第三章

25.トリステス

 プレジールさんの元を離れ、数分。彼女の幻覚の領域を抜けて、少し木々の開けた森の中にいた。


 「よし……ここなら問題なさそうだ」


 地面を少し足で均しならし、小袋から数本の月下花を取り出して目をつむる。恐らく、身体強化の魔術だろう。

 月下花……確か、贄に高い適性を持った魔術行使用の花だったはず。それを使うということは、それなりに大掛かりな魔術になるのだろうか。


 万一巻き込まれでもしないように木陰に退避していると、ミェルさんのいる場所を中心として一陣の風が舞い上がる。やがて手にしていた花は風と共に散り、薄紫色の光となって一瞬辺りを覆って、再び静寂が訪れた。


 「うん、この感じ……おおむね成功だと言えるねぇ。月音ちゃん、出ておいで」


 言われて、ミェルさんの前へと歩み出る。見たところ外見上の変化は感じることはできないが……。


 「プレジールの家で話した通り、今私の身体に肉体強化の魔術をかけた。今の私の脚力ならトリステスはおろか……本命のリスルディアまでも今日中に辿り着くことができるだろうね」


 「それは全力で止めるとして……その、やっぱり私を抱えて走る以外方法無かったりします?風圧とか凄そうだし……」


 私の不安を見通していたかのように、彼女は手早く纏っていたローブを脱いで、私の身体へと被せてきた。

 ローブが消えたことによって、薄着のミェルさんの姿が露わあらわになる。白く華奢な肩が大きくさらけ出され、大胆なスリットが入った漆黒のドレスワンピース。二の腕から指先までを覆う黒い手袋がしなやかなシルエットを演出していて、その美貌に思わず息を吞んでしまう。


 ……そんなこっちの事情などお構いなしに、彼女は飄々と答える。


「なぁに、そう不安がることはないさ。そのローブは並大抵の衝撃は通さないし、包まれていれば安全だよ」


「もう……っ、そういうのは諸々説明して、その上で優しくローブを貸し出すのが普通でしょ」


「それは失敬。優しく扱われるのがご所望ならば、お姫様抱っこでもするかい?


 「ほんとにあなたって人は……!」


「ははっ!そう怒らないでくれたまえっ……と!」


 揶揄うからかう彼女に思わず声を荒げようとした瞬間、唐突に私の身体は抱きしめられ、柔らかい感触が伝わると同時にふわりと足が宙に浮く。突然の出来事に一瞬、頭が置いてけぼりになった。

 ――私、お姫様抱っこされてる?


 「みっ、ミェルさん!?」


 「しっかり捕まっててくれよ」


 そういうなり、彼女は足の先に力を込める。地面が抉れて周囲の土が盛り上がる程の膂力りょりょくを見て、私は咄嗟にミェルさんの身体にしがみつく。

 そして込めた力を開放し、凄まじい衝撃と共に暴風を巻き起こしてミェルさんは大地を蹴った。


 「わっ……!!ぐええっ……!!!」


 強烈に吹き付ける風に間抜けな声が漏れてしまう。それでもミェルさんのローブのおかげで、不思議なほど痛みや衝撃は感じなかった。

 かろうじてミェルさんの肩越しから確認できる景色は尋常じゃないスピードで移り行き、私の目では到底追いきれない。


 「おおっ!!凄いなぁ!!身体強化魔術がこれほどの効力を発揮するとは……もっと早くに興味を持っておくんだった!!やっぱり何事も経験だねぇ!!」


 「舌噛みますよミェルさん!!」


 私の忠告も程々に、想像以上の魔術の成果に興奮した様子で森を横断していく。道中で川を越え、木を踏み台にして跳躍する。振り落とされないように捕まっていることしか私にはできなかった。


 「……っと、ここを抜ければっ!!」


 切り立った断崖を目前にして立ち止まったミェルさんは、一際力をその足に込めると、助走をつけてほぼ垂直の崖をあり得ない脚力で踏破していく。


 「ひいいっ……!!高いっ……!!」


 「下は見ないほうが身のためだよっ!」


 優に数十メートルはくだらないほどの絶壁を登り切り、そして――。


 「……!!ミェルさん、あれっ!」


 勢いよく足場を蹴り上げ大きく宙を舞う。

 そして目の当たりにした崖の向こう側の世界。


 「よっ……と。見えたね、トリステスが」


 ――今までの鬱蒼うっそうとした森林とはまるで違う、家々の立ち並ぶ国が、私達の眼下に広がっていた。

 

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