がはじめて穂楽の町に降り立ったときだった。勝手がわからない織風はそのときもやっぱり道に迷い、挙げ句の果てに親切な道案内のふりをした人買いにさらわれる寸前のところで、声をかけてきた鷲星に助け出されたのだ。それ以来鷲星は、織風が町に降りるたびにどこからかふらりとあらわれて、織風の不注意に苦言を呈しつつも、さりげなく世話を焼いてくれるようなのだ。はじめて薬店で材料を調達するのに、地上の貨幣の単位がわからなかった織風に、懇切丁寧に教えてくれたのも鷲星だ。

(……子どもたちを危険な場所から遠ざけたり、私の心配をしてくれたり。鷲星は、本当は優しいのだな)

 態度がぶっきらぼうなのでわかりづらいが、人買いにさらわれかけた窮地を救われて以来、毎度のように織風の世話を焼いてくれるのがなによりの証拠だ。

「ほら、行くぞ」

 鷲星が織風の背中を軽く押す。

「……ああ、そうだな。裏街からは早く離れたほうがいいのだろう?」

「じゃなくて、その店に行くんだろ?」

 鷲星はすたすたと歩き出す。道案内を探せと諭しつつ、店にまで同行してくれるつもりらしい。

「でも、鷲星はお役目が忙しいのに。私につきあわせてしまうのは、なんだか申し訳ないのだが」

 鷲星のお役目。必要な客に金を貸し、返済期限が到来したら返済の督促をする。期限までに返せない客からは金の代わりに質草を巻き上げ、押収した質草は質店で売る。金貸し業を一体として営業する大鷲団という店の経営者である鷲星の、こなすべきことは多い。

「なんだ、お役目って」

 天人独特の言いまわしに、鷲星は鼻白む。

「仕事のことなら、今日が督促日じゃないっていうのは本当だ。店のほうは泰明タイメイに任せてあるから心配ない。行くぞ」

 鷲星は織風の返事を待たないまま、さっさと歩き出す。あえて強引さを伴うことで、織風が遠慮する暇もなくしてくれているかのようだった。

「ま、待って」

 織風は早足になり、披帛を揺らして鷲星の背中を追いかけた。


 鷲星はわざわざ薬店のなかまでついてきた。織風の買い物が終わるまで待っているばかりか、値切り交渉までしてくれた。

「ありがとう、鷲星。これで全部買えたよ」

 紙片と買い物袋の中身をいま一度確認すると、織風は礼を言った。別れ際の微妙な沈黙が訪れかけたところで、

「また翠藍の使いで来たんだろ? 今日はすぐに戻らないといけないのか?」

 鷲星は織風の目をのぞき込んで問いかけた。黒目が大きいので、軽く見つめられただけでも、じいっと凝視されている気分になる。

「あ……ええと……」

 翠藍からは、せっかく地上に降りるのだから、ゆっくり人と交流してから戻って来ればいいと言われている。人と交わるなかで自分がどのように人の世の役に立ちたいか、見えてくることもあるだろう、と。

 翠藍がお使いを命じるのは、まだお役目がない織風が暇ばかりを持て余し、気まずい思いをしないようにするためだ。また早くお役目を見つけられるよう、人との交流をうながすためでもある。翠藍が暗に示唆する以上、織風も期待に応える必要がある。すぐに蓮花天には戻らず、地上での滞在を延ばすつもりでいた。

「いや、もともと一泊してから戻ろうと思っていたのだ。時間はあるよ」

「なら、ゆっくりしていくといい。今晩はせっかくの乞縁節きえんせつだ」

「乞縁……節?」

 地上の風習についてはまだ、知らないことも多い。

「恋愛成就の願いを込めて、空に向かって天燈を飛ばす日だ。飛ばすのは夜が更けてから。近隣の町からも見物人が来るんで、日が陰るころには町じゅう大にぎわいだ」

 昼日中から大通りが提灯で飾られ、出店が立ち並び、普段以上ににぎわっていた理由がこれでわかった。今日は祭祀の日だったのだ。空に向かって放たれる幾多もの光は、宵闇に浮かび上がる蛍のようで、さぞやきれいなことだろう。

