バカ野郎、怒れる腹ペコモンスターになる
多大な精神力を消耗したが、レンは女性用の下着の着用方法を学んだ。正直もう眠りたい気持ちでいっぱいだった。明日になれば鍛え抜いた自分のマッシブな肉体が元に戻っているんだと信じて眠りに就きたくて仕方がない。
「カップは大丈夫ですか?」
「う、うんと……ちょっと、ゆるいかな?」
「ん」
「ひゃっ!」
「確かに、緩いですね」
肩にかかる紐、ストラップと言うのだが、愛凛澄がそこに指を通して緩さを確認する。愛凛澄の指の熱に思わずレンから変な声が上がるが、愛凛澄は気にした様子を見せない。意識している俺が変なのかとレンはぐるぐる回る頭で思う。
「レンのバストサイズなら、はの六十ぞ」
今まで黙っていた天堂地獄が唐突に言う。
「はの六十……ああ、なるほど。Cのことですか。それなら確かに……」
「ひゃうっ!?」
今度は下の部分に指を突っ込まれ、レンがまた悲鳴を上げる。
「やっぱり、アンダーもぶかぶかですね。私がDの六十五だから、アンダーは五センチ、トップは八センチ差……でしたか? うーん、ここまで差が大きいと、着ける意味がないかも……昔の下着は置いて来てしまいましたし……これは食事の前にお店に行くべきですね」
「そうなんだ……」
「あ、でも待ってください。Cの六十なんて売ってないかも……アンダーが六十ってかなり珍しいので……D六十五でもあんまり売ってないですから。うーん、とりあえず融通の効くスポブラを買って、オーダーをお願いした方がいいですね」
「おまかせします……」
ブラジャーの話とか分からない。分かるようになりたいとも思わない。切実にレンは男に戻りたかった。でも今戻ったら変態だな、とか思うとなにもかもが嫌になって来た。
くう、とお腹が鳴った。お腹が空いているから考え方がネガティブなのかもしれない。もう、こうなったら、食ってやる。食って食って、食いまくってやる。食べ放題の店を閉店に追い込んでやる。もう食材がありません、土でも食ってな欠食児童。と言われるまで食ってやる。レンは内心で食事への決意を燃やした。食べ放題の店は今すぐ臨時閉店しなければならないだろう。ここに怒れる腹ペコモンスターが誕生したのだから。放っておけばドリンクバーに置いてあるシュガースティックも全部食い尽くす、いや、舐め尽くすだろう。
「よしっ。とにかく出かける準備をしよう!」
「じゃあ、セーラー服の着方を教えますね。と言っても、そう難しいことはないんですけど」
「うん! よろしく!」
突然快活になったな、と愛凛澄が訝し気な表情をしたが、すぐに気を取り直したのかレンに服の着方をレクチャーする。そして、厚手のタイツも用意してくれた。
「高デニールなら、スキニーなズボンを履いてる感じ……かも?」
「かも?」
「私、ズボン履いた事ないんです。強いて言えば袴くらいです」
「そ、そうなんだ」
すごい希少種に出会ってしまった、とか思いつつ、渡されたタイツを履いてみると、なるほど素足を晒しているよりもずっと安心感がある。これはいいものだ、とレンが思わず笑顔になる。笑顔になってから、女装して喜んでどうするよ俺、と自己嫌悪する。
「お出かけの準備は整いましたね。あ、上に何か羽織りますか? カーディガンとか」
「大丈夫」
「そうですか。じゃあ、行きましょうか」
レンはセーラー服をはためかせて往く。
セーラー服は元々は水夫の服だから実質セーフとか自分に言い聞かせながら。
目指すは食べ放題の店。
怒れる腹ペコモンスターは今解き放たれたんとしていた。
「食事の前にブラを買いに行きましょうね」
「はい……」
怒れる腹ペコモンスターは一瞬で大人しくなった。
その後のことを、レンは思い出したくない。
こんなに細身で可愛らしいとか、小さく見えるけどCカップですよと励まされたとか、記憶を消し去りたい辛い思い出だった。初めて骨折した時の醜態よりもずっと消し去りたい黒歴史だ。フィットするスポーツタイプのブラジャーの感触に頼れる感じを覚えたこともだ。
「レンさん?」
「ふぁい……」
「慣れないとだめですよ。ブラを買うくらいで落ち込んでたら変な眼で見られますよ」
「うう……つらい……女の子ってこんなに大変なんだ……」
「いえ、普通の女の子はブラジャーを買うことをこんなに嫌がりませんけどね……ボーイッシュな子がたまに恥ずかしがったりはしますけど」
まだまだ教えることがあると言うのに、前途多難さに愛凛澄は嘆息する。
とは言え、突然男から女になってしまった、と言う驚天動地の事態を思えば同情の余地はあるし、色々とつらいだろうなと理解もするのだが。
