09 弱き心


 世界会議は終了した。僕の大臣としての大きな仕事がまた一つ終わったのだ。無事とは言い難い会議だったけれど、今こうして執務室に座っていられるということは、「無事」と言ってもいいのだろう。


 会議で出払っている間に山積みになってしまった書類をぼんやりと眺めていると、タシットが入ってきた。彼は「おほん」と咳払いをする。仕事をしろということだろう。


「やります。今、すぐにやります」


 そう返答すると、彼は険しい表情のまま口を開いた。


「以前もお話いたしましたが、もう一度。悪魔のことについてご説明申しあげます」


「仕事は……」


「こちらのほうが最優先事項です」


 ピシャリと言われてしまうと、返す言葉もない。ただ黙ってタシットの話に耳を傾けた。


「歴代のグレイヴ家当主はビフロン伯爵と契約をすることが多いです。先代——貴方のお父様もビフロン伯爵と契約をされておりました」


 僕は父が契約をしていた悪魔、ビフロン伯爵を思い出す。彼は細身で長身。ひょろひょろした蝋燭みたいな容貌をしていた。


「世界会議の席で、悪魔のところがクエスチョンになっていたのをご覧になられましたか」


「あ、そうだよ。悪魔族の代表はあの場にいなかった」


 タシットは「そうですか」とため息を吐いた。


「悪魔族の代表はビフロン伯爵になります。通常はグレイヴ家当主と契約をしているため、一緒に参加をします。ですが、先代がお亡くなりになった後、貴方はビフロン伯爵と契約をしておりませんから。今、彼がどこでなにをしているのかは誰もわかりません。——そうですか。悪魔族の席は空席でしたか」


 なにか問題でもあるというのか。僕がグレイヴ家当主になった時、タシットからはビフロン伯爵と契約をするように勧められた。けれど、僕はそうしなかった。


「悪魔とは唯一無二の存在。その世の中に、たった一人しかおりません。なので、それは取り合いとなります。けれども、悪魔も人を選びます。契約が終了した後、悪魔はその人間の魂を食らうからです。彼らは、より崇高で魔力の高い人間の魂を欲します。誰彼構わず契約できるというわけではありません」


 タシットは微動だにせずに話す。僕はそれをただぼんやりと聞いていた。


「悪魔には固有の能力があります。契約者にとって、有益な能力を持つ悪魔と契約するのが通例。ビフロン伯爵は、死霊を操り、死体を動かすことが可能です。そして、なにより、幻影を見せる能力に長け、相手の精神を破壊するくらいの力を持ちます。なので、グレイヴ家当主は好んで彼と契約をします」


「ビフロン伯爵と契約をしろっていうんでしょう? 何度も聞いている話だ」


「何度でもお伝えします」とタシットは厳しい表情のまま言った。


「一年前に先代がお亡くなりになり、ビフロン伯爵は解き放たれた状態であると思われます。あれほどの能力の悪魔と契約できる人間はそうおりませんから。再び、貴方が契約を結ぶ。これが一番かと」


「わかっているよ。でも今回は姿を見せなかったんだ。もしかしたら、他の誰かが彼と契約しているかも知れないじゃない」


 僕がビフロン伯爵と契約しない理由は、悪魔が怖いからだ。こんなことを言ったら、大臣失格なのかも知れない。けれど、それは本当のこと。


 昔から臆病な性格だった。人が傷ついたり、痛い思いをしたりするのは嫌だった。特に悪魔は怖いと思っていた。父のそばに控えているビフロン伯爵は、時々、僕のことを見ていた。半分閉じられたその目は、まるで鬱蒼とした木々の合間に広がる闇みたいで、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうになる。あんな悪魔といつも一緒にいるなんて、膝が震えて怖かった。


『あの子は優しすぎるのだ』


 父とタシットがよく話をしているのを聞いていた。優しいわけではない。臆病なのだ。いつも部屋に引きこもって、たまに連れ出されたかと思うと、剣術の稽古。いつもサブライム様にはやられっぱなし。痛くて、辛くて、嫌だと泣いても連れ出された。


 僕に兄妹はいない。グレイヴ家の正統な後継者は僕一人ということ。父は僕の将来を憂いながら死んでいった。最後はビフロン伯爵に魂を食べられて。


(魂を食べられてしまうって、どんな感じなのだろうか)


 後継者がいない今。僕が死んだらグレイヴ家は終わる。司法省大臣の席は、別の一族が担うことになる。だから僕は家を守るためにも、悪魔と契約をする必要があった。そしてそれは、今回の世界会議で、より痛烈に感じた。


 あの時、ビフロン伯爵がいてくれたら。きっとあの魔物たちは静かに幻影を見てくれていたことだろう。


(あの場面で、あの悪魔がいなかったら。僕は——死んでいた)


 首を横に振った。それからタシットを見る。


「あの時、あそこにいた悪魔をタシットは知っている?」


 タシットは少し躊躇うように、息を吐いてから口を開いた。


「アンドラス侯爵です。彼は大変危険な悪魔です。破壊衝動の強い悪魔で、契約者であっても、隙を見せれば一瞬で殺されます。……先日の戦いで、カースに力を貸した悪魔でもあります」


「カースに?」


「いかにも。彼は破壊行動ができれば、契約者を選ばぬ悪魔でもあります。彼と関わった人間は、短命であるため、常に契約者を探して歩くと言われております」


 そこまで説明した後、タシットは僕の顔を見つめた。


「エア。貴方は彼に対して剣を抜きましたね」


「よくわからないけれど。あの悪魔だけは許せないと思った。魔物たちの魂を塵にしたんだ。その命を軽んじるところが、とっても許せなくて……」


 僕はそこではったとした。口では、あの時の気持ちを説明しているというのに、感情が伴わない。彼と離れてしまうと、彼への、あの時の気持ちが思い出せないだ。


「貴方は随分とアンドラス侯爵に惑わされてしまったようですね」


「どういうこと?」


「アンドラス侯爵は人の心に憎しみや争いの種を植えつけるのが得意なのです。貴方はあの場で、彼に惑わされ、いつの間にか憎しみの心を増幅させてしまったのでしょう。普段でしたら、許されることも、許しがたきことになる。それがアンドラス侯爵の能力の一つ」


 そう言われてみるとそうかも知れない。あの時は、言いようのない怒りや憎しみが心に沸いてきた。あれは、アンドラスという悪魔の力だったということか。


「身をもって体験されたのです。アンドラス侯爵とだけは、絶対に契約をしてはなりません。貴方のようなお方は、一瞬で彼に殺されますよ。貴方はアンドラス侯爵とは相性が合いません」


 タシットはきっぱりとそう言った。別にアンドラスと契約したいわけじゃないのに、まるで落第宣告をされた学生みたいな気持ちになった。


「今の貴方では、ビフロン伯爵ですら、契約してくれるかどうかわかりませんよ。もう少し心をしっかりと持たないと。あっという間に悪魔に蝕まれます」


「だから契約できないんじゃない」


「できない理由を並び立てるのは容易いことです。しかし、できるようにするのが貴方の責務」


 タシットは厳しい。僕は「わかりました」と返答すると、腰を上げた。


「どちらに行かれます」


「ちょっと休憩。戻ったら書類見るから。いいでしょう。少しくらい」


「承知しました」


 タシットは胸のところに手を当てると頭を下げた。色々と考えたいこともある。一人になりたいと思ったのだ。


 僕は廊下に出ると、朱色の絨毯の上を歩いて、中庭に足を踏み出した。

 中庭には、色とりどりの花が咲いている。サブライム様の趣味で、王宮の庭には、花が咲く。王都は温暖な気候だ。王国の北には、雪が降る地域もある。歌姫の出身地では、四季というものもあると聞いた。王国は広い。そんな王国の司法を任されるのが、本当に僕でいいのだろうか。


 いつも迷っている。僕は。だから心が弱いのだろう。


 大理石でできている噴水のところに腰を下ろしてぼんやりとしていると、軍事大臣のスティールが姿を見せた。


「大変だったみたいだな。お疲れ」


 彼は僕の隣に腰を下ろすと、「いやあ、おれも辛かったよ」と笑った。




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