22 死
「エア様」
タシットの目は僕をじっと見ていた。僕は思わず視線を反らす。
「笑いにきたの? タシット」
彼はそっと牢獄から手を伸ばすと、僕の腕を拘束していた縄を切り始めた。
「こんなことになるとは。申し訳ありませんでした。グレイヴ家の執事として失格でございます」
プチリと音がして、縄が切れる。僕はそっとからだを起こした。格子越しに見たタシットは悲痛な表情を浮かべていた。
「私は、先代にも何度も上申いたしました。貴方ではグレイヴ家を継ぐのは難しいと。ですが、そんなことは所詮無理な話です。わかっていました。けれども、諦められなかった」
僕は心が痛む。
「そんなに僕が嫌いなんだね。タシットは。それなら、家を出ればよかったんだ。僕はすっかりタシットに寄りかかって、甘えて。信頼していたのに」
声が震えてしまった。涙がこぼれた。しかし。ふとタシットの温かい掌が、僕の手に触れた。彼は土で汚れ、冷たくなった僕の手を両手で握りしめた。
「そうではありません。逆です。私は、グレイヴ家当主の生き様を見てまいりました。貴方はまるで異端児みたいでした。生まれては死ぬ魂の輪廻を目の当たりにした時、そこに意味を見出そうとしたり、悲しんだりしたりする。先代はそんなことはされませんでした。貴方はお優しすぎるです。いつか、見送った魂たちの思いに押し潰されてしまうのではないかと、夜も眠れぬくらい心配しておりました」
タシットの手は、そっと僕のフードを外した。
「だから、どうしてもご当主の座から遠ざけたかった。こんなはずではなかったのです。マジェスティ様にそそのかされました。貴方のことを思うなら協力して欲しいと言われて。申し訳ありませんでした。こんなことになってしまうとは。私は愚か過ぎました。自らの欲に縛られた結果です」
「タシット……」
彼の手は温かい。子どもの頃から、彼の手の温もりを感じて育った。僕にとったら、親のような存在だった。
タシットが、僕が当主として不適切だと言っていたのは、僕をこの重責から解き放つためだったというのか——。僕は、すっかり誤解をしていた。タシットに認められていないと思っていた。ずっとだ。彼の優しさが、僕には理解できていなかったということだ。
「浅はかで愚かなのは、僕のほうだ。タシット。僕は本当に貴方に感謝しています。僕は……」
彼は首を振った。
「ご立派になられました。アンドラス侯爵を使いこなし、ビフロン伯爵とも契約を成すとは。御見それいたしましたぞ。エア様」
「大したことじゃない。二人とも、僕が無力で愚かだから、心配なんでしょう?」
「悪魔にそんな優しい気持ちなど存在いたしません。あの二人を制御できるほどの力が、貴方にはあるということです。私は嬉しいです。私が心配せずとも、貴方は立派なグレイヴ家のご当主となられた」
「でも、こんなことになっちゃったけどね」
「鍵を預かりました。皆、心配しております。王も貴方の犯行ではないと突っぱねられております。しかし、マジェスティ様は手ごわいです。正面切って彼らの提案を払いのければ、戦いの火種にもなりかねません。王は悩んでおられるようです。明日、法廷で争うということで決着はつきましたが、貴方を擁護する証言が出るとは思えません。結局は形だけの法廷。貴方はそこで死刑の宣告を受けることになってしまいます。ですから……」
僕は不思議だった。平和の均衡を保とうとする天使族がなぜ、逆に混沌を起こそうとしているのか。
「タシット。どうして、天使族はそんなことを? 僕たちは獣族と手を取り合って、平和を手に入れたというのに。敢えてそれを壊そうとしている理由がわからないよ」
タシットは周囲を伺うように視線を巡らせてから、僕に視線を戻す。
「彼らは、獣族と和解し、力をつけている人間族が疎ましいのです。世界は力の均衡が大事です。強き力を手に入れた人間たちを、天使族は叩きたいのでございます。そのために、皆の信頼を得ている王を亡きものにしようとしているのでしょう」
(確かに。スティールが世界会議で随分と苦労したって言っていたっけ。団結した人間族を恐れてるというのか。そんなことないのに。サブライム様は、他種族を攻撃などするはずもない)
「天使族とはそういうものです。彼らは融通が利きません。彼らは彼らの信念を貫くのみ。邪魔になるのであれば、魔族でも人間でも、容赦なく切ってきましょう」
悪魔よりも質が悪い存在であると思った。悪魔は僕たち人間の欲に答えてくれるだけだ。アンドラスは誰よりも人間らしい。自分の欲に忠実。自己が中心的な存在だ。それは人間も然り。僕だってそうだ。僕は僕のためにここにいる。そして、僕のために行動する。
けれど、悪魔と少し違うのは、人間は人のためにも行動するってことだ。大事な人のために、僕たちは命をかける。
「マジェスティ様がエア様を執拗に狙っているのは、アンドラス侯爵が言う通り、死者の門を開くことを目的としているのです。決して開けてはなりません。貴方が死んだり、闇に落ちたりすれば、門は開かれる。心をしっかり持つのです。大丈夫です。貴方なら、きっと、大丈夫です。さあ、鍵を開けますから。ここから出ましょう。王たちと合流し、天使族の野望を打ち砕くのです」
タシットは優しい笑みを浮かべた。僕は彼の手を握り返した。しかし——。ドスンと鈍い音がして、タシットのからだが揺らぐ。タシットは小さく呻いたかと思うと、その場に崩れ落ちた。その後に姿が見えたのは。マジェスティだった。
「涙の別れは終わりましたかな。グレイヴ」
「マジェスティ……」
僕は床に落ち込んだタシットに触れようと手を伸ばすが、それは叶わない。マジェスティの配下たちが、タシットを抱えた。タシットの背には、銀色の短剣が突き立ててあった。
「彼の忠誠心には、私も敬意を表したい。けれど、余計なことをされては困るのです。明日の裁判。タシット殺しについても罪状を加えておきましょう。貴方は、ご自分がしてきたことで裁かれる。そして死刑承諾書への判を押されるのです」
僕は伸ばした手をぎゅと握り締める。血が滲むほど唇を噛んだ。悲しんでいる場合ではないと自覚した。僕は彼を見上げる。
「恐ろしい目だ」
マジェスティはかがみ込むと、僕の頬に手を当てた。そして死者の門の鍵が眠る左目を指で触れた。
「この黄金色の左目が死者の門を開く鍵になっているのでしょう? まるで暗闇に浮かぶ獣の目に見える。なぜヘイディズは短命の人間に鍵を渡すのだろうか。鍵は、死をも知らない種族に与えるべきものだ」
「わかっていないんだね。貴方は」
マジェスティは眼鏡を光らせた。
「なんですって? 無知なる人間にわかって、我々に理解できぬことなどあるものか」
「あるよ。貴方たちは『死』というものを知らなすぎるんだ」
そうだ。天使も悪魔も。死を知らない。死を知っている者たちは、今を大事にする。いつ終わってしまうかわからない人生だからこそ、今を大事にするんだ。ヘイディズは死を支配する世界にいるから。人間が好きなんだ。
「お前たちに鍵は渡さない。僕はこの鍵を。この国を守る」
「まったくもって、根拠のない言葉ですね。いいでしょう。ここで鍵を奪ってもいいですが、後々面倒になります。明日の裁判を待つことにいたしましょう」
マジェスティに突き飛ばされて、僕は牢獄の中で尻もちをついた。彼らはタシットを連れて牢獄から出て行く。
ふとビフロン伯爵の気配を感じた。彼らは悪魔ではどうすることもできない銀の檻に閉じ込められているのだろうに。こうして気配は感じられるというのか。死ぬことはないけれど、酷い目にあわされているのかもしれない、と思うと心が痛む。
——主の願いは我の願いなり。
ビフロン伯爵の声が聞こえた気がした。
「そうだね。僕たちは契約者だ」
——承知。
牢獄を照らす炎が一瞬明るさを増したが、それもまたすぐに小さくなった
僕はじっと梯子を握り締めたままそこにいた。
僕は泣かない。
僕は逃げない。
僕は戦うと決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます