『舞台の少女』と『少年』.2
久世阿儀人が、八木詩葉突き落とし事件の犯人である。
極めて耳障りの悪いそんな噂話が、当の本人である私の耳まで届くのに、そう時間は掛からなかった。
自ら言葉にするには幾分気恥ずかしさが纏わりつくのだけれど…私は少しばかり、校内で知名度のある人間なのだと思う。それも、とても有難い事に、概ね良い意味合いで。勿論それは鼻にかけるほど大それたものではないし、そんなつもりも当然無いけれど。だけど確かに、火の手が上がるのと同じ位に猛烈な勢いで広まる噂話…その原因の一端を、そんな私の知名度が担っているのは疑いようがなかった。
付け加えるなら。汚名を着せられた当人…久世君自身の知名度もまた同じ様に作用しているのだろうと感じた。
私は多分、恵まれている。
心底心配してくれる友人や家族、先生方からも気遣われながら…但し、その真相に関わる言及などは総じて避けられ、躱され、守られて。面と向かって事の真偽を殊更に問いただされる事なく、安穏と日々を過ごしていられたのだから。
…じゃあ、久世君はどうだろうか。
不愉快で不名誉な、根も葉もない噂話に晒されて。全くの冤罪にも関わらず、あらぬ嫌疑を掛けられて。そして…これこそが最も恐るべき話なのだけれど…自らの無実を誰からも信じてもらえない状況に陥っている。
周囲の人達を無闇に責める様な気にはまるでならない。私自身、本当か嘘かもわからない彼の中学時代の話を鵜呑みにして、色眼鏡で勝手な印象を抱いていたのだから。事ここに至って、無遠慮に彼を庇い立て事こそ、余りにも不躾である様にも感じられた。あまつさえ、それを身の回りの人達に強要するなんていうのは、どうしたって無理がある。
———久世阿儀人にやられたんだって?
直接問われれば、それは違うんだと真実を繰り返す。できる事と言えば精々その程度。そんな自分が歯痒く、情けなく。そして、それ以上に。
——なにがあったかはわからんけど…誰が居合わせても、あの状況だったらこうするだろ。今回たまたま俺が鉢合わせたってだけの話だ。だから、なにも迷惑なんて思う必要ない——
あり得ない。
久世君が犯人だなんて事は、絶対にない。
見ず知らずの人間の窮地に一片の迷いも無く、たった一瞬の躊躇いも見せず、臆する事なく差し伸べられた救いの手が。後ろ暗さに蓋をして、自分自身を守る為のものだっただなんて事は、絶対にない。
それは確かに、確信だった。けれどその確信を、正しく皆んなに共有する術がない。言葉で言い表して伝える、その手段がない。
私がのうのうと皆んなから身を案じて貰いながら過ごしている日常のすぐ隣で、汚名の渦中、延々続く不名誉を甘んじて受け入れるばかりの久世君を想うと、胸の奥が削られる様に痛む。自らを苛む歯痒さも、情け無さも。まるっきり霞むほど、それ以上に…心苦しかった。
犯人探しがしたかった訳じゃない。
故意ではない事故であった可能性だってあるだろう。そうでなくても…そうでないなら尚更、私に対して明らかな悪意を持っているだろう人を進んで探し出す様な真似をしたいだなんて、当たり前に思わない。けれど。けれども。
もう知ってしまった。
彼が。久世君が、心底優しい人間だという事を、私はもう知ってしまった。その優しさが確かに、あの日私に向けられた事に、私はもう気付いてしまった。
だから。
「悪かった」
そんな風に言わないでほしい。
久世君は何も悪くないから。
彼の過去の話のどこまでが真実で、どこまでが脚色されたものなのか…それはわからない。それでも一つ、確かな事がある。
彼はとても優しく、穏やかで…良い人だ。誰も彼も、彼の過去に目を奪われてばかりで、そんな単純な事に気が付けていないだけなのだ。
「迷惑かけた。それじゃ」
