本編
バカ野郎、まだバカ野郎をしない
はたと目覚めた時、蓮治は凍えるような寒さと体の震えに自らの肩を抱いた。歯の根が合わず、かちかちと歯の触れる音が響く。風邪を引いているのではないかと、熱を感じる頭に蓮治がぼんやりと思い至る。
見上げる天井は白い。自宅の薄汚れた板張りの天井とは異なる清潔感のある白。横へと目線を向ければ、やはりまた同様に白い壁。病院のような内装だ。そう考えてから、まさに病院の病室であろうことに蓮治は気付く。
なぜ病院に自分がいるのか。定かならぬ記憶に蓮治は混乱する。
そのとき、ぐるぐると腹が鳴った。そして、しくしくとした、胃痛。
「はら、へったぁ……」
これは風邪ではなく低血糖だなぁと蓮治は思い至る。遊びに金を使い過ぎ、食うに事欠いた学生時代に思い知った低血糖の症状だ。胃痛は単に腹が減り過ぎているのだろう。
空腹であると思い至ると同時に、虚脱感に襲われて蓮治は体の力を抜き、ナースコールを押そうと手を伸ばした。それと同時、がらりと病室のドアが無遠慮に開かれた。
「目が覚めたな」
ノックすることもなく部屋に入り込んできたのは黒髪の人物だった。
飾り気のないワイシャツにナロータイを締め、やはり同様に飾り気のないスラックスを無造作に履いている。艶やかな黒髪を縛らずに流している。
性別不祥の麗人。蓮治はぼんやりとそのように思った。
「あ、えーと、あの、部屋をお間違えでは……」
「間違えておらぬ。食え」
その麗人は手にしていた袋を蓮治へと向けて放る。思わずそれを掴む。よく見知ったコンビニのロゴが印刷されたビニール袋の中にはお茶のペットボトルと、おにぎりが数個。
「そなたの現状は多少なりと把握しているつもりだ。腹が減って堪らぬのであろう」
「あ、えと、はい……」
「よって、食え」
「は、はぁ」
せっかちな人なのだろうか。そう思いつつ、蓮治は受け取ったビニール袋からおにぎりを取り出し、包装を開けると齧り付いた。
「食べながらでよいので話を聞け」
「ふへ? ふぁい」
「よいか、ひよっこ。これよりそなたには我が剣術道場の門を叩きし初心となり、限界へと挑んでもらう所存ゆえ、心してかかるがよい。そなたの歩む道筋には数多の罠、誘惑がある。その辺りは夫婦の儀を約せし幼馴染とか、故郷にて帰りを待つ恋人の写真でも見て乗り切るがよい。なお、我が道場の試しは普通に命の危険があるというか、むしろ命の危険が必ずあるので、その辺りの窮地は気合で乗り切って欲しい。そして我が道場の師範らと一体となりて、世に伝説を刻んでほしい。よいな?」
「え、は、はぁ」
「それよりも、聞くがよい小童。いまどきの若いものはなっておらん。遥か上古の時代より受け継がれしこの言葉、いまこそ実感と共に言い放とうではないか。何だ今時の若者は。日ノ本は武士の国でありながらも、それを忘れて安穏と娯楽に耽るとは全くもってなっておらん。大恩ある祖先にあろうことか背信し、あわよくばこのまま武に触れずして生涯を終えようなどとはな……端的に言えば、そなたらは窮地にある。なぜかだと? 我が道場の門を叩きし者が居なくなり次第、私は腑抜けた日ノ本に喝を入れるつもりであるからだ。安穏とした日々にも終止符が打たれると言うわけだ。そもそも、そなたら若者はなにやら緊張感と言うものに欠ける。共に研鑽し、無数の戦いを乗り越えて来た朋友の気持ち……それが今なら解るぞ。自身の武に不安を覚える時が無かったとは言わせぬぞ。いま私も同じような気持ちゆえな。だが安心せよ。私は『聚楽』だ。蝦夷から琉球まで轟かせよ己が武名、それを肝に銘じて剣に込めよ汝の魂。そなたの健闘を祈るぞ。魂を燃え上がらせ、私に挑むのだ。ああ、そうだ。私の説明はちゃんと聞けよ。運とか才能に頼ると普通に死ぬぞ。まぁ、最後に物を言うのは才能と運だが。当たって砕けろと言う事だな」
話が長い。
そして意味が分からない。というか、後半はただの愚痴だったような気がする。
分かったのは、この人物がおそらく聚楽と名乗っているだろうことくらいだ。
「あ、あのぉ、なんで道場の門を叩かなきゃいけないのでしょうか」
