第3話

スペンサー侯爵家では、ぶるぶると厳格な父親が口髭を震わせるほど怒りを露わにしていた。

手には朝刊が広げられている。

スペンサー家は代々法務局の長官を勤める家柄で、宰相とは関わりが深い。

王命が下ったのもあるが、相手は公爵家であり宰相を輩出する家柄なので、家格も申し分ないと受け入れた婚姻だったが。

父親の様子を見て、娘のアリョーシャはうふふ、と愉しげに笑った。


「賭けはわたくしの勝ちね、お父様。だからヘンリー様は駄目だと言ったでしょう?」

「その様だ……」


娘との賭けに負けるのはこれで何度目だろうか、と父、アルヴァンは肩を落とした。

幼い娘が婚約の時に言ったのだ。


「ヘンリー様は駄目よ、お父様。宰相の器ではないもの」


最初は先読みの力か?預言者か?と騒がれたものだが、観察力が素晴らしいという結果だった。

それはそれで貴族には相応しく、得がたい能力である。

今まで何度も賭けを持ちかけられては負けていた。


「真面目なだけで姦計に弱い、型通りにしか動けない機転の利かない御方では、宰相は務まりませんもの。今の宰相様も器が知れましたわね。あの程度にしか息子を鍛えられないのですもの」


歌うように言われた言葉に、アルヴァンもぐうの音が出ない。


「あーあ、クローディア様が殿方でしたら完璧でしたのに。そうしたら直ぐに押しかけてでも奥様にして頂いたわ」


くすくすと笑う娘の目は笑っていない。

ある意味脅しの言葉である。

すぐにでも婚約を解消しないと、どこぞに押しかけて体面に傷をつけるぞという暗喩でもあるだろう。

アルヴァンは鷹揚に頷いた。


「分かった。今日中に宰相には解消して頂こう。なに、既に不貞は明らかになっているのだ。造作も無い。ついでに法的な書面を他家の方々の分も作成して恩を売ることにしよう。さて、今日は忙しくなるぞ」


立ち直ったアルヴァンが愉しそうに言いながら立ち上がる。

娘のアリョーシャは笑顔でそれを見送った。


(しかし、ふむ……今回の黒幕の一端はクローディア・モリアーティ嬢か。いや、元々王太子殿下の脇が甘かったのがそもそもの原因だな)


馬車に揺られながらアルヴァンは、これからの忙しい一日の始まりを感じた。


***


法王リノスは悲嘆に暮れていた。

帰らない下の息子と、醜聞にまみれた新聞を目にして、溜息ばかりが増えていく。

もう一人の息子、既に司祭となり支えてくれている兄のナサニエルが、優しく背を撫でる。


「ナタリア嬢は大丈夫でしょうか?……あの方が婚約解消を申し出るなど、相当思いつめていらっしゃるのでは……」


「私もそれが心配だ……」


ナタリアはリノスにとってもとても大事な人であった。

学生時代に片思いをしていた侯爵夫人に瓜二つなのもあったが、何より敬虔な信者であり、教会にもよく訪れていた。

恵まれない人への奉仕や、孤児院の子供達への教育など、他の令嬢達よりも熱心に行っていたのだ。

控えめで清楚でありながらも、芯が強い美しい人だった、侯爵夫人にそんな所も良く似ている。

もう欲や熱などは無いが、わが子を見るような愛おしさで、何れ本当の娘になるのだと信じていた。


わが子であるイザイアには清貧であれと説いていたし、不貞など注意するまでもなく考えもしなかったのである。

確かに見目は麗しく、幼い頃から天使のようだと言われて誉めそやされていたが、本人はそれを迷惑がっている素振りも見せていたし、ナタリアとは仲が良かったように傍目には見えていた。