「それは見てみたいな。でも、人が多いのか」

 大通りを歩くときでさえ、人の合間を縫うのに苦労しているのに。見物客の人混みにもまれて身動きできなくなるのではと心配で、織風は顔を曇らせた。

「なら、俺の店に来るか?」

 織風の不安を察した鷲星からの、思わぬ申し出だった。

「俺の部屋からなら人混みを避けて、空に舞う天燈がよく見えるぞ。ちょうど貸し出し用の部屋が余ってるんだ。なんなら、今日はそこに泊まればいい」

 鷲星の店は住居と一体になっているようだ。いつも地上に降りると、待ち合わせなどせずとも偶然、鷲星にめぐり会える。経営する質店はこれまで訪れたことがなかった。

「……もし迷惑でないんなら、行ってもいいだろうか?」

 鷲星の親切心を、織風はありがたく受け取る。

「決まりだな」

 鷲星はにっとほほえんだ。心の底から、嬉しそうな笑みだった。

 こういう顔を、もっとすればいいのにと思う。いつも浮かべている、口元を斜めにゆがめた皮肉げな笑顔ではなくて、こういう心からの笑みを……。表情に気を遣えば本当に美丈夫が引き立つのだ。織風は容姿に関する鷲星の無頓着さを残念に思った。

「よし。晩まではまだ時間があるから、おまえさんの浮いた金で昼飯でも食いにいこうぜ。天燈も作らないとな」

「え、あっ……。待って……」

 織風は穂楽の繁華街に向けて歩き出す鷲星の背中を追いかけた。


 鷲星が案内したのは、広く清潔な店だった。二階席もある。朱塗りの柱に、詔帝の象徴である黄龍の像が巻き付いている豪奢な内装だ。

「俺の行きつけ。見た目のわりに、値段は良心的だぜ」

 鷲星の顔見知りと思しき店の女主人が、自信ありげにお品書きを差し出した。

「鷲星。金儲けにしか興味のなかったあんたが、こんな美人を連れてくるなんてねぇ」

 織風の顔と鷲星の顔を見比べて、恰幅のいい女主人はにこにこと笑っている。鷲星は意に介さず、品書きから目も離さずに言った。

おばさん。なんか勘違いしてないか? こいつは天人だ。俺は昼飯をおごってもらう代わりに、穂楽視察の案内役を引き受けてるだけ」

「て、天人さま……!」

 織風が天人とは気づかなかったらしい。李夫人はあわてて膝を折り、平服した。店の奥からは料理長の夫も飛び出てくる。周りの客たちも続々と席を立って膝立ちになり、みないっせいに織風に向かって頭を垂れた。

「あの……。どうか頭を上げてください。私は、みなさんに礼をされるような者では……」

 恐縮しきりの織風はあわてて立ち上がる。

「いーやいや。天人さまはそこにいらっしゃるだけで吉祥の証だ。あたしたちの店を訪れてくださって、ありがとうございます」

 そう言うと李夫人は再び頭を下げた。

 黒目黒髪の織風は、自分から申し出ない限り、地上では天人だと気づかれたことはない。練心、弯月、盤仲の悪童どもは、織風を天人とも思わぬ扱いをするので、敬われている感じが皆無だ。地上で天人が本来、どれほど敬われているのか。はじめて身を持って知った。

「みんな、さっさと座ったほうがいい。でないとこのあわれな天人は、ずーっと立ちっぱなしでいるだろうよ」

 鷲星が諭すと、ようやく客たちは元の席に腰を落ち着け、李夫妻も厨房へと戻っていった。

 運ばれてきた料理の数々に織風は目を輝かせた。見た目の色合いがうつくしく、また味も抜群だった。

「おいしい! 地上の食事というのはこんなにもおいしいものなのだな」

 皮を破ると肉汁があふれ出てくるひと口饅頭、辛い胡麻だれのかかったえんどう豆の練り麺、揚げ魚の甘酢だれ。机に乗りきらないほどの品が、次々に運ばれてくる。

「うまいだろ? 地上の飯を食うのははじめてか?」

 鷲星は挽肉の薄皮包みを手早く巻いて口に運んでいる。

「ああ。私たちは太陽光から栄養を得るから。生命維持のためには飲食を必要としないのだ。だからこれまでお使いに来ても、なにも食べずに帰ってしまった」

「それでも社交目的で、人間と一緒に食事をすることがあるんだよな?」

「ああ。よく知っているな」

 天人の食事の慣習について、織風から教えたことはない。鷲星はどこかで話を聞きおよんでいたらしい。そのことを意外に思う。

「天人が口にした食事は、喉を通るまえにどこかに消えてしまうのだそうだ。だから風味は人と同じように感じられても、お腹がふくれるという感覚がない」

「そりゃ、天帝や仙聖に線香の煙を捧げてるようなもんだな」

「言い得て妙だな。感覚的には近いかと思う」

 天人は神出鬼没だ。それゆえ、出会えるのは強運の証とされている。人が天人と言葉を交わす機会は希少だ。穂楽に定住している頻羽でさえ、永盛城に住まいを賜っているので、めったに人まえに姿をあらわすことはない。鷲星は一体、いつ、どこで自分以外の天人に出会って、話を聞いたのだろうかと不思議に思った。

