15 契約


 ——なんだ。かなりの腑抜けだったか。見込み違いだったな。


 ふと耳元で甘い声が響いてくる。


(アンドラス……侯爵)


 ——上質な魂が食せると期待していたのにな。


 誰が。お前に食べさせる魂など持ち合わせてはいない。僕にはお前の力は必要ないのだから。


 ——力もないくせに。よく言うものだ。お前は今、闇に囚われているではないか。お前はそれを良しとしているのだろう? お前の欲とは、まったくもって詰まらぬものらしい。我が身を守ることしかないようだな。


 なにがわかるというのだ。たった一度、出会っただけの悪魔のくせに。僕のなにがわかるというのだ。なんだか無性に腹が立った。


(もう放っておいて。僕なんて、どうせいなくなったっていいんだ。誰も、僕がグレイヴを継ぐことを歓迎していなかったじゃないか。どうせお前も見たんだろう? 僕の幻影。あれは幻影なんかじゃない。あれは事実だ)


 そうだ。僕がグレイヴ家を継ぐとき、タシットは反対し、ヘイディズも難色を示した。あれは事実。だから僕は、グレイヴを継ぐ資格はなかった。


 今回の件もそうだ。早くにビフロン伯爵と契約を済ませていれば、こんなことにはならなかった。悪魔が怖いと思っていた僕の気持ちが、今回の危機を招いたのだから。


(やっぱり僕は不適格。だから、お前が欲しがるような魂じゃないんだ。僕に付きまとうのはやめろ。時間の無駄だよ)


 すると闇の中から、くぐもった笑い声が響いてきた。


 ——そうか? お前は、自分が思っているよりも頑固で、融通の利かない人間だ。お前の中には、誰にも歪めることができぬ信念が見て取れる。それが欲だ。


(僕はなにも望まないのに。僕に欲があると?)


 ——そうだ。守りたいもの、貫きたいもの。それらのために、お前は悩み苦しむのだろう? 自分にはないものを欲し、けれどもそれでも手が届かずに悲嘆する。それこそ人間というものだ。お前は誰よりも人間らしく欲深い。見ていると愉快でたまらなくなるぞ。


 アンドラスは更に甘い声色で囁く。


 ——欲のない人間などいるものか。地位や名誉、人を支配し、人より優位に立ちたい。それが人間の本質。その手段が殺戮なのか、金なのか、知識なのかはまた別な話。お前は認めてもらいたいのだ。周囲の人間に。そのためには力が必要だ。違うか。


(僕は……そんなんじゃない)


 ——いや。そうだ。お前は認めてもらうために力を欲している。


(違う。違う。違う)


 ——認めろ。お前は力が欲しいのだ。それがお前の欲。


 ふとその言葉に、からだが震えた。


 ——お前のからだは正直。お前の欲しているのは力だ。おれならお前に力を与えてやれる。契約しろ。おれの名を呼べ。そうすればおれはたちまちお前の刃となろう。


 悪魔の誘惑だ。耳を貸す必要はないとわかってはいるのに。僕の心は大きく揺れていた。


 サブライム様の顔が見えた。ああ、きっと彼もまた。ビフロン伯爵の幻影に捕まっているに違いない。アフェクションだってそうだ。カラも早く医療院に連れて行かないと。応急処置だけでは、死んでしまうかもしれない。


 僕は父が好んで使っていた幻影に身を滅ぼされるのだろうか。自分を認めてくれなかった父と組んでいた悪魔の術で。


(そんなのはごめんだ―—)


 僕は僕だ。父ではない。十三代目の父は、ビフロン伯爵とのコンビで、国の司法を取り仕切った。かなり厳しいやり方で、晩年は批判の声も出ていたことも知っている。けれど、彼は法を守るために必要だと言っていた。


 確かにそうかもしれない。規範やルールが存在しない世界は無法地帯だ。強き者たちが好き勝手に振る舞い、弱き者は蹂躙される。そんな悲しい世界はあってはならない。だから僕はここにいる。


 僕はどんな魂にも意味があると思っている。どの魂も、みんなが祝福されて生まれてくるものだ。そうではない、という意見もあるのかもしれない。けれど、その魂がこの世に誕生をすることには、なんらかの意味があると確信している。


(僕は父とは違う。僕は僕の思いがある。僕には大切にしていることがあるということ) 


 僕が死ぬと、封印されている死者の門が開かれてしまう。この鍵を返還しないうちに、死ぬことはできない。世界は混沌に陥るのだ。このまま闇に囚われている場合ではないということ。僕はもうすでに背負うべきものを背負ってしまっていた。これは、僕が死ぬまで抱え続けなくてはいけないものだ。


(たとえ、僕が不適格だとしても。僕は、僕のできることを精一杯にやる義務があるということ)


 ——さあ。手を差し出せ。そしておれの名を呼べ。グレイヴ・ナイト・エア。


(僕は。死なない。僕は……)


 僕は絡みついた闇を振り払い、その手を伸ばした。


「ア……アンドラス」


 そうだ。僕は彼の力を欲していたのだ。出会ったあの時から。それを認めてしまうと、もう押し隠しておくことはできない。


「汝、前に来たりて我に従え。天空の霊も、虚空の霊も、地上の霊も、地下の霊も、乾きし地の霊も、水中の霊も、揺らめく風の霊も、つきさす火の霊も。すべての生まれなきものよ。我はここに召喚する——アンドラス」


 無我夢中だった。いつの間にか彼の名を、必死に叫んでいた。その瞬間。黒い狼が口を開けて吠えた。細身の美しい長剣が見えた。それから、そう。あの、燃えるような赤い髪がなびいて見えた。


 閉ざされていた闇が振り払われ、目の前に立ち現れたのは——。あの悪魔。アンドラス侯爵。


「契約してやろうではないか。弱き魂。けれども、上質で美しい魂よ」


 差し出された手を取ると、僕のからだは闇から引きずり出された。


 そうだ。僕は。出会ったあの瞬間から。この悪魔に魅入られていたのだ——。



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