「どこから間違えていたのか……」


「誠意を見せるためにも、婚約解消を受け入れましょう。書面は私が直接侯爵家に持って参ります。私からも直接ナタリア嬢に謝罪させてください」


流石にこの様な醜態を犯したとはいえ、法王自らが動くわけにもいかない。

息子の気遣いに、リノスはゆっくりと頷いた。


リノスの指示に従って書面を用意した後、ナサニエルは王城へと足を向けた。

婚約の解消に法務長官と、縁を結んだ国王陛下の承認も必要になる。


登城すると既に法務長官の執務室には、今回の騒動に巻き込まれた貴族達がひしめいていた。


「此の度は災難でしたな。こちらでも慰謝料に関する算出をした書面もご用意しておりますので、宜しければご確認を」


スペンサー侯爵から手渡された書面に、ナサニエルは目を通した。

そして、適正だと確認した後、署名をしてスペンサー侯爵へと戻す。


「不足分の書面をご用意頂いて有難うございます。こちらもお願い致します」

「承りましょう。陛下は昼頃戻られる予定ですが、お怒りのあまりブローズ公爵が謁見の間に詰めておりますので、少々時間がかかるやもしれませんが、控えの間にてお待ち下さい。お忙しければ教会にお戻り頂いて、話が可能になった時間に呼びに向かわせる事も出来ますが」


スペンサー侯爵が爵位が下のケレウノス伯爵であるナサニエルを丁寧に扱うのは、高位の聖職者の家柄だからである。

ナサニエルは申し訳なさそうに、ゆったりと首を横に振った。


「スペンサー侯爵も大変な時にお心遣い痛み入ります。ですが、待つのも私に与えられた責務だと思いますので、控え室に向かいます」


神の下僕たる挨拶をして、ナサニエルは従僕の案内で控え室に向かう。

途中、庭の見える廊下に差し掛かり、弟と、妹のような存在の少女を思い浮かべた。

何度弟を諭しても、「兄さんには分からない」と言われるばかりだった。


(ああ、分からない。あんなに清楚で美しい花を傷つける理由など、分からない)


子供達に一生懸命言葉を教える姿も、怪我人や病気の人々を見舞う姿も、まるで天使のように美しかった。

見た目よりも、真っ直ぐに純真なその姿が白百合のように美しい少女だったのに。


***


玉座に座してはいたが、怒れる手負いの熊のような筋骨隆々とした将軍の姿に、国王は怯えていた。

隣の玉座に座る王妃は、平然とした顔をしている。


「わ、若い者の一度の過ちを許せぬか……?」


及び腰で言う事がそれか、と王妃は溜息を吐く。


「つまり、娼婦のような娘を国母に据え、その女と関係を持った男に我が娘を嫁がせよという王命ですかな?」


ギラリ、と殺気を放つ目で見つめられて、国王は冷や汗を流した。


「国母の愛人を夫に持てと、そう仰るのか!」


あまりにも赤裸々な物言いだが、間違ってはいない。

助けを求めるように、国王は隣で冷たい顔をしている王妃に問いかける。


「王妃は、どう思う?」


「わたくしは国母に娼婦を迎えて、馬鹿息子を廃嫡する決断も即決できない陛下に落胆しております。今の言葉も国防を預かる将軍家と辺境を守る辺境伯家を敵に回すお言葉でしてよ。貴方は国を滅ぼしたいのですね。ああそれとも次代の王妃には、有力貴族の当主と夜の関係を深めることで絆を強固になさりたいという野望でもおあり?」


質問の三倍は辛辣な答えを浴びせられて、国王は鬼のような妻と熊のような将軍を見比べた。

もう余裕など見せている場合ではない。


「……わかった、婚約の解消を認める……。慰謝料についても全面的に認めよう」


横に控えていたスペンサー侯爵から書類を渡されて、さらさらと国王が署名をする。

全面的に譲ったはずなのに、手負いの熊は話し始めた時よりも怒りを増したまま、王の署名入りの書類をもぎ取るように受け取って立ち上がった。


「本日賜った御言葉は心に刻むだけでなく、家の者にも辺境にも伝わる事でしょう。王妃殿下、眼前での無礼な振る舞い、どうかお許しを」


不吉な言葉を国王に告げるも、ブローズ公爵は王妃には丁寧に頭を下げる。

王妃は先程とは違う優しい声で、その挨拶に答えた。


「良いのです。どうか、夫人のヘンリエッタとアンリエッタ嬢にも王家を代表して謝罪の言葉を。本当に申し訳ない事をしたとお伝えしてくださる?」


「はい……娘も夫人もそのお言葉に心が軽くなるでしょう」


もう一度王妃に頭を下げてから、顔を上げて国王の方は見向きもせず、のしのしとブローズ将軍は謁見の間を後にした。


***


その頃、王妃の公務に付いて行ったモリアーティ公爵夫人のルイーゼと、夫である公爵は公爵邸に帰り着いていた。

ルイーゼは既に怒りを含んだ険のある笑顔を浮かべている。


「ただ今戻ったぞ」


「お帰りなさいませ、お父様。早速ですけれど新聞にございますとおり、わたくし婚約破棄をされましたので、今すぐ登城して書類を整えてくださいませ」


早速出迎えたクローディアが優雅にお辞儀をしながら言うと、何か言おうとする公爵を遮って、にっこりと母のルイーゼが微笑む。


「ええ、わたくしも今旦那様にそうお願いしようとしていたのですよ」


ふう、と溜息をついて公爵が沈思した後言葉を選んで言う。


「このまま、件の男爵令嬢が王妃になるという事が罷り通れば、この国は終わってしまう。国を思うのならば、この婚約を継続するのが…」


「知ったことではありませんわ。その様な杜撰な国は滅びれば宜しい」


冷たく言い放ったのはルイーゼである。

ルイーゼは元々帝国の公爵令嬢だった女性で、親友の王妃と同じく帝国からの輿入れであった。

帝国に対する愛着はあるものの、嫁してからは勿論この国に骨を埋める覚悟だったし、愛情も注いでいたのだ。

だが、王国の仕打ち、娘がされた仕打ちはあまりにも無残だった。


「娘を、家門を馬鹿にされて、その頭を下げるのでしたら、勝手になさいまし。浮気程度ならまだ宜しいでしょうけれど、冤罪までかけて強引に破棄するなんて、何処まで馬鹿にされたものかしら」


冷たく言い放たれて、公爵は妻から娘に視線を移した。

娘は可憐な出で立ちで、にっこりと微笑む。


「それがお父様の答えですのね?愛してくださらない殿方に、他の女性を愛する殿方に、わたくしに尽くせと仰いますのね?いいえ、政略結婚ですから愛がなくても宜しいわ。でも仕事も出来ない、他人からどう見えるか計算も出来ない、ただ災禍をばら撒くだけの馬鹿に付き従えと仰るのですね?断頭台までご一緒すればお父様は満足なさいますの?」


そこまで馬鹿な王子ではないだろう、とは言えなかった。

既にその馬鹿さ加減は新聞という媒体を介して、世間に知らしめられている。

明日には文字の読めない村人にすら伝わっているだろう。


「お父様、政略結婚も家同士の繋がりも、子供を作ることも全て家門の繁栄に繋がる貴族の責務ですのに、絶える道をお選びになるのは何故かお聞きしても?」


「それは……まだ、この婚約が続いてお前が側でお支えすれば……」


はあ、と溜息をつくルイーゼに続いて、兄達も弟もやれやれと溜息を吐く。

父も国王と友人同士であり、廃嫡はしたくないと泣きつかれたのだろうと予想はつくが、大概である。

クローディアは愛らしい笑顔で続けた。


「王妃様は賢妃でございますのに、息子があのように育ったのは国王陛下の所為ですわね。わたくしが王妃になったとしても、同じことになりましょう。手綱を握れなかったわたくし如きでは、国王になった殿下の所業を止められるとは思えません。お父様はお兄様達やミルファスや、お母様と共にその首を断頭台に捧げるお覚悟はありまして?」


娘の冷たい言葉と視線に、公爵は何も言えずに黙り込んだ。


「俺は死ぬと分かっている運命に付き従う趣味はない」


ローティスが言うと、ミルファスも頷いた。


「死にたいなら父上だけにして下さい」


あんまりな言い分ではあるが、母さえもその言葉に頷いた。

味方が居ないのを悟って、公爵は項垂れる。


「父上、ご隠居願います。家督は私が継ぎます」


「そうね、それが宜しいわ」


長男のエスティーダの言葉に、公爵が何かを言う前に、ルイーゼが畳み掛ける。

クローディアも、残念そうな顔を少し見せて、兄達と弟と母と視線を交わして頷いた。

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