「別にやりたくないならやらんでも構わんのだが、やらんと普通に死ぬぞ」
「なんで!?」
「まずそなた、【見えざる熟達者】【ミュージアム】【フェイクギャラリー】と言ったような組織に覚えなどあるか?」
「ぜんぜんないですけど」
「であるか。まぁ、そうであろうな。知っていたら驚く」
「はぁ」
「私が先に述べた名は【聖遺物】とか言う怪し気な代物を珍重する者どもだ」
「せいいぶつ、ですか」
「うむ。まぁ、なにやら曰く付きの品だとでも思えばよい。そのような品の中には特別な力を持つものが存在する。それらを使って邪な目的を遂げようとするのが先に述べた連中だ」
「それは……分かりましたけど、えと、自分に何の関係が……?」
蓮治にはそれがわからない。
少なくとも聖遺物なんて言うものに心当たりが無かった。
それでなぜ説明がされているのか。
「ふむ。失血で記憶が抜け落ちているのか。まぁ、当人から聞くが早しか。見当はついている。天堂地獄、聞いているのであろう」
麗人がそのように声をかけると、金属質の音を立てて、ベッド脇のテーブルに鳥のオブジェが舞い降りた。どこから出て来たのかと蓮治が目を見開く中、その鳥がくちばしを開く。
「久しいな、聚楽。息災であったか」
「うむ。道場は相変わらず閑古鳥が鳴いておるが」
「それは言われんでも分かる」
「うむぁ……」
鳥から放たれる少女の声音。
その声音が蓮治の記憶を刺激した。
あの地獄の災害、その中で出会った少女。
そして、その少女によって鎮められた大火災。
「そ、そうだ! あの火事! あれはどうなったんですか!?」
「火事か。そなたのお蔭で火事は鎮火した。今も救護は大車輪で動いておるが、火災が静まっておるゆえ、救助活動は速やかに進んでいるぞ」
「そう、ですか……」
それならあんな死にそうな目に合ったのも報われるというものだ。蓮治はほうっと溜息を吐いた。悲しいことや辛いことは出来ればない方がよい。そう出来るのならば、少なくとも自分は体を張る。蓮治はそのように思っているし、そのように証明もして見せた。
「それでだ。そなたが火事を鎮めることの出来た要因。天堂地獄だが」
「あ、はい」
「察しはついているであろうが、聖遺物だ。それも、大昔から把握されているな」
「…………」
蓮治は考え込む。天堂地獄は聖遺物。聖遺物は謎の組織に珍重されている。
そのような考えに至り、嫌な予感がして蓮治は問いかける。
「あの……聖遺物を珍重している組織って言うのは……結構、危ない組織……ですか?」
「うむ。所属していることが判明した者は例外なく国際テロリストとして指名手配されているくらいには危険な組織だ」
「……自分も狙われたりしますか?」
「まぁ、するであろうな」
「自分と天堂地獄は関係ないんですー……って言うのは……」
「そのなりでは無理であろうなぁ」
しみじみとした調子で聚楽が言う。
そのなりとは? 蓮治には意味がとらえきれず、首を傾げる。
「なんだ、それも気付いておらなんだか」
「え、はい。えーと、なにか変で……なんか変だ!」
自分の体を見下ろし、蓮治はようやっと自分の体を襲った異常事態に気付いた。
手が細い。髪が長い。髪の色も変。よく考えたら声も変。シーツを剥いでみると、足も変。と言うか、変じゃないところが全くない。強いて言えば頭の中身くらいだ。
筋張っていた腕はほっそりとして肌も白くなっているし、足も細く、指なぞ白魚のように美しく可愛らしい。声は明らかに以前の自分より高くなっているし、髪は長くなり、色は黒のままだが、内側のみが赤くなっている。インナーカラーとか言うんだったか、と蓮治が乏しいファッション知識で辛うじて正解を導き出す。
「美しく、可愛らしかろう? 吾がやった!」
「戻せよぉぉおお!」
蓮治が鳥、天堂地獄に掴みかかる。ひらりと宙に逃げられてしまった。
「すまぬ、無理だ」
「なんで!? 理由を言え!」
