保健室.1

「あら、どうしたのっ」

 保健室に入るや。安西先生が血相を変えて、こちらの元へと駆け寄ってきた。確かに、今の私…と、久世君の姿と言うのは中々見かけない絵面ではあると思う。安西先生の動揺も無理ない。

「あの、これはー」

 説明しようと思って…けれど咄嗟に上手な言葉が思い付かず、口籠る。

 一つ一つの事柄を、断片的に説明する事はそれほど難しくない。けれども全体を通して、今この状況にあるかと言うのを的確に言葉にしようと思えば…やはり少しばかり、言葉に詰まってしまう。


「階段から足を踏み外して転倒したらしいです。意識もはっきりしていたのと、頭を打っていないそうでしたので、取り急ぎ運びました。布団に寝かせてあげられますか?」

 丁寧に、久世君が問い掛ける。言葉に、問答よりもそちらを優先すべきだと判断したらしい、安西先生がベットへと久世君を手招く。

「こっちへどうぞー。大丈夫、手伝う?」

「ありがとうございます、大丈夫です」

 ゆったりとした動作で腰を屈め、私を布団に腰掛けさせる。そのまま私の膝下に腕を入れて持ち上げる。

「少し痛むかもしらん。ごめんな」

 相変わらず荒い言葉。そんな語調には全く不釣り合いな優しい所作で、私の体をベットに横たわらせる。

「しんどくないか?」

 目線を揃えて、久世君が問い掛ける。相変わらず痛いには痛いけれど、転倒した直後から考えれば随分と体は楽になっていた。

「うん、だいじょぶ。ありがとう」

「そうか、良かった」

 さらりと口にしてから立ち上がると、久世君が安西先生へと向き直る。

「痛みを訴えているのは右足首が主です。しっかり動かせてはいましたし、折れてはいないかと…ただ、頭を打っていないと言うのは本人からの申告でしたので、確定ではありません。素人判断ばかりでしたので、何か間違っていたらすみません」

 安西先生は一瞬だけ、少し驚いた様に目を見開いた後

「いいえ、ありがとう。良く連れてきてくれたわね」

にっこりと、笑顔を浮かべた。


「久世君、よね?お話しするのは初めてだけど…なにか、転んだ人の救助の経験とかがあるの?」

「いえ、そう言う訳ではありませんが…」

「あら、そうなの?随分と落ち着いているみたいだし…頭を打ったかどうかの確認って、咄嗟に抜けがちだから。てっきり何か、そう言う経験か体験があったのかと思ったわ」

 ベットに横たわりながら、久世君と安西先生の会話をぼんやりと盗み聞く。


 安西先生の疑問は、そのまま私が感じたものそのままだった。

 手慣れた、という表現もおかしなものなのだけれど。妙に落ち着いているというか…とにかく一片の動揺すら垣間見えないその様は、確かに。なにかしら、こうした経験が豊富なのかしら、と思わずにはいられなかった。

「転倒者対応は中学時代の防災訓練の際学んだ程度の、聞き齧りの知識です。多少なり役立てる事が出来たので、当時の自分には頭が上がらない思いです」

 …少し、予想外だった。

 確かに私も中学時代、そんな事を学んだ様な記憶がないでもない。…話題が上がったこの瞬間まで忘れていたあたり、役に立つ知識として身に付いてなどはいなかった模様ではあるのだけど。けれど正直、その事について恥じる気持ちというのはそれほど無い。というより、ああした知識をしっかりと身に付けて、必要な場面で活用できる人の方が余程稀だと思う。…自己弁護じゃないけれど。

 久世君が…これはもう本当に失礼極まりない印象なのだけど…そうした講習の内容を正しく記憶していた事に対して、まず少なくない驚きがあって。その上で、あんな…言ってしまえば非日常的な状況下で、手元の知識を正しく活用できたという事実には、正直舌を巻く思いだった。

 …それと、もう一つ。これもえらく失礼な感想である事は間違い無いのだけれど。

「——」

「……どうされましたか?」

 安西先生が、ふと押し黙る。その姿に、久世君が疑念をぶつける。

「いいえ、大したことではないのだけど…なんだか随分、印象が違うなぁと思って」

「印象、ですか」

 ええ、と。安西先生がどこか、嬉しそうに頷いてみせる。

「とても丁寧で、穏やかな人なのね。失礼に聞こえてしまったらごめんね」

 

 それは、私が感じた印象と全く同じものだった。



———


 久世君に纏わる、いくつかの噂話。それらの殆どが、決して聞いていて気持ちの良いものでは無く…それらが真実に基づいているとすれば確かに、その話の主たる人物と率先して関わろうなどとは到底思えないというのが本音だった。そしてこれは、私自身が恥ずべきことなのだけれど…そうした噂話に引っ張られる形で、久世君に対して歪んだ印象を抱いていた事は間違いなかった。


 ……なんて、恥知らずなのだろう。


 布団にくるまりながら、愚かしくもまたしても、涙腺が緩む感覚に苛まれる。ちゃんと話した事もない、どんな人なのかもまるっきり知らない彼に対して、真偽の程すら不明瞭な噂話を鵜呑みにして、偏見めいた悪感情を抱く。それは本当に、心底恥ずべき行いでしかなかった。


———


「…どうでしょうか。それほど言って頂く程のものではないと思います」


 謙遜、というわけでもないらしい。本心を包み隠さない、実直で誠実な響きを有した言葉はそれ故に、ひどく控え目なものだった。それは、彼に抱いていた間違いだらけの心象とは大きくかけ離れ…同時に、彼の見た目ともやはりどこか食い違って思えるものだった。


「では、自分はそろそろ行きます」

「えぇ、そうね。改めて本当にありがとう」

 本来。感謝の言葉を真っ先に述べなければならないのは、間違いなくこの私なのだけど。ごった煮になった感情を未だ整理しきれぬまま、言葉は全く思った通りには紡がれず。これもまた、助けてもらった身としては余りにも不適切な沈黙を形取る吐息ばかりが口を吐く。勿論、そんな私の様子に久世君が気付くはずもない。


 最後に一言。


「自分がいう話でも、勿論ないのですが…八木の事をよろしくおねがいします」


 最後の最後まで。配慮ばかりが色濃く滲む言葉を残して、久世君は保健室を後にした。

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