「満腹にならないなら無尽蔵に食えるな。どんどん食え」

 鷲星が大皿に余っていた料理を次々と織風の皿に取り分けるので、思考が中断された。

「満腹にはならないけれど、おいしい料理をたらふく味わえて、もう目と舌が満足したよ」

 浜辺に打ち上げられる海藻のごとく目のまえに料理が押し寄せるのを見て、織風は思わず吹き出した。

「きみは本当においしそうに食べるのだな」

 鷲星の胃袋は無限に広がるようで、李夫人に白飯のお代わりを持ってきてもらうと、大きな口をいっぱいにして、惣菜とともにうまそうに頬張っている。

「それに、なんだか楽しそうだ」

「そりゃ、おまえさんといるからかな」

 鷲星がにやりと笑い、織風はなぜか心臓がどきりとした。いつもの皮肉げな笑みではない。心から楽しそうな――というよりは、どこか慈愛さえもたたえた顔で鷲星が笑いかけたからだ。

「そんなに、私と話すのが楽しいのか」

 特に取り柄もない身だと思っているので、ともに過ごすときを楽しんでもらえたのならば嬉しい。

「楽しいよ。おまえさんを見ていると、なにをやらかすのか予想がつかなくて楽しくなる。粗忽者だからかな」

 実は李食堂に至るまでの道のりでも織風は必殺の、なにもないところで転ぶという粗忽ぶりを披露していた。

「ひどいな、きみは。粗忽者などと言われて、よろこぶ者がいるものか」

「それだけが理由じゃないさ」

 含みを持たせておいて、鷲星はひょいと箸で揚げものをつまむ。そのほかの理由はなんなのか。問いかけようとしたところで、

「天人さま、お口に合いましたかねえ?」

 李夫人により、会話の応酬が一時中断された。織風のことがよほど気になるようで、食事中も頻繁にお茶のおかわりを注ぎ、皿の交換にやってくる。いまはちょうど、甘味を運んできたところのようだ。盆のうえに小さな器がふたつ乗っている。

「ああ。どれも手が込んでいて、おいしかった」

 そう言うと李夫人は嬉しそうに、むっちりとした頬を持ち上げてにこにこと笑った。

 食後の甘味として供されたナツメの白玉団子を口にした鷲星が、違和感にぴくりと眉毛を動かした。

「あれ、おばさん。味付けを変えたか? じゅうぶんうまいけど、まえのとなにかが違う」

 織風たちの机から手際よく空いた皿の回収をしつつ、李夫人は嘆息した。

「気づくとはさすがだねー、鷲星。実は急遽、ナツメの入荷さきを変えたのさ。まえまでは穂楽の果樹園から買っていたんだけど、今年は不作でねえ」

「それでか」

 鷲星はさじで白玉を口に運び、もごもごと咀嚼して味の違いをたしかめている。

「ほかにも、夏瓜が不出来でさ。そっちは仕入れのめどが立たないんだよ」

「だから品書きから夏瓜と豚の塩漬け炒めが消されてたのか。ここの名物なのに」

 皿の乗った盆を机の端に置くと、李夫人はややためらい気味に口にした。

「……ここのところ、穂楽周辺の土地が痩せているんだよ。天候が悪いわけでもないのに。不吉なことのしるしじゃないといいんだけどねえ」

「あなたの予感は正しい」

 夫人のため息にかぶせるように、浪々とした声が店内に響いた。

 織風が階上を見やると、声を発した男が降りてくるところだった。男は口ひげをたくわえ、藍色の布地で仕立てた着物をまとっている。幅の広い帯の前垂れには白色で北斗七星が染め抜かれていた。

