06 悪魔


「——なーんてな。あんな目くらましで騙されるかよ。甘く見られたもんだな」


 もう一人の魔物もすぐに姿を現す。やはりあの程度では子ども騙し。


「逃げてばっかじゃねーか。かくれんぼは終わりだぜ。なあ、本当に大臣さんなのかよ? お顔を拝ませてもらおうぜ。おれたちだって命がけなんだ。間違ったら大変だ」


 ——暗殺だ。


 そんな言葉が脳裏に浮かんだ。魔族はこの場を使って、この僕を狙っているということ。


「でも、お前、顔わかるのかよ?」


「え、わかるわけないじゃん」


「じゃあ、どうやって判断するんだよ」


「えっと。まあ、綺麗な顔をしていたら、大臣っつーことだ」


「なんだよ。綺麗な顔してねー大臣だっているかも知れねーぞ」


 二人は再び口論を始める。僕はもう一度低い声で説得を試みることにした。


「お前たち。確かに僕を殺せば、お手柄かも知れないが、コープスは知らないのだろう? ここで僕と戦ったら、コープスの顔が潰れる。本当にいいのか?」


「それは……」


「確かに、困るかも知れねえな」


「けど。殺らなきゃ、おれたちが殺られるぞ」


「そうだ。おれたちが殺られる」


「だから、こいつを殺す」


「そして、食う」


 二人はまるで合言葉のように同じことを言った。魔族というのは愚かで知性がないと聞いている。大局を見て、戦争を回避するということよりも、自分自身の保身を優先する。これは話をしても無駄な相手だ、と悟った。


 ともかく神殿に戻るのが先決だ。他の種族や、ドラゴン族に気づかれてもいけない。ともかく。何事もなかったかの如く、神殿の、あの控室に戻るのが最優先事項。


 僕はジリジリと二人の様子を伺いながら後退した。しかし、二人の中で話しがまとまってしまうと、彼らは僕に襲い掛かってきた。ぱっとからだを回転させて、鋭い爪を避けた瞬間。もう一人の魔物が、僕がそこに退けるのを予測して待ち構えていた。


「ち」


 僕はくるりと手をついて前転をし、素早く起き上がりながら、顎を下から蹴り上げてやった。


「うおおお」


 魔物は後ろにひっくり返った。巨体が地面に倒れた反動で、辺りが揺れた。


「やっちゃった!」


 誰にも見つからずに収束させるのは難しいかもしれない。そう思った瞬間。僕の心の隙をついて、もう一人の魔物が、僕のからだを後ろから羽交い絞めにしようと腕を回してくる。僕はすっとしゃがみこんで、その抱擁を回避する。バランスを崩した魔物は、地面に突っ伏した。


 ドシンと大きな音が周囲に響き割った。


「わわ。ごめん。本当。ねえ、もうやめにしようよ」


「クソ野郎!」


 魔物たちは、僕に遊ばれているとでも思ったのかも知れない。余計に苛立ちを見せた。二人の怒りが頂点に達したのか。そのからだは蒼い炎に包まれる。魔族特有の臭気が周囲に漂い、視界が霞んで見えた。


「全力で行くぜ」


(駄目だ。やっぱりやるしかない? ダメダメ。そんなことをしたら、ピスに大目玉。でも、このままじゃ……)


 力を解放した魔族たちの動きは早い。僕はマントを翻し、二人の攻撃を避け続けた。しかし、そんなことを続けていても埒が明かないことは目に見えていた。枯木の根に足を取られて、バランスを崩した時。後ろから伸びてきた腕に捕まれてしまったのだ。


「やっと捕まえたぜ。兄ちゃん。鬼ごっこはここまでだぜ。へへ。魔力が高い人間はいい匂いがするぜ。なあ、食わせろ。そのからだ。骨までしゃぶってやるからよう」


(どうしよう。このままじゃ……)


 必死に打開策を見出そうと思考を巡らせた瞬間。シュルと耳を劈くような音が聞こえた。それと同時に、パラパラとドス黒い液体が、僕のマントに降り注がれた。


(——え!?)