「そも、そなたの肉体を再構成したのはそなたの怪我の治療が主目的。血液を大量に失ったうえ、肉も裂けていた。修復するには大量の熱量、すなわちカロリーが必要だ。吾とて無から有は生み出せぬ。なればそなたの肉体より調達するほかあるまい? 欠けた部分を補うために、他の部分を削ったのだ。その結果、そなたは縮んだ」
「縮んだからって女になるなんてある!? その理由、嘘過ぎじゃない!?」
「男の体の構造分からんので女にした」
「勉強しといて!」
「うむ。それは構わぬ。だが、勉強しても戻せぬぞ」
「なんで!?」
「言ったであろう。そなたの肉体は再構成したと。その際、血液を再構成するよりも残存血液に適合した体躯に調整する方が楽だったので、その削った分だけの余剰があった。しかし、そなたが火事を止めろと言うので、それに全て使った。というか、それでも足りなかったのでそなたから賄った」
「うぐっ」
たしかに、後遺症があるというのにやれと言ったのは自分だ。
しかし、まさかそんな後遺症だとは思ってもいなかった。
いずれにせよ、無い袖は振れないのだが。
「まぁ、それほど悲観することはない。使った熱量は蓄えればよい」
「そ、そうなの? それって、どれくらい?」
「ざっとそなたからは五〇キロ近く削った。その分を増やせ」
「無理を言うなよぉぉお!」
蓮治は男だった時は身長一八七センチ、体重九三キロだった。物心つく前からやっていた柔道が理由で体格はよく、体重もみっしりとついた筋肉のこともあって重かった。
「俺が九三キロまで体重増やすのにどれだけ苦労したか知ってる!?」
「知らぬが、とにかく食べればよかろうて。吾の再構成ならば脂肪を筋肉にするのも容易い。重要なのは熱量だからな」
「そ、そうなの?」
「うむ。五〇キロ増量するのもそれほど難しくはないと思えて来たであろう?」
「たしかにそれなら……」
筋肉で体重を一キロ増やすのは中々に難しい。だが、脂肪で一キロ増やすのは簡単なことだ。とにかくたくさん食べればよい。そしてだらだらすればよい。食っちゃ寝すれば肥える。古来より存在する当然の真理である。
蓮治は知らない。天堂地獄によって再構成された肉体は極上の質と極上の身体能力を備え、その基礎代謝が五千七百キロカロリーと言う異次元の領域に達していることを。
「話を戻すぞ。そう言ったわけで、そなたは聖遺物を追い求める結社に狙われる状況にある。命なんぞどうでもよい、ここで死ぬも吉日よ、と言ったような覚悟ならば止めぬが、命が惜しくばヤツカハギに属すがよい」
「ヤツカハギ?」
「ヤツカハギとは強大な力を持った蛇の真砂、天狗の東、麒麟の苅谷、雪女の日野、サンカの金剛、鬼の迫水、猫族の毛、辰の衛研の土蜘蛛八家を中心に、陰陽寮を再編成して結成された日ノ本の霊的安定を司る組織のことだ。聖遺物に通常の警察組織では対抗できぬからな」
「化け物には化け物をぶつけると言うことよ」
天堂地獄が酷い結論をぶちあげる。
「そなたにはヤツカハギのエージェントとなってもらう。そなたの身を守るためになり、ヤツカハギは聖遺物の使い手と言う希少な戦力を得ることになる。そなたが決めるがよい」
選択肢が実質存在しない。
蓮治は半泣きでヤツカハギに所属することに頷いた。
「よろしい。私はヤツカハギの戦技教導を務める聚楽だ。その割にはなぜか道場に閑古鳥が鳴いているがな」
「はぁ……」
「まず、そなたにはヤツカハギ内での身の振り方を教える指導役がつく。これはヤツカハギの新入りには極通常のことだ。そなたの生活保障はヤツカハギが担う。住居の提供、戸籍のねつ造、その他もろもろ……」
今の蓮治は姿形が変わってしまっている。以前の身分はどう考えても使えないだろう。顔写真を検められたら一発である。やっぱり選択肢がなかった。
「まぁ、面倒なことはヤツカハギがやってくれると思えばよい。そなたはヤツカハギのエージェントとしての身の振り方を覚えることに集中せよ。さて、では退院するぞ」
「え? あ、はい」
なんともまたせっかちな話だな、と思いつつも、蓮治は退院に関しては賛成する。
腹は減っているが健康体である。入院している必要はないのだ。
「我が道場には閑古鳥が鳴いているが、それでも弟子はいる」
「はぁ」
素晴らしい早業での退院、そして聚楽が待たせていたタクシーの中で聚楽が唐突に口に出す。
「私はヤツカハギの戦技教導を担っているので、必然弟子はヤツカハギに属している。そなたの指導役は弟子に任せた。年代も近いし、女子ゆえ、女子としての身の振り方も教授してもらうがいい」
「いらないですっ」
「なにもそなたに女らしく振る舞えとは言わぬ。そなたの言動はそなたの意志の元にあるべきだからだ。しかし、TPOを弁えるのは人として当然の振る舞い。男子と女子では礼儀作法にも異なる部分が存在するものだ。社会人になるのならば覚えておくべきであるぞ?」
「う」
正論で返されてしまい、蓮治が思わず言葉に詰まる。
蓮治もすぐさま元に戻れるとは思っていない。
その間の言動で恥をかくのは確かに嫌だ。
「……そう言えば、天堂地獄、だったよね?」
「うむ。吾がどうした?」
「なんで鳥?」
自分の肩に止まっている鋼の鳥に対し、蓮治が問いかけると、鳥は翼を広げる。
「吾の本来の姿は目立ちすぎるし、人化形態では面倒な応答が必要。故にこの姿だ」
「そういうことじゃなくて……」
「どうやってこの姿になっているかか? 吾は天堂地獄ぞ!」
理由になっていない。
「もういいや……」
「そうするが吉であるな。天堂地獄にまともに付き合っていては気が狂う」
聚楽が酷いことを言う。
「あの、聚楽さんは天堂地獄とは知り合いなんですか?」
「うむ。かつては私が使っていた」
「え?」
「本当だぞ。たしかに吾のかつての使い手は聚楽であった」
「太平の世に強大な力は要らぬ。なので博物館に収蔵したが、いつの間にか脱走していた」
「は、博物館に? え? 聖遺物って危険なものなんじゃ……」
「天堂地獄は使い手を選ぶ。テロリストなぞには与せぬ。博物館から盗み出そうとしても武力行使を前提とした荒事にはそうそうならぬ。要するに罠に誘い込む形となるな」
「まぁ、吾が脱走したので無意味になったのだが。すまぬ、吾が悪かった。だが吾は謝らぬ」
「なぜだ。理由を言え」
「ガラスのケースに入れられて見世物になる側の気持ちが分かると言うか?」
「なるほど、それは私に非があるようだ。許せ」
「ふん、許してやらぬでもない」
「ええと、あの、聚楽さんは天堂地獄がなくて大丈夫なんですか? 天堂地獄に関わったことがあるなら危険なんじゃ……」
「問題なかろう。聚楽にどうにかできない事態があったとしたら、吾が居たところでどうにもならぬ」
「なんで……?」
「聚楽は強いからだ。吾が居たところで誤差に過ぎぬ。というか、こやつは具足を使うのが得意ではないので吾を使うと下手すると弱体化するのだ」
「具足を使うより弱体化する……」
それは聚楽が異常に強いということなのだろうか。
さすがに理解が及ばなくて蓮治は首を傾げる。
蓮治には天堂地獄の力がなんとなくだが分かる。
纏っていたのはほんの僅かな時間だったが、それでも分かるのだ。
それほどの力があって弱体化するとはどういうことなのか。
「聚楽については深く考えるな。あれはもうそう言う存在なのだ。理不尽が服を着て歩いているのだと思え。そして剣を振るえば放つのは剣戟ではなく理不尽だ。よいな」
「は、はぁ」
天堂地獄と聚楽の間にはある種の信頼関係があるのか、互いに口さがない物言いをする。それにどうにもついていけずに蓮治は曖昧に頷くにとどめた。
「そういえばだ。そなた、名はどうする?」
「はい? 名前ですか?」
「うむ。そなたの以前の名は知らぬが、そうまで変わってしまっては以前の名は使えまいて。新たな名前を考えておくがよいぞ」
「じゃあ、レンでいいです。字も変えた方がいいだろうから……漣と書いて、レン」
少し考え、蓮治は己の名をレンと改めた。
かつての名を少し削ったもの、そして時折あだ名のように呼ばれていた名。
それがかつての自分へのよすがのように思えて、レンは少しばかり泣きたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます