07 誘惑


 彼の声はまるで歌声のように耳に心地いい。僕のからだから、力が抜けていくようだった。


 ——悪魔に弱みを見せるな。


 僕の頭の中で、もう一人の僕が警告していた。頭の芯がぼうっとしていて、思考力が鈍る。必死にこの状況を打破する方策を見つけようとするが、思考が回らなかった。


 この目の前の悪魔に。僕は魅入られている。彼はにっこりと優しい笑みを浮かべた。頭の中では、この悪魔が許せないというのに、心はすっかり引き込まれそうになる。


 これが悪魔という存在。悪魔とは、人間の欲から生まれてくる存在。であるから、決して滅びることもなく、死ぬこともない。一度消滅したとしても、再び人間たちの欲によってこの世に舞い戻る。だから厄介。けれど、味方に取り込めば力になる。


 魔法を操る者は、悪魔と契約を結ぶことが多い。悪魔たちは人間の欲を食らいたいし、人間は悪魔の力が欲しい。互いの利害が一致して、契約が結ばれるのだ。天使は人間には手を貸さない。彼らは一つの種族に肩入れをしない存在だからだ。


 ——一人前と呼ばれたいなら悪魔と契約をしなければなりません。


(こんな存在と契約をするだって? 冗談じゃない!)


 僕の中のなにかが弾けた瞬間。止まっていた呼吸が再開した。息苦しくて、肩を使って大きく呼吸をした。どうやら、いつの間にか呼吸することも忘れて悪魔に夢中になっていたようだった。


 悪魔は愉快そうに顎に手を当てると、舌なめずりをしながら僕を見下ろしていた。


「お前は初めての参加だそうだな。この世界会議には裏のルールがある。非戦闘地区などというのは名ばかり。毎回、会議の裏では互いの利益のため、暗殺劇が繰り返されている。だが皆、そのことは口を閉ざす。事務局であるドラゴン族もな。公になれば、大戦の火種ともならぬからな。殺される奴が悪い。弱いからだ。世の中は力。強い者だけが全て。弱い奴は強い奴になにをされても、文句は言えぬ」


「そんなこと。嘘だ」


「嘘ではない。どの種族も、最小限の犠牲で平和が守られるなら、安いものだと口を噤む。コープスは単純バカ。嘘が苦手。だからあいつには知らされていないようだが。お前の暗殺指示が、どこかで出されていたのだ。グレイヴの人間はだからな」


 彼は口元を上げて笑った。


「殺らなければ、お前が殺られていた。戦うことをしないなど、愚かな行為。あいつらは自らの命がかかっていた。そんな相手をうまくやり過ごそうなどという甘い考えは通用せぬ。お前だけだぞ。ルールを遵守しているのは。皆、好き勝手やっている」


(そんなことは嘘だ)


 悪魔は人間を誘惑する。人間を堕落させ、甘い蜜を吸うと聞いている。悪魔と契約を結ぶには、それ相応の精神力が必要だ。少しでも隙を見せれば、契約者であってもその魂を食い尽くされる。


「お前の言うことなど、信用しない」


「ほほう。昨日生まれたばかりの赤子同然のお前が、おれの言葉を信じぬというか。現におれはお前を助けてやった。違うか? あのまま魔族どもの糧に成り下がりたかったか? お前は自分の立場を理解しておらぬようだ。お前が死ねば、世界は混沌に陥る」


 僕は首を横に振った。惑わされそうになる。違う。そうじゃない。僕は、そうじゃないんだ。


「僕は死なない。この場をうまくやり過ごせることができた。お前の助けはいらなかった。お前如きの囁きに耳を貸すつもりはない」


 心のどこかではわかっている。僕は助けてもらった。この悪魔に。僕がしなければならなかったことを、彼は僕の代わりにした。わかっているのに。どうしてなのだろうか。素直に彼を認めることができない自分がいた。


 彼は狼から降りると、肩を竦めて見せた。


「その怒りはおれにではなく、塵となったこいつらに向けられるべきものだが。——そうか。お前には、譲れぬ思いがあると見える。面白い。弱くて愚かな人間。気に入ったぞ」


「気に入ってもらわなくて結構だよ」


 僕のからだは自然に動いていた。ここは非戦闘区域だということは、どこかに消えていた。マントの下。腰に据えていた剣を握り締めると、一気に引き抜く。その剣先は、悪魔の喉元にピタリと当たった。


 悪魔は僕を馬鹿にしていた。僕がここで自分を攻撃してこないとでも思っているのだろう。剣先が喉元に当たり、ドス黒い血が流れ落ちてもなお、奴は笑みを浮かべたまま、微動だにせずに僕を見下ろしていた。


「ほほう。おれと殺り合う気か? お前を殺そうとした魔族とではなく、お前を助けたこのおれと」


「死を冒涜した者は許せない。お前が僕をそうさせるのだ——」


 悪魔の隣にいた狼が唸り声を上げる。しかし、悪魔は僕の剣を人差し指で除けると、それを制止した。その隙に、僕は足に力を入れ跳躍した。それからそばの枯れ木を足場にして、再び悪魔めがけて剣を繰り出す。彼は「愉快、愉快」と笑みを讃えながら、僕の攻撃を寸でのところで交わしていく。


(遊ばれている!?)


 地面に着地し、剣を構え直す。


「お前は命を軽んじる。命とはそういうものではない」


「こんな下らない奴らに思いを寄せ、おれと戦い、そして殺される。お前こそ、お前自身の命を軽んじているのではないか。お前の命は、お前ひとりのものではないのだ」


「お前にいちいち説教をされる筋合いはない。僕は僕ことを、よく理解している。それに、お前にこの命はくれてやるつもりはないよ。お前はここで僕が滅してみせる」


 僕は剣をからだの前に立てると、その刃に触れる。指先から血が流れだし、剣を伝った。僕の血を吸った剣は、鈍く黄金に輝き出す。悪魔は目を見開いて笑った。


「面白い。やはり、お前は面白い人間だ! 幼稚で、浅はかな思いに執着し、そのために命を賭すというのか。——おい。お前はまだ契約者がおらぬようだな。おれの名を呼べ。そうすれば、お前に仕えてやってもいいぞ」


「お前が僕に?」


 僕の血を吸った剣は、先ほどよりも鋭く悪魔にまで届く。悪魔の髪がはらりと落ちた。悪魔は口元をあげて笑みを浮かべた。


 僕は更に剣を繰り出す。狼が「ぐるぐる」と唸って興奮していた。彼はあっという間に腰から細身の剣を抜き取ると、僕の剣に当てた。耳を劈くような音に、周囲の空気が震えた。


「お前は甘いな。その甘さは、いつか命取りになる。おれの力が欲しくはないのか。おれの力は必ずやお前のためになるぞ」


 僕は首を横に振る。


「お前とは契約しない。お前の力など、僕には必要がない。僕はお前が大嫌いだ」


 不思議な体験だった。魔族に対しては、なんの感情もなかったというのに。目の前の悪魔は、僕の心を激しく揺さぶり、そして負の感情を抱かせる。悪魔の誘惑なのだろうか。


 ——飲み込まれたら終わりだ。剣を納めろ。


 頭のどこかで、もう一人の僕が叫んでいるというのに。からだは言うことをきいてはくれない。


 ジリジリと肌を刺すようなこの圧は、この目の前の男が、上級悪魔であるということを物語っていた。けれど、僕は敗けるつもりはなかった。いつの間にか。彼との戦いに夢中になっていく自分に気がついていなかった。


「未熟だ。赤子のような哀れな人間よ。お前たちは我らの力無くしては、なにも成しえぬ」


(確かに未熟。僕たちは、未熟なのかも知れない)


 悪魔の言葉に屈してはいけない。自分自身を鼓舞しているというのに、彼の柔らかい声は、僕の心にじわじわと入り込んできた。


(駄目だ。このままじゃ——)


 心の隙は命取り。僕の剣が大きく弾かれて、フードが風を孕んで大きく翻った。近くの地面に突き刺さった。狼の上から、僕の喉元に剣先を突き付けた悪魔は残忍な笑みを浮かべていた。


 フードが外れると、周囲の様子がよく見えた。灰色の世界にたった一つ、燃えるような赤髪が揺れている。悪魔は剣先を持ち上げた。それに釣られて僕も上を向く。


 人に素顔を見られたことはない。小さい頃から、ずっとこの陰気な雰囲気を纏っているマントをつけていた。僕の素顔をしっているのは、屋敷の中でもタシット。それからサブライム様とヘイディズくらいだろう。


「ほほう。その陰湿な布の下に、そんな美しい顔を隠し持っていたのか。エア」


 悪魔は金糸雀色の瞳を細めた。




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