あと、なんせ色々と無防備なので、愛凛澄的にはこう、色々と捗るのだろう。今晩はお風呂の入り方と、体の洗い方のレクチャーと愛凛澄的には最高に捗る時間が待っている。やはり、捗る。具体的には言えないが、捗るのだ。
「さぁ、それじゃあレンさんお待ちかねの食事の時間にしましょうか」
「うん……俺、店を閉店に追い込むよ」
「頑張ってください、応援してます」
謎の決意表明をするレン。愛凛澄は意味不明ながらも適当に応援した。
レンは軽く見積もってもおよそ三十人前の食事を平らげた。
レンの超人的な消化能力は時間をかけるほどに胃の容積を確保する。胃がパンパンになるまで食べても、およそ三十分で胃は空っぽだ。九十分などと言う余裕に過ぎる食べ放題の時間はレンの暴虐を許す。レンがこれほどの暴食をしたことがなく、脳がもう満腹だと認識してしまわなければ、さらに倍は食べただろう。なんなら三倍だっていけたかもしれない。
それだけ食べてもレンの細身の体躯は変わらず、その滑らかなお腹も膨らんでもいない。食べる端から消化していたので、胃の中身は常に減り続けているからだ。
どう見ても体積以上に食べたレンの姿を信じられないものを見る眼で店員たちが見ていたが、自分の勝利だと認識したレンは気分よくそれを受け流した。
愛凛澄は完全に元取ったな~、と言った気分でなんとなく喜んでいた。ちなみにレンの凄まじさに霞んでいるが、愛凛澄もさりげなく五人前は食べている。
「凄かったですね。今度は大盛りチャレンジのお店に行ってみましょう」
「いいね。俺、今ならどんな店にも勝てる気がするよ」
「出禁を喰らわない程度の頻度で挑戦しましょう」
「うんうん」
大盛りチャレンジメニューのある店は今すぐ逃げなくてはならない。あるいは大盛りチャレンジメニューを廃止するか、レンちゃんお断りの看板を立てる必要があるだろう。
その後、二人はとりあえず必要になるものを多少買って回った。
具体的には服だ。愛凛澄の服が着れるが、愛凛澄の服を借り続けるのは問題だ。なので服を購入するのだが、愛凛澄は色と多少のデザインの差はあれどセーラー服をやたらと推す。このセーラー服の信奉はなんなのか。レンには女性向けの衣服が全く分からず、セーラー服を数着購入する羽目になった。レンが欲したユニセックスな服も複数買ったが。
その他、歯ブラシやボディソープと言ったボディケア商品、あと日中は家でヒマをすることになるからという愛凛澄の勧めで本などを購入した。それから天堂地獄がやかましくてたまらないので椿油も仕方なく購入した。
ちなみにレンが聚楽にもらった封筒には三百万が入っていた。その三百万を入れるための財布も買った。もちろん全部は入らないわけだが。
そうしたものを購入し、クレープを食べたり、アイスを食べたりしながら二人は気分よく帰路に着いた。
「おじゃ……えっと、ただいま……?」
「ただいま。おかえりなさい」
「あ。えへへ、ただいま……」
はにかむように笑うレンの姿に、やはり捗る……などと愛凛澄が内心でうっそりと微笑むが顔には出さなかった。そして愛凛澄は自分の欲望のままにレンを風呂場に案内する。
「帰ったらすぐにお風呂に。気にする人はよくやることですね」
「気にするって、なにを?」
「汚れです。髪が長いと気になる人は結構います」
愛凛澄の理論武装は完璧だ。
「そうなんだ。そう言えば、俺の髪って結構長いしね」
背中の半ばほどまである髪の毛を何とはなしにレンが指先で弄ぶ。
愛凛澄はそれよりも長く、腰元まである。
「レンさんは女性の体の洗い方もそうですし、長い髪の洗い方も知らないでしょうから、一緒に入ってお教えしますね」
「うぇっ!?」
まさかそんなことになるとは思わずレンは素っ頓狂な声を発する。
「で、でも、お、俺、男だよ?」
「今は女の子です。ほらほら、いつかはやらなきゃいけませんよ」
「で、でも! 体の洗い方なんてそんな変わらないし!」
「大事なところの洗い方が違います。私もお姉様に教えてもらうまでは知りませんでしたからね。長い髪の洗い方もちゃんと覚えておかないといけませんよ」
「で、でも! でも! 俺本当は男だし! そ、それに、愛凛澄さんの裸なんて見たら申し訳なくて! お、俺、俺どうしたら!」
「じゃあ、私が水着を着れば大丈夫ですか?」
「そ、それだ!」
最初に無茶な条件を突きつけ、断られたら飲める範囲の要求を突きつける。これをドア・イン・ザ・フェイスと呼び、基本的な交渉方法のひとつである。
「じゃあ、水着を着てきますね」