迷惑なんて掛かってない。それを言うなら、果たして一体どうする事が正しいのかも分からないまま、今の状況に巻き込んでしまった私の方こそ迷惑を掛けているのだから。
そんな思いの丈が、けれども。なんと言葉にすれば良いのか、すっとわからなくなる。きっとそのまま、思ったままを言葉にしてしまえば。それもやはり同じ様に、久世君の思い悩む種になってしまうと思ったから。
「嫌だ!」
…とは言え。いくらなんでもこれはなかったな、と。口に出した途端に、やや後悔する。
「……嫌だ?」
久世君もまた、随分きょとんとしている。そんな彼の表情に、再度弁明の言葉を口にしようとして。
「——っ」
けれども結局。何から伝えれば…何を謝れば良いのかすらわからずに、口篭ってしまう。
そんな私の次の言葉を急かすでもなく。不意に投げつけられた沈黙に気を悪くする風でもなく。彼はただ、私の言葉を待ってくれていた。その優しさがより一層強く、私の心をざらりと抉る。
「ごめん!!」
油断すれば涙が溢れ落ちそうになる自分を、内心で叱り飛ばしながら。誠心誠意精一杯の謝罪を口にする。
この場面で涙を流すのは、余りにも卑怯すぎる。泣いてたまるか。泣いてたまるか。泣いてたまるか。
「中学の頃の話は、何が本当なのかわからないから何も言えなかった。けど、私を突き落としたのは久世君じゃないって、ちゃんとすぐに言わなきゃいけなかったのに…すぐに言葉が出なかった。ごめん、本当に、ごめんなさい」
中途半端な言葉は要らない。必要なのはきっと、私自身が心根から思っている本心。
彼の過去の真相を知らない私が、柴家先輩の言葉を否定しても意味がない。それは確かに気遣いではあるだろうけれど、本音じゃない。そして。
——多分彼は、それを見抜く。
違和感、と言ってしまうと聞こえが悪いのだけれど。彼との会話を通してしばしば、奇妙な引っ掛かりを抱く場面があった。今日まで長くその原因がわからなかったけれど、さっきの〝ゲーム〟でようやく、その一端を垣間見た気がした。
聞いていない様で聞いていて。考えていない様で、恐ろしく注意深く考えている。久世君は多分、人の考えを捉えるのが極端に上手い。
理由はわからない。だけどもし、私の考えが正しかったとすれば。生半な、口ばかりの謝罪や慰めは、きっと簡単に見抜かれる。そしてきっと、彼のことだから…見抜いた事を、決しておくびにも出さない。
だから、本音を口にしなければならない。それはきっと、彼には正しく伝わるはずだから。
「………聞いてもいいか?」
「…!なに?」
「なんでそこまで俺じゃないって断言出来るんだ?根拠なんかどこにもない、ほとんど見ず知らずの俺が犯人じゃないって、どうしてずっと言い切り続けるんだ?」
少しばかりの沈黙を破った言葉は、本当にわからないと言った響きだった。これには正直、少なからず驚いてしまう。
「……それ、前にも聞かれたけど…もしかして本気で言ってるの?」
一体全体どこを切り取って、自らが疑われる事を確信しているのだろう。そんな訳がないのは、誰の目にもきっと明らかであるはずなのに。
「んー」
考える、フリをする。
答えはずっと自分の中にあって。既にそれは疑いようもない事だから。けれどもやっぱり、それを正確に伝える言葉が一体どこにあるかがわからない。だからせめて、本心を。ずっと周囲に恵まれてきたと言う自身の自負に基づいた根拠を。それだけは、正しく伝わってほしいと、心底の祈りを込めて。
「人を見る目には自信がありまして」
強がった笑顔で一言。相変わらず何の理由にもなりはしないかもしれない一言を、言ってみせた。
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