 僕を捕まえていた魔物の腕の力が抜けたかと思うと、そのからだはズルズルと地面に落ち込んだ。そしてそれと同時に、魔物のからだは跡形もなく塵となった。


 吹き飛んだ頭部が、僕が蹴り飛ばした魔物の足元に転がっていき、からだと同様に塵となる。それを呆然と見ていた魔物の片割れ。仲間の死を自覚したのか、周囲に響き渡るような雄叫びを上げた。


「クソ野郎! どこのどいつだ!」


 彼はそう言った。いや、言おうとしたのだろう。しかし、それは叶わなかった。あっという間にそのからだも細切れにされて、塵となって消えたのだ。


 枯れ果てた木々の間から。枯れ木を踏み鳴らして一頭の狼が現れる。とてつもなく大きな狼だった。目は血を滴らせているように真っ赤に燃え、荒く吐き出される吐息は、炎のようにも見えた。


 そして僕は見た。今まで生きてきて、見たこともないような美しい存在がそこにはいた。細身の剣に纏わりつく魔物たちの瘴気を振り払い、鞘に納めた男は、金糸雀色かなりやいろの瞳で、狼の上から僕をまっすぐに見下ろしていた。


 大きな漆黒色のリボンを襟元で結び、漆黒のマントを纏っている男。背中には天使のような純白の羽を持っているにも関わらず、燃えるような赤い髪の上には天を向いた細長い悪魔の角が生えていた。


 天使から身を落とし、悪魔になった者を堕天と呼ぶ。彼はまさにそんな姿をしていた。心が、すっかり彼に持っていかれそうになる。しかし、僕は踏みとどまった。現実を思い出し、首を横に振った。すると、沸々と怒りが湧いてきた。この悪魔のしたことが許せなかったのだ。


「なんてことを——。ここがどういう場所なのかを、理解しての所業なのか?」


 僕の心は怒りに震えていた。助けてもらったことよりなにより。目の前で散っていった命を思うと、憤慨せずにはいられなかった。


 死への冒涜だった。散り散りにされた魂は、ヘイディズの管理する死者の門を潜ることはできない。未来永劫、この地を彷徨うことになる。


 ——罪人に心を寄せてはいけません。


 タシットは物憂げな表情でそう言う。けれど、僕はその意見には賛同できない。どんな命も命には違いないということ。生前の行いによって、その命の価値が変わるなんておかしなことだ。


 魔物たちはルールを破り、非戦闘区域で僕を暗殺しようとした。裁かれるべき存在だ。だがしかし、裁くのはこの悪魔ではない。あの者たちは、魔族のルールで裁かれるべきなのだ。それなのに。彼は迷うことなく、彼らの魂を切り捨てた。だから僕は、この悪魔が許せないと思った。


(神をも恐れぬ所業。傲慢な悪魔)


 僕の殺気を感じ取っているのか。狼は時折、僕に襲い掛かろうと唸り声を上げる。悪魔はそれをなだめるように何度も優しく撫でていた。


「そう怒るな。助けてやった。お前はどうやら、感謝するという言葉を知らぬらしい。なんと無作法な人間だ。仕掛けてきたのは魔族やつらだ。規範を守らぬ者に、規範で対抗しようとしても、所詮、無茶な話。黙って言いなりになっていたら、殺られていたのはお前のほうだった。違うか? グレイヴ・ナイト・エア」


 紫色の形のよい薄い唇が、僕の名を呼ぶ。その瞬間。僕のからだは、まるで雷に打たれたみたいに、ビリビリと痺れた。


「さあ、感謝の言葉を言え。助けてくれてありがとう、とな」


 彼はその美しい形の手を僕に差し出した。




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