「近頃、穂楽に出入りしている術士だ。星占いに絡めた根拠のない話ばかりして、人を惑わす」

 男の正体に気づき、顔をしかめた鷲星がひっそりと織風に耳打ちする。

「明けの空に、金赤星が浮かんでいるのを見た。暁天の金赤星は、凶事の証。愛鸞帝が帝位にふさわしくないとする、天帝のお告げだ。土地が枯れはじめたのは、その前兆に過ぎない。このまま放っておけばいずれ、大惨事を招きかねん」

 術士の男が階下に降り立ち、不吉な予言に店内がざわついた。「大惨事ってなんだ」「まさか、凌雲国の滅亡か」などと、不安なささめきの声が聞こえてくる。

「あ……あたしが余計なことを言ったせいで……」

 店内を不穏な空気で満たすきっかけを作ってしまったと、李夫人は自責の念に駆られてさーっと青ざめた。

 だれもが不安な顔をしている。客たちを不安に駆り立てた術士は、自信ありげに胸を張っている。

 織風の胸に、もやりとした感情が湧いた。その感情の正体をつかむまえに、「いまの発言を看過してはならない」という熱い衝動に突き動かされた。席を立つと、男のまえに進み出る。

「憶測で物事を語るのはよくない。皆が不安がってしまうだろう?」

 うろんな術士の雰囲気にはじめは「すこしこわいな」と警戒していたのに。自分でもびっくりするほど毅然とした声が出た。男は試すように片眉をつり上げるが、織風はひるまなかった。

「愛鸞帝は我が主、翠藍と手を取りさまざまな新薬の開発をなされてきた。愛鸞帝が詔帝となってから凌雲国の治世は安定し、経済はますます発展している。人の世を正しく導く愛鸞帝が詔帝としてふさわしくないなど、どうして天帝が考えるだろうか」

「ふん……天人め」

 術士はたっぷりと敵意を込めた顔で、織風の頭からつまさきまで視線を往復させてねめつける。普通の人とは違い、天人を敬う気はないようだ。最前から店内にいたのだろう。織風が天人とあがめられるのを目撃して、面白くない気分だったのかもしれない。反論が思いつかないようで男はじっと押し黙っていたが、「いまに、わかる」と不穏なひと言を残すと、番台に撒くように銭を置いてから店を出ていった。

「さすがは天人さま。インチキ占い師なんて目じゃないね!」

 男が去ると、李夫人は嬉しそうに織風の背中をばんばん叩いた。腕の圧力で、思わずよろめきそうになる。

 店の客たちも一様にほっとした顔をしている。客たちの不安を取り除けたのだと思い、織風もほっとした。ほっとするのと同時に、さきほど男に対して湧いた感情の正体をようやく把握した。

 あれは怒りだ。織風は、根拠の乏しい発言で人々を不安に陥れる男に怒りを覚えていた。温和な織風はなにかに怒りを覚える機会が乏しい。それで、自分は怒っているのだと気づくのに時間がかかった。

「おばさん。店のまえに『術士おことわり』の札を下げとくのはどうだ?」

「そうするよ。また今度来ようもんなら、塩を投げつけてやるから」

 店内をいやな雰囲気にしたまま男が立ち去り、店のなかにどんよりと停滞していた重苦しい空気を、鷲星の軽口が笑いに変えた。

 甘味もきれいに片付けたところで、天燈の材料を買いにいくぞと鷲星にうながされた。薬剤を値切って浮いたぶん、李食堂の支払いを全額持たされるかと思っていたのに。結局会計は織風が半分、鷲星が半分の折半になった。

「なあ、鷲星」

「なんだ?」

 だれかのために声を上げられた。だれかの不安を取り除けた。天人としてあるべき務めを果たせたようで、織風はなんだか舞い上がっていた。

「私にはまだ、地上でのお役目がないのだ。たまに地上に降りるときには、翠藍さまのお使いばかりで」

 なにを言い出すのかと、鷲星は半目気味の眼でわずかに首をかたむけつつ、おとなしく話を聞いている。

「私には特に秀でた能力がないから。どのように人の世の役に立てるのか、お役目がなかなか思いつかなくて」

 希望で満たされた心の裡を象徴するかのように。午後の光に照らされて、織風のまとう薄い衣がきらきらとやわらかい光をたたえた。

「でも、さきほど考える道筋が見えた気がするのだ。人々の不安を取り除くことというのはひとつ、意義のあるお役目ではないかな? まだ具体的に、なにができるのかまでは思いつかないのだけれど……」

 まあせいぜい、がんばれ。

 てっきりいつもの飄々とした口調で、励まされるだけだと思っていたのに。

「……そうか」

 鷲星は表情に見たことのない陰りを浮かべて、重苦しく返事をよこした。

 思いがけない反応に、話を切り出した織風は戸惑ってしまった。鷲星の反応が芳しくない。自分はなにか、よくないことを言ってしまったのだろうか。戸惑いがふくらむ。お役目への道筋が見えて浮かれてしまったことを、なんだか申し訳なく、恥ずかしく感じたほどだった。

「なあ、織風」

 鷲星が足を止めるので、織風もつられて立ち止まった。

「天人としてのお役目なんて、果たさなくてもいい」

「え……」

 予想外のことを言われて、織風の戸惑いは頂点に達した。

「本当のところどうなんだ? おまえさんは本気で、人の世の役に立ちたいと思っているのか?」

 織風は天人として生まれて六十年あまり。長いこと、自分にはなにができるかを考えてきた。なにも思いつかなくて、不甲斐なさを味わってきた。人の世を正しく導くために貢献することこそ、織風が渇望しているものだとはっきり言える。

「ああ、そうだよ。天人に生まれたときから私の使命は、人の世に役立つよう貢献することだ。私は早く、地上のお役目を見つけたいと思っているよ」

「それは本当に、おまえさんの望みなのか?」

「……それは、どういうことだろうか……?」

 鷲星が深掘りする意図がわからず、織風は回答に困った。

「おまえさんが人の世の役に立ちたいと思っているのは、たまたま天人に生まれたからじゃないのか? 天人は世のなかを正しく導くもんだって思い込みに縛られているだけで、それはおまえさん自身の意志じゃないだろうと俺は訊いたんだ」

 思いがけない指摘に、どう答えようかと一瞬、ひるんだ。

「……そんなことはない。お役目のためなら私は、この身を犠牲にしてでも尽くすべきだと考えているよ」

 お役目探しに奔走する自分の懸命さを否定されたようで面白くない。織風は少々意地になり、そう反論した。反論しつつも心のなかでは、これが自分の本音なのか迷いが生じていて、嘘をついたような気分になってしまう。

 お役目探しは思い込みにとらわれた結果。そんなこと、これまで考えたこともなかった。おのれを犠牲にしてでも人の世の役に立つという織風の望みは、考えるまでもなく明白な気がしていた。でも、これまで思い至らなかっただけで、鷲星の問いかけこそが真実なのかもしれない。心の底では織風はそこまで、人の世のために尽くしたいなどとは望んでいないのかもしれない。

 これまで気にかけたことすらなかった点を鋭く突かれ、織風には急に、自分の気持ちの在処がわからなくなってしまった。

「……変わってないな」

 鷲星はため息を吐く。たったいましがた生まれた、見解の違う二人を隔てる溝に対するもどかしさを、肺腑の奥底へと押し込めるように。

「おまえさんはまるで変わらない。自分のことよりも、人のことばかり気にかける。それで自分を犠牲にすることさえ、いとわない」

 織風はなんとなく、鷲星の発言に違和感を覚えた。

 鷲星と出会ったのはわずか半年まえのことだ。初対面のころから変わっていないな、という感想を述べるには時期尚早な気がする。何年も親交が途絶えていた友と再会したときのような劇的な変化を、たった半年まえに出会った相手に感じるはずもないだろう。

 鷲星とはじめて出会ったとき、人買いにだまされていたのだとようやく気づいた織風は、自分以外にも誘拐されかけた人がいたと知ってようやく憤り、誘拐犯に怒りを燃やしたのだ。それで鷲星に、「自分もさらわれたっていうのにあんた、人ごとみたいな反応するんだな」とあきれられた。きっと鷲星の目には、人のことで頭がいっぱいで、同じくさらわれかけた自分のことはおざなりにするおかしなやつだと映ったのに違いない。でもそれで、「自分を犠牲することさえいとわない」などと言われるのは、少々表現が飛躍しすぎてはいないだろうか。

「前世の記憶はまだ戻らないか?」

 ふと、会話の流れとは無関係な質問が差し挟まれた。

「あいかわらず、さっぱりだ。……どうしていま、訊いたのだ?」

「べつに。ちょっと気になっただけだ」

 出会って早々、鷲星には前世の記憶がないことを告げていた。以来、会うたびに記憶が戻ったかどうか訊かれる。天人ながら前世の記憶がないことで思い悩む織風を気遣ってくれているのだろう。ただ、普段からしているやり取りとはいえ、いま同じ質問を挟むのはあまりにも無作為すぎないかと虚を衝かれた。

「自分を犠牲になんて、するな」

 鷲星は織風を諭す。決して叱りつけるようにではなく、どこか失恋を引きずった人のように心がひりひりと痛んで悲しげな様子だった。常に活気のある鷲星のそんな悲し気な顔を見ていると、悲しみが伝播して織風の心まで痛くなりそうだ。

「自分を犠牲にしてまで、なにかを成す必要はないんだ。おまえさんが望まないのなら、お役目なんて果たさなくていい」

「鷲星、けれど……。それでは私は、一体なんのために生まれてきたのか、わからなくなってしまうよ」

 織風は急に心細くなった。これから数百年間続く命を賭して、きっとなにかを成しとげられるよう、天帝は織風を天人に生まれ変わらせてくれたというのに。突然、「なにもしなくていい」なんて言われると、これまで自分を支えてきた拠り所を失ってしまって、なにを支えにしたらいいのかわからなくなってしまう。

「ただ愛する人と寄り添って生きていく。それだけじゃだめなのか?」

 愛と口にされて、織風ははっとなった。愛という概念は知っている。でも知識だけだ。実感を伴って、愛がなんなのか理解したことはない。

「俺はべつに、自分の人生を賭けて成功したいとか、金持ちになりたいだとか思わない。ただ好きな人と一緒にいられさえすれば、それでいい」

 鷲星は愛を必要としている。織風には、愛がなんなのかわからない。生殖を必要としない天人には生来、だれかを愛し、愛されたいという、人であればごく当たりまえに発露させる感情的な欲求が乏しいのだ。

 鷲星がひどく悲しげだ。鷲星がこんなにも沈んだ表情をするのを、織風ははじめて目にした。その表情の哀切さに、心臓をきゅっと引き絞られた心地がした。

「自分を犠牲にして……おまえさんはそれで満足なのかもしれない。けどそれは、おまえさんを大切に思う人にとって、このうえなく残酷な仕打ちなんだよ」

 鷲星は眉根を寄せて苦しそうに、頭を振った。

「おまえさんを大切に思うだれかを悲しませるのと引き換えにことを成しても、そんなものを成果とは呼べない。俺は、呼びたくない」

「……きみの言うことには、一理あると思う」

 鷲星の言説は、客観的には論理的だ。でもその言葉は、論理を超えた大きな感情の揺らぎで震えている。怒りがもたらす、揺らぎだ。

 鷲星は織風に対してというよりは、なにかべつのもの――言葉にできないもっと抽象的ななにかに対して憤りを抱えているように見えた。

 鷲星の心の根っこの部分に、暗鬱とした病のような悲しみが巣くっている。それは昨日、今日と、発現して日の浅いものではない。長年、鬱積しては鷲星を苦しめているものだ。そうでなければこれほどの憤りと、どうしようもない悲しみとが、言葉や表情の端々からあふれ出てきて、織風までも沈んだ気分にさせるはずがない。

「鷲星……。昔、なにか悲しいことがあったのではないか……?」

 織風は小さな顔を気遣わしげにかたむけて、鷲星の顔をのぞきこむ。

「私でよければ力を貸せないだろうか。その、話を聞くくらいしかできないと思うのだが……」

 織風が申し出るのに鷲星はふっと軽く笑い、首を横に振った。

「いいんだ。とにかく言いたかったのはだな、俺はおまえさんが幸せでいてくれれば、それでいいってことだ。おまえさんはもっと、自分の幸せのためだけに貪欲でいていいんだよ」

 これ以上、気まずい空気が滞留するまえに、鷲星がさっさと歩を進める。遅れを取らないよう織風も再び歩き出した。

「おっ、並んでる。やっぱりあの店の天燈が一番長く飛ぶからなあ」

 鷲星は織風を問い詰めていたときの重苦しい表情から一転、ぱっと笑顔に切り替わり、目のまえで列を形成している人の群れを指さした。列のさきは小さな出店につながっている。

「俺たちも並ぼう。行くぞ」

 織風の心に刺さったかすかな棘から目を逸らさせるように。鷲星はついさきほどの会話などまるでなかったかの様子で、織風を急かした。

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