「う、うん」
簡単に丸め込まれたレンをあほの子を見る眼で天堂地獄が見ていたが、幸いと言うべきか、レンがそれに気付くことはなかった。レンもいっぱいいっぱいなのだ。
その後、愛凛澄は本当に水着を着て来た。セーラー服風の水着だったあたりが愛凛澄だ。関係ないが、愛凛澄の一番のお気に入りの下着はセーラー戦士コラボの下着だ。
それから愛凛澄はレンに体の洗い方、髪の手入れの仕方、お風呂の入り方をそれはもう丁寧に手取り足取り教えた。愛凛澄的には実に捗る時間だった。なにが捗るかは臥せる。
「あう、あう……」
手取り足取り教えられたレンはえぐえぐ泣きながら湯船に浸かっていた。色々と衝撃的だったからだ。赤貝がもう食べれそうにないとか、髪の毛を丸坊主にしたいとか、頭の中はいっぱいいっぱいだ。
今日一日、レンには色々と負担の大きい日だった。これからの生活が前途多難でならない。一日でも早く男に戻りたかった。
「う、う……て、天堂地獄ぅ」
「うむ、なんだ?」
湯船の淵に立つ天堂地獄にレンが哀れっぽく声をかける。
「お、俺、どれくらいで男に戻れるかなぁ……」
「ふむ。今日の余剰摂取カロリーはおよそだが二万キロカロリーほどだ。額面通りならば三キロ弱ほどの体重増加が見込める」
「お、おお……もしかして、このペースなら意外と早く戻れる……?」
「残念ながらそうはいかぬ。人間の消化吸収能力と言うのはそれほど優れてはおらぬでな。そなたはそれすらも優れてはいるが、摂取量の六割程度を吸収するのが限界であろう。実際の摂取量は一万キロカロリー程度であろうな」
「そうなんだ……もっと食べればいいってこと?」
「そう言うことでもない。消化吸収には限界があると言ったであろう? 一日に蓄えられる脂肪の量には限界がある。食い過ぎれば腹を下すし、体調を崩しもしよう。急いては事を仕損じる。急がば回れであるぞ?」
「気長にやれってことかぁ……ちなみに、最短でどれくらいで戻れる?」
「まぁ、半年はかかろうな」
「そんなに……」
具体的な日数を示されると気が重くなる。とは言え、食べれば戻れるというなら悪い話ではない。もう二度と戻れないゾ、なんて言われるよりは格段にマシだ。前向きにやっていくしかないだろう。
しかし、レンは気付いていない事実がある。
そもそも男に戻るだけなら別に以前の体重に戻すまでもないということを。
体格こそ以前と決定的に異なってしまうだろうが、天堂地獄が男の肉体構造を理解しさえすれば男に戻るだけなら出来るはずなのだ。そのことを天堂地獄が口にしないとはどういうことか。異常なレベルの基礎代謝を説明しないのは何故なのか。
そう、天堂地獄はレンを元通りに戻すつもりなど毛頭ない。
そもそも摂取カロリーの申告なんぞ天堂地獄の匙加減次第だし、基礎代謝を説明されなければ一日に摂取すべき最低ラインすらも分からない。一万キロカロリーを摂取したとしても、普通の食生活をしていればほんの二日程度で貯金を使い果たしてしまうのだ。
そもそもの話、天堂地獄は口にしないが、男と女の身体構造なら男の方が詳しい。天堂地獄は美濃国、現在で言う岐阜県南部の鍛冶師、慎吾郎貞好が創り上げ、自身の魂と肉体を塗り込めた怨念と妄執の生き甲冑である。天堂地獄の人格は慎吾郎貞好のそれを基礎とし、肉体の情報までも取り込んでいる。男の肉体構造が分からないなどと言うのはただの建前である。
「まぁ、悲観はするでないぞ。希望はあるのだからな」
「うん……」
まぁ、その希望とやらは仮初であるが、レンがそれを知ることはない。不憫なことだ。
「レンさんは戻ってしまうんですか? 勿体ないですよ」
「なにが……?」
愛凛澄の勿体ないという言葉にレンが首を傾げる。
「セーラー服も似合ってましたし」
「いやそりゃセーラー服は不特定多数の人に似合うように出来てるし……」
「それに、女装は男性にしか出来ない最も男らしい行為ですよ?」
「その屁理屈で俺を騙せると本気で思ってる?」
「いえ、別に」
じゃあなんで言ったのだろう……愛凛澄はセーラー服ガチ勢の時点でよく分からない子だが、他にも色々とよく分からない部分のある少女だ。
「俺、もう上がるね……長湯得意じゃないし……」
「ええ。髪の乾かし方も覚えないとですしね」
「風呂から上がったら吾の手入れを頼むぞ」
「わかったよ」
命を助けられたのも事実だし、手入れをすると約束したのもたしかなので、レンは天堂地獄の頼みを渋々頷いた。
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