『黒猫プル』

苺香

第1話

「酒は百薬の長」などという言葉を耳にしたことはあるかい。

ワシは何をどこで間違ったか、酒で仕事も家族も失って、いまは孤独な老いぼれさ。

いつの事かは思いだせないし、その必要もない毎日だが、酒の仕業で体中に小さな黒い蟲が

這いまわりひどい目にあっていることなど、何処の誰が信じてくれようか。

雨の夕暮れだったよ。いつものように寝床で一升瓶を抱えていたら、「フクシ」と名乗る年増の女がやってきたんだ。

「彼方あちらに向かいます」

と東方の三輪山ではなく西方の二上山の方向を指さしたんだ。

「雌岳と雄岳があるだろ。日が暮れると乳繰りあうかもしれないぜ。むかし、働いていた大

阪からはおっぱいに見えたもんだぜ」

追い返すつもりだったのさ。だいたい女なんてものはお節介で、それが相手の迷惑になっているなんて考えねぇんだよ。てめえの偽善を、つゆほども疑うことなく善行だと信じきってやがる。

だけどよ、その女は顔色ひとつ変えずに、

「じゃあ、噴火で出来た屯鶴峯は白いオタマジャクシの固まりですね」

なんてケラケラ笑いながら答えるのさ。全くおかしな女だったさ。

これから始まる長い夜などは、恐怖でしかないのさ。ひとりで暮らすとはそんなもんだよ。

退屈しのぎに付き合ってやることにしたさ。

「着きました」

山の麓の小さなほったて小屋に連れていかれたよ。トタンに錆がこびり付き、いったいどれ

くらいの間ここに建っていたのか見当もつかないほどさ。

しかし、おかしなこともあるもんだ。

この辺りは、ワシがまだケツが青かった頃に何度も来たことがあるのさ。こんな建物はなかったはずさ。ただの野原だったよ。

中に入ると白い衣を纏った男が、小さな塊を手のひらに乗せていたんだ。黒い塊は「みゃお。 みゃお」と鳴いてと震えていたんだ。

「こちらを持ち帰って頂ければ、あなたの病気は回復に向かいます」

と白い衣の男は断言するんだ。

誰が病気なんだと訝しかったよ。

それでも、その生き物の名前を考えていたんだ。「プル」だ。なんせプルプルと震えてんだ

からさ。

……まだ飼うなんて答えてなかったけどさ。

その時だよ、ワシの横にあれからずっとずっと居た、”黒い得体のしれない大きな塊”がスウッーとその猫に吸い込まれていったのは。猫は風船が膨らむように大きくなっていったさ。

そこからの記憶は思いだせねぇ……

ワシと大きな猫の、一人と一匹が残されていたのさ。

建物があったはずの場所は野原で、足元の地割れからはワシの身体に馴染んだ酒の匂いがしたさ。

匂いの向こうを覗きこむと、息子が大好きだった黒猫のぬいぐるみがぺっしゃんこになって転がっていたのが目に入ったんだ。

大きくなった猫を抱き、住処に向かったさ。

夜が明けたら、こいつの便所の砂と鰹節を買いにでかけるのさ。黒猫が真っすぐにこっちをみて「みゃ~おっ!」なんて鳴くからだよ。しょうがねぇだろ。

寝床に入り天井をみあげると、そこには泣き崩れた妻の顔が見えたさ。あれは事故だったんだ。酔っ払いの車に轢かれたんだよ。よりによって親子でさ。それからだよ、”黒い得体のしれない大きな塊”がワシの横にいたのは。

それが、今はどうだい。横にいるのは、黒い猫ときたもんだ。


天井の女房は、涙を流しながら、微笑んでいるんだ

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