17 半分


 僕はふとビフロン伯爵を見た。彼は足元に転がってきた黒兎の頭を指さす。すると、するすると離れていたからだも、彼の元に引き寄せられていった。首とからだが一緒になる。伯爵は空中で、両手を合わせて握りしめた。


 黒兎の死骸は、ベキベキと音を立てて、小さく小さく縮んでいったかと思うと、あっという間に小さい四角に収まる。その四角い物体を、伯爵は親指と人差し指でつまむと、自分の口に放り込んだ。


 あれが契約者のなれの果て。僕もまた、このアンドラスにああして食べられる。悪魔の恩恵を受けたものは、死者の門を潜ることはできない。未来永劫、悪魔とともにある。


「契約者がいなくなったな。お前と戦う意味は失った」


 アンドラスはそう言った。ビフロン伯爵も小さく頷いた。それから僕を見た。


「グレイヴの子。我との契約を拒むか」


「……ごめん。違うよ。怖かったんだ。悪魔が」


「お前が、悪魔を怖がる?」


 アンドラスが笑った。


「お前ほど度胸が据わっている奴もおるまい。いいぞ。おれは。この魂、半分でも」


 アンドラスは僕を指さしてからビフロン伯爵を見た。伯爵はじっと動かない。意味が分からずにいると、アンドラスが僕を見下ろした。


「悪魔との契約は一対一だ。いただける魂が半減するからな。だが稀に二人の悪魔を使う人間もいるということだ」


 ビフロン伯爵は僕を見下ろした。


「我はお前を託されている。お前が求めるならば力を貸す。グレイヴの子」


「ちょ、ちょっと待って。じゃあ、死んだら僕の魂は半分こってこと?」


「そういうことだな」


「まあ、半分ずつということで致し方あるまい。侯爵が我に全てを譲ってくれるとは到底思えぬからな」


「譲るわけがなかろう。半分とは言っても、おれのほうが少し多めだ。おれのほうがいい働きをする」


「我はグレイヴ家の者との付き合いは長い」


「なにを言う」


 僕は二人の間に入った。


「ま、待って。待って。わかったよ。二人とも僕に協力してくれるってことでしょう? すごくわかった」


 僕は「ビフロン伯爵」と彼の名を呼んだ。すると、僕の額には伯爵の紋章が浮かび上がった。


「いつもありがとうございます。よろしくお願いします」


「精進するがよい。グレイヴの子」


 彼の頭の上の炎が揺れた。隣にいたアンドラスは「おい」と不満げに声を上げる。


「おれにはそういう挨拶は一つもない」


「え。だって。もう契約したじゃない。アンドラスの紋章はどこにあるんだろう」


「お前の背中だ」


 僕は思わず背中をのぞき込む。もちろん、マントの上からでは、確認できないのだが。


「そっか。じゃあ、契約したんだから、僕のいうことはきいてもらう。言っておくけれど、魂を粉々にするのは禁止。それから無用な殺生も禁止。僕がいいっていうまでは剣を抜かないこと。それから、その狼。えっと名前あるの」


「名などあるものか」


「そう。なら、闇の塊みたいな子だから『ヤミ』にしよう」


「なにを勝手に」


「この子は、そのままだとみんなが怖がるから。なんとかならないの」


 ヤミは「くーん」と鳴いたかと思うと、ボウンと煙に包まれて、小さくなった。それから、アンドラスの肩に飛び乗る。


「お前はおれを乗せる任があるだろう。なぜ小さくなる。そして、なぜおれの肩に乗る」


 アンドラスはヤミを𠮟りつけるが、ヤミは「くーん、くーん」と鳴くばかりだ。僕は「はいはい、やめ」と割って入った。


「いいじゃない。可愛いもん。それだといいね。みんな怖くない。みんなの前に出てくるときは、ヤミはその状態にすること。いいね? アンドラス」


「お前ごときに命令されるとは……」


 アンドラスはおれを睨みつけてきた。


「それから」


「まだあるか」


「あるよ。お前は人の心に憎しみや争いの種を植えつけるのが得意だっていうけれど。僕の許可なくそれをするのは禁ずる」


「目に見えぬものだ。そもそも人の心には憎しみが渦巻く。おれがやったという証拠もなければ、そうではないという証拠もないぞ。どう判断する?」


「アンドラス」


 僕は彼の目を見つめた。そして静かに口を開く。


「僕はお前を信じるよ」


 そう。僕とアンドラスは契約を結んだ。タシットもピスも、アンドラスと契約をしたことを知ったら、すごく心配するだろう。けれど。僕は生まれて初めて契約をした悪魔である彼を信じたいと思った。


「悪魔を信じる、だと?」


 アンドラスは金糸雀色の瞳を細めて、僕を見ていた。僕はフードを外すと、しっかりと彼の目を見つめた。


「そうだよ。バカみたいな話かもしれないけれど。僕とお前は契約をしたんだ。僕はお前のこと、信じるよ。ま、でも、嫌い。お前のことは大嫌いだけどね」


 ビフロン伯爵が珍しく奇妙な笑い声を立てた。


「これはまた、面白い子が出てきたものよ。愉快なり」


「知るか。おれはお前を裏切るやも知れぬぞ。お前が弱く、隙を見せたら。おれは迷わずお前を殺す」


「わかった。それでいいよ。だって、僕もお前が嫌いなんだから。僕も容赦しない」


 僕は頷いた。アンドラスは「変な奴め」と言ったかと思うとヤミを肩からおろした。ヤミはあっという間に元の姿に戻った。アンドラスはヤミに跨ると漆黒の闇に姿を消した。ビフロン伯爵も空へと帰っていく。厚い雲に覆われていた空は、いつの間にか光を取り戻していった。


 フードをかぶりなおすと、僕はサブライム様のところに駆け寄った。彼は気を失っているだけで、怪我をしているような様子はなかった。


「よかった」


 ほっとした。シマリス博士たちもやってくる。「お見事、お見事」と彼は言った。ちょっとだけ。僕の心に自信という言葉が浮かんでいた。





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