白鳥の恩知らず

元とろろ

白鳥の恩知らず

 雪女と、葛の葉狐。

 二つの話が嫌いだった。

 要するに人間の父とそうでない母がいて、母は子供と父を置いてどこかに行くという、その類の話。

 本当に大嫌いだったけれど、小さな頃から家に置いてあった怪談本の中で一番読み返したのもその二つだった。

 何度も読めばいつかは母の考えがわかる時が来るかもしれないと思っていたから。


 仕事で家を空けることの多い父がどんな人間なのか、正直に言えばよく知らない。

 そして父の話で聞いただけの母のことは輪をかけてわからないことばかりだ。

 そもそも父の言うことの内どれだけが真実なのかということから疑ってもいた。

 しかし今の状況からすれば、どうやら母が白鳥であるらしいということだけは信じざるを得ないのかもしれない。

 何があったのかと言えば、私の体つきがこの頃あちこち大人びて来たのに合わせて、背中に生えている羽も灰色から白に変わったのだ。

 どうも私はあひるの子ではなかったらしい。


 母が白鳥だというのをとりあえず事実として受け入れるなら、一度行ってみたい場所がある。

 電車を使って日帰りで行ける距離に白鳥の飛来地になっている湖があるのだ。

 まさか、そこで母が待っているということもないのだろうけど、もしかしたらという思いもある。

 そういうわけで、何も予定のない春休みのある一日の過ごし方をとりあえず決めてしまったのだった。



 木製の低い柵の向こう側、湖の岸辺には大きな石がごろごろ転がっている。

 そして石の上にまばらに佇む大きな何かがある。

 遠目ではごみ袋に見えていた。

 陽の光を白く反射する部分と灰色っぽい影になっている部分があるのは袋の表面が皺になっているからかと思ったが、実際は羽毛の凹凸のせいらしかった。

 全体的には丸っこいのに上の方に妙なでっぱりがあるのも袋の結び目ではなく、長い首を曲げて休んでいる様子だった。

 茶色っぽい汚れが付いているのは、まあそのまま土や泥の汚れなのだろう。

 私が最初ごみ袋かと思ったものこそが、微動だにせず休む白鳥だったわけである。


 数は少ない。

 三月の終わりにはもうほとんど日本からいなくなるのだという。

 人間の方も全然見当たらない。

 今は私一人だけだ。

 それも正確には半人半白鳥という疑惑があるのだが。


 音を立てないように気を付けながら、柵にもたれて白鳥を眺める。

 白鳥は危険だと学習した土地に寄り付かなくなるから驚かせてはいけないのだという。

 声をかけたらやはり驚くのだろうか。

 少し迷ったけれど、やはりルールは守るべきだと思うから黙って見るだけにすることにした。

 そもそも何と言えばいいのか思いつかないというのもある。

 白鳥は二年ほどで大人になって、二十年から三十年で寿命を迎えるらしい。

 母が生きていてもおかしくはない。

 しかし今ここにいる白鳥の中に母も紛れているのかはわからない。

 少なくとも私には白鳥の見分けは全くつかない。せいぜい大きいのと小さいのがいるな、というくらいだ。


 厚着をしてきたけれど、じっと動かずにいるうちに体が徐々に冷えてきていた。

 そんなに強くもない風さえ肌寒い。

 見るだけは見たし、そろそろ帰ってしまおうか。

 本当にただ見ていただけだったけれど。

 そう考え始めた時だった。


 不意にひと際強い風が吹いた。

 それに合わせたように白鳥たちが翼を広げ羽ばたいた。

 白鳥の群れがとうとう次の旅に出るのだ。

 すじ雲のかかった北の空を見上げる。

 遠くに消えていくのをただ見送る。

 行ってしまった。飛んでいく姿は綺麗だったけれど、うすら寂しいような気もした。


 そして、おもちゃのラッパのような、甲高くか細い音がした。

 湖の方を振り向けば、一羽の白鳥が岸辺に取り残されていた。

 そのまだ灰色っぽい小さな白鳥は空に向かって繰り返し鳴いていた。


 置いて行かれた? なんで?


 頭が真っ白になって、体が勝手に動いていた。

 知らないうちに柵を乗り越えて、気が付いた時にはその白鳥のすぐそばに近寄っていた。

 白鳥は逃げようともしなかった。

 その足に釣り糸らしいものが絡まっているのに気が付いた。

 白鳥は今度は私を見て鳴いた。

 私はその糸に手を出していた。

 ハサミは持っていない。こんがらがった糸を解くのにはそれなりに時間がかかりそうだった。


 糸と格闘する間、本当かどうかもよくわからない父の話を思い出していた。

 罠にかかった白鳥を助けたのが母との出会いだったのだとかなんとか。

 その時の白鳥が母で恩返しのために人間の姿で父の元を訪れたのだとかどうとか。


「もしも」


 なんとか糸を取り除けそうな目途が立ち。

 私は知らず知らずのうちに呟いていた。

 自分でも本気かわからないことだった。


「恩返しをするつもりがあるなら、私も一緒に連れて行ってくれない?」


 自由を取り戻した白鳥は、ちょっと首を傾げた後、今度は鳴かずに翼を広げた。

 私がそれ以上何かを言う間もなく、白鳥は首をまっすぐ伸ばして駆けだした。

 ばたばたと進む一歩ごとに羽ばたきは速度を増し、とうとうその足は地を離れた。

 仲間と同じ北の空に向かい、その姿はどんどん小さくなって、やがて見えなくなってしまった。

 私はしばらくの間、ただ空を見ていた。口を開くと冷たい空気が体に流れ込むのがわかった。


「恩知らずなやつ」


 言葉になったのは悪態だったけれど。

 お前は群れに追い付けるといいね。

 ほんの少し、そんなことを思ったりもしていた。

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