粗忽な天人の通い婚

森野稀子

第1話

 まだ陽も昇りきらない鶏鳴のころ。

 凌雲国りょううんこくの首都、穂楽すいらくの大通りを、織風シーフォンは必死になって駆けていた。くるぶしまで届く黒髪が風に舞う。

 穂楽の町は徐々に目を覚ましつつある。朝飯を売る屋台の支度をはじめる商売人に、牛車を引いた荷物の配達人がまばらに行き交い、早朝なりのにぎわいを見せていた。

「すまないっ・・・・・・! どいてもらえるか・・・・・・⁉」

 早出の仕事人達にぶつかりそうになるたびに、織風は迷惑を詫びつつ走る。でも足は止められない。鷲星ジュウシンとの約束があるからだ。約束の時間にちょっとでも遅れたら、余計な奉仕を追加される。

 鷲星への奉仕は、織風が望まないもの。ものすごく気まずくて、恥ずかしくて、鷲星と一緒にいるのが居たたまれなくなるものだ。

「あっ…………。す、すまない! 怪我は?」

 たまに人にぶつかりそうになると、そのたびに織風は律儀に足を止め、体を水平に折り曲げてぺこぺこと謝った。せっかく走って稼いだ時間が、これで食いつぶされる。謝り倒すと再び走り出す。織風が走ると、薄衣を幾重にも重ねた着物の裾と、背中から両腕にゆるくかけた披帛ひはくが、空気を含んでやわらかく揺れた。

 これほど急ぐのには理由がある。寅の刻の待ち合わせを、酉の刻と聞き間違えたのだ。夜の待ち合わせのはずが、早朝の待ち合わせに逆転した。

 聞き間違えたのも無理はない。前回の逢瀬で約束の時刻を告げられる直前に、衝撃的なことが起こったせいだ。それでどうにも頭がぼうっとしていた。

 でも、あんな恥ずかしいことをされたのだから、仕方ないのだと思う。鷲星がわざわざ寝所に織風を横たわらせ――そして、夫婦の営みになぞらえて、手の傷口から滴る血を舐めるような真似をするのだから――。

 他者との親密な触れ合いに慣れていない織風にとって、それはあまりにも強すぎる毒だった。鷲星はどうも、定期的な補血の義務を、愛の営みと結びつけたがるところがある。鷲星の元に通うごとに、織風は気恥ずかしさが増す一方だ。

 織風は大鷲団だいじゅうだんの三階へと駆け上がり、部屋と廊下を仕切る扉を開け、なんとか時間どおりに鷲星の私室へと飛び込んだ。

 織風は五日おきに鷲星の元に通い、自らの血を差し出す。鷲星は織風の血を餌として摂取する。それが、二人の交わした契約だからだ。血を飲ませるのを怠れば、鷲星は六日目から徐々に衰弱し、やがて死に至る。

 すべては織風が蒔いた種のせいだ。それは自分でわかっている。けれど織風から血をもらう鷲星はいつも楽しそうで、この時間を気まずく思う自分だけが、なぜか損をしているような気がしてしまう。

 この奇妙な契約関係がはじまるきっかけは、およそひと月まえにさかのぼる。


 さかのぼることひと月まえ――。織風は翠藍スイランのお使いで、蓮花天れんかてんのはずれにある大蓮の様子を見に訪れていた。

 蓮花天は天人てんじんたちの国だ。季節関係なく温暖で、満開に咲き誇る蓮の花と、清浄な水に満たされた場所。生まれ故郷のうつくしい光景をながめているだけで、織風が自然と心がおだやかになる。たまに翠藍のお使いで地上に降りることもあるけれど、物静かな織風は穂楽の町の喧噪がすこし苦手だった。穂楽は、昼日中の最盛期には、大通りで肩がすり合うほどに人が密集して行き交う活況さを誇る大都市だ。

 天人は神ではなく、また人でもなく。ちょうどその中間に位置する存在だ。神々や、神々に準じる地位にある仙聖せんせい、そして人や動植物と同じく、すべての生類を統べるこの世の最高神、天帝てんていがお作りになった存在のひとつなのだ。

 天人の姿形は、人とそう違わない。ただ、人と違い総じて長命だ。不老長寿の天人は、青年期の見た目を保ったまま、数百年は生きる。その髪の色や目の色は宝石の色素を混ぜ込んだようなさまざまな色をしており、人と姿を同じくしながら、ひと目で天人だと見分けがつくのが特徴だ。唯一、織風だけは例外だ。織風は天人でありながら市井の人と変わらず、髪も目も真っ黒だった。

 もうひとつ、天人には人と違うところがある。神々や仙聖と同じく、天人は繁殖のために生殖を必要としないのだ。天人の新たな子どもは、蓮花天にある大きな蓮の花のなかに生まれてくる。新たな赤子が生まれていれば、普段は閉じている花弁が開いており、なかに嬰児が丸まっている。織風が確認したところ、蓮の花弁は閉じたままだった。

 今日も新たな天人の誕生はなかったか――。

 さっそく翠藍に報告しなければと織風が藍宮らんぐう――天人たちの長である翠藍の常駐する宮――を目指してぶらぶらと歩いていたところで、先達の頻羽ビンウと行き合った。

「織風。そろそろ大蓮のお役目から戻るころじゃないかと思っていた」

 頻羽は軽く片手を上げてあいさつをよこす。かたわらには大男の剛毅ゴウキを伴い、どうやらここで待ち伏せしてくれていたらしい。いつもかぶっている史学者用の角帽が、肩の線でまっすぐに切りそろえた頻羽の白銀の髪には抜群に似合っていた。

「頻羽さま」

 織風は小走りに頻羽に駆け寄ると、頻羽と剛毅に向かい、軽く膝を折りかわいらしく礼をした。

 頻羽の目は、左目が緑で右目が青い。白銀の髪の一部にも同様に、緑と青の変色があらわれる。頻羽は変色が混ざる部分だけを長く伸ばし、頭頂部で団子に結って余った髪を背中に長く垂らしていた。

 せっかくの美貌なのに、着るものにはかまわない質らしい。頻羽は艶を帯びない生地で、みすぼらしくない程度の刺繍で仕上げた、地上の官吏と変わらない地味な格好をしている。この容姿できらきらしい衣装に身を包んだら、あまりの輝かしさに直視できないかもしれない。

「まえに相談されていた、きみに前世の記憶がない理由。『これじゃないか』と思える説に行き当たったのだ。地上に戻るまえに、さっそく話しておきたいと思い待っていた」

 織風は顔を輝かせた。前世の記憶に関することは、どんな些細な情報でも嬉しい。

「ありがとうございます、頻羽さま! ぜひ、聞かせてください」

「よかった。では剛毅はさきに凌雲国に戻っていてくれ」

 見ると剛毅は腕のなかに、巻物を大量に抱えている。どうやら蓮花天には資料を取りに立ち寄り、またすぐに地上に戻るところだったらしい。

「いえ、剛毅さまもご一緒に。ちょうどお二人で凌雲に戻るところだったのでしょう? 頻羽さまと剛毅さまの貴重なお時間を、私が奪うわけにはいきませんから」

 地上でのお役目がある頻羽と剛毅は忙しい。その忙しい人たちの時間を、自分のために割かせてしまうなんて……。頻羽が織風の相談ごとに乗ってくれるのは純粋に、面倒見のよさと親切心によるものだ。面倒だとは決して思っていない。そうわかっていても織風は気が引けてしまう。

 頻羽は、地上で史学者というお役目を賜っている。それも穂楽に置かれた永盛城えいせいじょうの城主であり、凌雲国の女帝である愛鸞帝あいらんていにお仕えをしているすごい人なのだ。頻羽はよく切れる頭と抜群の記憶力を活かして、凌雲国の歴史学者となり、愛鸞帝の元で国史の編纂にいそしんでいる。天人たちはそれぞれが頻羽のような異能を秘めており、みな違った形で、人の世のために貢献している。

 天人は人の世を正しく導くという使命を帯びて生まれてきた天帝の使いだ。そのためになにができるか。地上でのお役目は、個々の天人が自分で考えることになっている。織風にはまだ、地上でのお役目がない。

(私には前世の記憶が欠けているから……天人らしい見た目に生まれなかったのかもしれない。だから六十歳を迎えてもまだ、地上でのお役目が見つけられないままなのだろうな……)

 すでにお役目を見つけて活躍している天人の先輩方に思いを馳せると、尊敬の念が湧き上がる。同時に、まだなんの役にも立てていないおのれの不甲斐なさを味わって気後れしてしまうことがある。自身の記憶がないことと、まだ地上でのお役目を見つけられないことを、織風はどうしても関連づけて考えてしまうのだった。

 あれはちょうど、織風が十五歳の誕生日を迎えたあとだった。

「そろそろ、おまえの前世の記憶について教えてもらっていいか?」と翠藍に尋ねられた。問われて織風はきょとんとした。前世の記憶などあるはずがない。翠藍の質問の意味がよくわからなかったのだ。

 喜怒哀楽の「楽」以外の感情をあまり表に出さない人なのに。記憶がないと告げると、翠藍は流麗な切れ長の目をかっぴらき、めずらしくおどろいていた。

 そのときに織風は知ったのだ。――天人たちはもれなく、前世の記憶を持って生まれてくるのだと。同時にいま生きている天人たちのなかで、織風だけが前世の記憶を持たないのだと。

「気を遣ってもらってすまないな。では、こちらも手短にいこう」

 こほん、と頻羽は咳払いをする。

「天人は、ひと世代まえの前世の記憶がある状態で生まれてくる。どのくらい記憶がはっきりしているのかは、個々の天人による。私のように生没や、その間の出来事を断片的に覚えている者もいれば、まるで昨日のことを思い出すかのように鮮明に記憶している者もいる。ここまでは織風も知ってのことだと思う」

 解説の姿勢に入った頻羽の問いに、織風はうなずく。

「天人には前世の記憶がある。それはなぜなのか。実は翠藍さまでさえ、はっきりした理由をご存知ではないんだ。ただ天人たちの話を総括するに、総じて前世で若くして不運のうちに命を落としているのだとわかった。早逝した者たちをあわれんだ天帝が、今世では時間を気にせず使命をまっとうできるように、我らを不老長寿の天人に転生させてくれたという説がもっとも信憑性が高い。これも知っているか?」

「はい。私の記憶がないと発覚したときに、翠藍さまが教えてくださいました。それと天人たちは前世で命を落としたときの年齢で、見た目の年齢が止まるのだとも」

 織風は二十三、四の青年にしか見えないが、実年齢は六十歳になる。頻羽とその隣に立つ剛毅も、見た目は織風と同い年くらいにしか見えない。でも頻羽は織風よりもさきに生まれて長く生きているので、実年齢は百歳を超えている。

「うん。では――。ここからがきみの知らない話になる。転生できるのは、人間と天人に魂魄こんぱくがあるからだ。その魂魄の役割が鍵だったのだ」

 頻羽は右手の人差し指を立てて、首を振る。なんだか、私塾で歴史の授業を行う史学者の先生みたいな仕草だ。

「魂魄はその人の性格や人格に当たる『こん』と、その人の経験に当たる『はく』で一対だ。魂と魄は相互に作用しあっている。つまり、その人の性格――魂がなにを経験するかを選ばせ、経験したことで得た学びが魄に蓄積され、人格形成に影響を与える。魄は経験の蓄積であり、つまりは記憶だ。天人たちに前世の記憶があるのはおそらく、おのれのなかにある魄の中身を見ることのできる異能があるからではないかというのが私の推測だ。稀に人間でも、前世の記憶を持って生まれてくる者がいるだろう? あれは我々と同じく、人でありながら魄が見える異能を持っているということなのだろうな」

 織風は真剣に聞き入った。聞き入りながら、魅惑的にまばたきをする頻羽の目のうつくしさに心を奪われる。

 人間ではありえない目の色と髪の色。いかにも、人間が思い描くうつくしい天人の容貌だ。

 対する織風は髪の毛も、目の色も真っ黒だ。おまえのそれは、黒真珠の艶を帯びた髪に、漆黒の金剛石のきらめきを放つ瞳なのだと、翠藍は織風のうつくしさをほめてくれる。だから不満があるわけではないけれど、もっと天人らしい見た目だったらよかったのに、とたまに残念に思うことがある。

 翠藍のお使いで地上に降りると、織風は町の人たちに埋没してしまい、天人だと気づく人はだれもいない。天人らしく見えるようにとせめてもの策なのか、空気のように軽く、光が透ける薄衣を幾重にも重ね合わせた着物を、翠藍は好んで着せてくれる。いかにも人々が思い描く天人が着ていそうな衣なのだそうだ。

 また長い髪の一部を巻き上げて、頭頂部で螺旋状の団子を二つ結う髪型も翠藍の推奨だ。前髪を上げて、額が見えたほうが聡明そうな織風の容姿が際立つから、というのが理由らしい。頻羽のようにきりりとした顔つきの天人ならともかく、眦が下がったのどかな顔つきをした自分のどこに聡明そうな要素があるのだろうか……と、織風にしてみれば疑問でしかないのだが。それに髪を結った姿はまるで頭頂部から兎の耳が生えた人のようで、聡明さというよりは親しみやすさしか醸せていない気がする。

 いかに見た目を天人らしく着飾っても、実体的になんの役にも立っていないのではどうしようもない。

 天人らしくない黒目黒髪の見た目は問題ではないのに。見た目の違いが天人としての劣等感につながり、さらに前世の記憶がないことで、自分は天人としての資質が元から欠けているのだと思い悩んでいる。またそのせいで、いつまでも地上のお役目が見つけられずにいるのかもしれないと疑ってしまう。

 本当は、自分の不甲斐なさの言い訳なんてしたくないのに。つい、あれのせいで、これのせいで、と自分に欠けていることばかりに目が行き、責任転嫁をしたくなってしまう。それこそが自分の最大の問題点なのだと自覚しつつも、どう対処するべきなのかまるで思いつかない。織風は虚空にぼんやりと視線をさまよわせ、途方に暮れた。

「織風? 大丈夫か?」

 ぼうっと考えをはせていたところで、頻羽に呼び止められた。

「ああっ……。も、申し訳ありません……! ちゃんと聞いております……!」

 織風はぺこぺこと体を折って謝った。頻羽は織風よりもわずかに背が低い。身長差のぶん、折る腰の角度が深くなる。

「いや、それはいいのだが……。眉間にしわを寄せて、翠藍さまの謎かけを三日三晩、眠らずに考え込んでいるような険しい顔をしていたものだから……」

 織風はあわてて額に手をやり、眉間をもみほぐす。いまは集中して頻羽の話を聞くべきときなのだと、懊悩を頭から追い出した。

「続けるぞ。調べたところ、転生するためには最低限、魂が必要だとわかった。逆に魄はなくとも、転生は可能らしい。きみの場合は魄が抜け落ちているために、記憶がないのだと考えられる」

「ということは……。いまの私には魂だけがあり、魄が欠けている状態ということなのですか?」

「この推測で正解ならば、そういうことになるな」

 織風は胸に手を当ててほうーと息を吐いた。頻羽の推測がなんとなくしっくり来る気がする。

「きみ、前世で魄を落とさなかったか? あるいはなにかの理由で、転生するときに天帝が、きみの魄だけを抜き取ったとか」

「ええと……」

 頻羽の質問に織風は困り顔になった。そもそも記憶がないので、わかるはずもない。

「頻羽さま。織風殿には記憶がないのです。どこで記憶をなくしたかも、おわかりになるはずがありません」

 これまでだまって二人のやりとりを聞いていた剛毅が、はじめて口を挟んだ。

「あははは! たしかに、これは愚問だったな!」

 剛毅に指摘を受けた頻羽は自らの間違いを、さもおかしそうに笑い飛ばす。

「失礼、織風殿。頻羽さまは聡明で、大局を見ておられる方なのです。はるか遠くを見るがゆえに、たまに足下のことが見えなくなる」

 剛毅は慈しむようにして、おのれの主を見つめた。足下のことを補佐してやるのが自分のお役目であり、至上のよろこびです! と、気合いの充溢した目線で物語る。

 はじめ織風は、剛毅のことがちょっとこわかった。

 出会ったのは織風が二十歳を過ぎたころ。剛毅は頻羽の式鬼しきとなる契約を交わしたばかりだった。およそ四十年まえの当時はまだ、剛毅の見た目の年齢と実年齢がさほど変わらなかった。

 剛毅は主の頻羽を、その体のなかに抱き込んで隠してしまえるほど大柄だ。太く凜々しい眉毛をして、唇はいつもいかめしそうに引き結んでいる。赤みがかった短髪がつんつんと逆立ち、潔く額をさらしているところが、戦の神のように猛々しい。ただ目だけは不思議とおだやかで、水盤に張った水のような静謐さをたたえていた。剛毅は怒っているように見えて、ただ寡黙でおとなしいだけなのだとわかってから織風は、自分の性質に近しいものを感じ、親しみが湧いた。

「きみの魄が、どこかにただよっていればいいのだがな」

 頻羽が励ましてくれるのに、織風はあきらめを示して薄くほほえみ首を振る。宿主をなくした魂魄は天帝の元に飛んでいきやすい。元の体に戻るには、よほど強い意志がないと無理だ。織風の魄はきっと、天帝の下に召されてしまったのだろう。

「頻羽さま、剛毅さま、ありがとう。私に記憶がない理由がわかっただけでも、だいぶ心がすっきりしました。望み薄ですが魄をお返しいただけないか、天帝に祈りを捧げます」

「きっと聞き届けてくださるよ。私も記憶を戻す方法を引き続き調べてみよう」

 親身になってくれる頻羽に、織風は感謝で拱手した。

「お二人はこのまま凌雲に戻られるのですよね。戻って執筆の続きですか?」

「ならよかったんだがな」

 ため息を吐いた頻羽は、剛毅と顔を見合わせた。

「このごろ、べつのお役目のほうが忙しくてな。ろくに永盛城で腰を落ち着ける暇もない」

 もうひとつのお役目。その言葉に織風の胸が痛んだ。

 いま天人たちの多くは、「もうひとつのお役目」に狩り出されている。それは天人たちがおのおの、地上で見つけた本来のお役目とは異なるものだ。

「このごろ、妖魔ようまの跋扈がなぜか増えているのだ。愛鸞帝の治世は安泰だというのに。だから剛毅のように、腕に覚えのある者が頻繁に派遣される」

 べつのお役目とは、地上にはびこる妖魔討伐だ。

 妖魔は本来の寿命よりも長く生き、天帝により霊獣れいじゅうの位へと引き上げられる寸前だった動物が、突然変異により異形の魔物となったものだ。ただ人を食らうことのみを目的に生きる妖魔は凶暴にして残忍。一体、一体が、人を殺して食らうことに特化した身体機能に能力を備えている。

 妖魔は、かつて政事が不安定だったころに多く出現した。政事不安で人の心が乱れ、大気中の気脈が不安定になることで、霊獣が悪しきものに転変するよう作用してしまうらしいのだ。古来よりそれら魔のものは、星の動きを読み解き未来予知を行い、理を超えた不思議な呪の力を操る人の術士じゅつしにより封印されてきた。その封印にほころびが生じると、再び目覚めて人を襲うようになる。

 翠藍は、基本的に地上で起こることは人々が主導して解決するのに任せる主義だ。ただし妖魔の封印にほころびが生じたときだけは特例として、人の世に力を貸すべく天人と式鬼を討伐に派遣する。封印のほころびは経年による劣化がほとんどだが、世のなかが乱れると気脈が乱れ、封印が不安定になると言われている。

 討伐には危険が伴う。そのため人の術士により、戦わずして封じる道が選択されてきたのだ。妖魔討伐がどれほど危険か承知の翠藍は、ある条件を満たした天人しか、その任務には送り込まない。

「俺が指名を受けるせいで、頻羽さまを危険なことに巻き込んでしまうのです」

 頻羽への申し訳なさから、剛毅はしゅんと落ち込んだ。大きな体が八割くらいの大きさに縮んで見える。

「きみを責めたのではない。人の世の安寧を守るのも、天人としての大事な務めだ。――ただ、心配なのだ。妖魔との戦闘で、きみが毎回のように怪我をしてしまうから。きみが痛めつけられることに、私は耐えられない」

「頻羽さま!」

 剛毅ははっと顔を上げて頻羽の手を取り、両手でうやうやしく包み込んだ。背中を曲げて頻羽の顔をのぞきこみ、言い聞かせるように言う。

「俺こそ心配です。本当は討伐時、頻羽さまには安全なところにいていただきたいのに。俺に力を注がねばならぬゆえ、それがかなわない。俺が傷つくくらい、なんでもないのです。それであなたをお守りできるのなら」

「剛毅……」

 頻羽は目をきらめかせて、おのれの下僕を見つめ返す。織風の目のまえで、二人だけの世界が敷衍していた。

「それほど思い合えるお相手と出会えるなんて、うらやましいです」

 織風がすなおな感想を口にすると、熱く見つめ合っていた頻羽と剛毅はようやく現実に引き戻され、照れたように笑った。

 もともと、人間だった剛毅が頻羽とついの契約を交わし、式鬼へと転変したのは四十年まえのこと。

 式鬼とは、天人の使役する鬼だ。天人はただ一人、これと決めた人間を選び、血を媒介とした契約を結んで、おのれの使役する鬼人へと変える術を使うことができる。式鬼は天人の血を餌として生き長らえ、天人はおのれの血を与えることで、人を超えた力を式鬼に与えることが可能になる。

 天人とその対となった式鬼は、ひとつの命を分け合う。契約時点よりそろって、不老不死を得るのだ。体を傷つけられてもたちどころに修復し、病にはかからず、年を取らなくなる。天人は不老長寿を超えて不老不死となり、人間の場合は式鬼になった年齢以降、年を取らなくなるのだ。剛毅の見た目は二十歳そこそこだが、実年齢とは一致していない。四十年まえに頻羽と契約を交わした時点から、見た目の年齢がときを止めた。

 対の契約を交わし、式鬼を得ていること。これこそ翠藍が、妖魔討伐に向かう天人を選ぶ際の条件だ。妖魔討伐には死の危険が伴う。そのため、負傷してもすぐに回復可能で、死の危険もない天人と式鬼のみを任務に当たらせていた。

 永遠をともに生きるつがい。永遠に仕えたい、永遠に尽くしてほしいとこいねがう思いが通じ合う相手。それほどに思いを寄せる相手がいる頻羽と剛毅のことが、織風はすこしだけうらやましくなる。

 織風なら、だれを式鬼に選ぶだろう。ふとそんなことを考えて、心に浮かび上がる人がいた。

(……どうして鷲星の顔が浮かぶんだろう。たまに地上に降りたときに、言葉を交わす程度なのに)

 雲に手を突っ込み攪拌するように、いましがた心に浮かんだ人の顔をかき消すと、織風は笑みを作って頻羽たちを送り出す。

「頻羽さま、剛毅さま、どうかお気をつけて」

「ああ。きみも地上に降りるときには用心するんだぞ。封印を解かれた妖魔が力を得るには時間がかかる。復活を検知したらすぐに我々が向かわされるから、市中にまで入り込むことはないだろうが……。封印がほころんでいる原因がわからない以上、いつなにが起こるかわからないからな」

 織風は頻羽の警告にしかとうなずく。お役目のために地上へと向かう二人を見送ると、着物の裾を揺らし、藍宮を目指した。

 さきほどは式鬼のいる頻羽のことを一瞬だけうらやましいと感じたが、歩いているうちに考えをあらためる。

 天人とその対となる式鬼は、ひとつの命を分かつ。二人でひとつの命となる。

 天人と式鬼はだれに殺されることも、病で死ぬこともなくなる。「死」がなくなるのだ。ただ唯一、天人のみが対の式鬼を殺し、式鬼のみが対の天人を殺すことができる以外には――。

 どちらか一方が死ねば、対の契約は解除される。でも、ともに生きたいと望んだ相手を殺すだなんて。無限に続く生に倦んだ結果としてのやむなき選択なのか。はたまた、惚れぬいた相手をそこまで憎むようになった結果なのか。これまで契約を交わしてきた天人と式鬼のたどった運命について、織風はおそろしくて、だれにも詳細を尋ねたことはない。

 だれかとともに永遠を生きなければならない倦怠と、どちらかを殺すことでしか契約の解除がされないむごたらしさ。契約によって永遠の命を得るのと引き換えとして、天帝が天人たちに負わせた代償は、とんでもなく重い。その代償の重さを考えると、織風はこわくなる。対の相手を永遠に生に縛り、またその生殺与奪をおのれが握る覚悟と代償を、自分ではとても背負える気がしなかった。

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