承.八木詩葉
『舞台の少女』と『少年』
軽い衝撃を感じた、次の瞬間。普段感じる事のない浮遊感を覚える。まるでこの一瞬の間に地面が溶け落ちた様な、突然の感覚。けれど、そんな悠長な非現実感は瞬く間に終わり。次の瞬間にはさっきとは比べものにならない衝撃が襲いかかってきた。
驚いたり、怯えたり。そういう感情が顔を出したのも束の間。頭の中はたった一つの単語で埋め尽くされた。
痛い。痛い。痛い。
全身くまなく痛い。特に右足には、これまで感じた事のない様な鋭い痛みが。加えて、まるで発火したかの様な熱すら伴ったその痛みに、思わず呻き声が漏れ出す。
ほとんどパニックだった。
足は相変わらず焼け付く様に熱を帯びてるのに、全身からはどんどん冷や汗が噴き出してくる。経験した事のない痛みと、そこからくる心細さとで、思わず涙がこぼれる。
誰かに助けを求めようと思うのだけれど、痛みのせいなのか、思った様に声が出ない。体を動かそうにもうまく立ち上がれない。もうどうすればいいのかまるでわからず、ただボロボロとあふれる涙を止めることさえ出来なかった。
学校にはまだたくさん人が居るはず。だけどここには誰もいない。絶え間ない痛みの中で、まるで世界で私一人きりなってしまった様などうしようもない不安感に押し潰されそうになっていた、その時。
「八木!!!!」
大きな足音と、それにも負けないくらい大きな声で。駆け寄ってきた人がいた。
続く痛みの中。知らぬ間に固く瞑っていた目を開くと、そこには見知った男の子の姿があった。私は、その人を知っていた。
同じクラスの男の子。私は彼を、一方的に知っていた。
入学した直後。友達の速音から聞かされた、不穏な噂話。中学時代に彼が起こしたという問題。
本当か嘘かわからない噂話で人の事を決めつける様な真似はしたくなかったけど。その噂話が本当だったとしたら、やっぱり関わるのは少し怖い。それは間違い無く本音だった。とはいえそもそも、彼とはそれまで一度も話す機会もなかったから、気にしていなかったというのが本当のところだった。
彼は、とても物静かな人だった。彼がクラスの人と話したり、笑いあったりしているところを私は見たことがなかった。
あまり、人に興味がない人。
久世君に対しての私の印象というのは、精々そんな程度だった。
——だから。本当に失礼な話なのだけど、正直驚いた。当の本人である私と同じくらい…もしかしたらそれ以上に動揺する、彼の様子に。
散らばったチラシと、倒れ込んで呻く私の姿とを交互に見やった後、ガバッと振り返り階段の頂上を睨み付ける。その顔から、サッと血の気が引いていく。
「——落ちたのか、あそこから」
呟くと、再び視線をこちらへと向ける。
「喋れるか?しんどかったら無理しなくて大丈夫だから」
口調はぶきっらぼうだったけれど、その声色はとても優しいものだった。それが、私を落ち着かせる為のものだと理解出来る位に落ち着くまで、彼はジッと待ってくれていた。パニック状態だった頭が段々と落ち着いてきた頃合いで、喋れる事を伝えるために一度小さく頷く。そんな私の動作を確認してからら、より一層柔らかい声色で
「どこを打ったかわかるか?どこが痛む?」
尋ねてくる。
「……みぎ、あし」
余裕は全然ないけれど、それでも何とか絞り出す。その言葉を聞き終えるや、久世君が私の右足へと体ごと移動する。
「動かせるか?」
尋ねられ、もがく。すると、激しい痛みこそあるものの、足自体は問題なく動く事がわかる。
「すまん、少し触るぞ」
言うや、久世君が靴下を脱がせてくる。感覚が過敏になっているのか、衣擦れにすら痛みを感じ、思わず身を強張らせてしまった。同級生の男子に素足を触られる事に対しての恥じらいなど感じる余裕もなく、されるがまま身を任せる。しばらく足を観察してから、久世君が再び私の正面に移動し、膝をつく。
「頭は打ってないか?気持ち悪いとかは?」
「うっ、てない。痛いけど、へーき…」
咄嗟に頭を庇ったのは、多分反射だったのだと思う。打ち所が良かった、だなんていうと少し違和感を覚える表現になってはしまうけれど。少なくとも意識が混濁したりといった、自覚出来るだけの重篤な感覚というものはなかった。
「そうか」
久世君の顔が…ついさっきまでの緊迫したものから、柔らかく緩む。けれどそれも束の間、再びぱっと表情を引き締める。
「支えたら動ける、って感じじゃなさそうか?」
言いながら、自らの肩の位置を下げ、私の手が届く位置へ。気恥ずかしさよりも申し訳なさ、それを塗りつぶす程度の余裕のなさから。やはり促されるまま、その肩を掴み、立ちあがろうと試みる。けれど
「——っ!」
力を入れた途端、再び強烈な痛みに苛まれ、思わず倒れ込みそうになったところを、伸ばされた久世君の腕で支えられる。
「大丈夫、無理すんな」
声を。それから少しだけ考える様子を見せて…なぜだか少しだけ申し訳なさそうに、久世君が、控えめに問いかけてくる。
「八木が嫌じゃなかったら、保健室まで運ぼうと思う。もし信用ならなければ、少しだけ待っててくれれば誰かしら教師を呼んでくる。どっちがいい?」
ほぼほぼ話したこともない私に対して、過剰とすら思えてしまうほどに気を遣ってくれているのは明らかだった。痛みによる余裕のなさもあって、思わず肩を掴んだままになっていた手に力が入る。
「わかった」
本当は、誰かしら先生を呼んでもらった方が良かったと思う。けれど、この痛みの中。再び一人この踊り場に取り残されてしまう事が…高校生にもなって恥ずかしい話ではあるのだけれど、酷く怖いと感じてしまった。
そんな子供じみた私の恐怖心を多分、とても正確に感じ取ってくれてしまったのだと思う。久世君はそれ以上なにかを言うでもなく、器用に私の体を支え、自らの背中に背負い込んだ。
———
歩みは、決して早くなかった。
急足であるのは間違いがなかったけれど。背負われる私の体が極力揺れない様に、細心の注意を払っているのは明らかだった。慎重に、慎重に。階段を降り、廊下を進んでいく。
痛みが劇的に引いた訳でもなかったけれど。それでも、そんな久世君の配慮のお陰か。思考にも若干の余裕が生まれる。
「……チラシ」
完全な独り言。次回の公演の告知用チラシをばら撒いたままにしていた事を思い出して、思わず口を突いた一言だった。
「あー、散らばってたフライヤーか。何処に運ぶ予定だったんだ?」
「…部室。刷り上がったからって、今日…」
「わかった。後で運んどく」
多分。突然の出来事と、その結果としての怪我の痛みから、心自体も弱っていたのだと思う。
先程まではパニック状態で理解ができていなかったけれど…足を滑らせた訳じゃなくて、確実に誰かに押されて、私は階段から落ちた。たまたまなのか、それとも私に対して確かな悪意を持っての事なのかまではわからないけれど。もしこれが悪意だったとしたらと考えると、どうしようも無い恐怖が胸の奥から迫り上がってくる。
怯えと、痛みと、心細さ。そんなタイミングで掛けられた、久世君の言葉に。淡い安堵と、迷惑を掛けている事に対しての申し訳なさ…そんな自分自身に対してのどうしようもない不甲斐なさから…思わず涙が溢れた。
「どうした、しんどいか?」
慌てた様子で久世君がこちらの身を案じる。こんな涙は迷惑を掛けるばかりだとわかっていながら。けれど、堰を切ったように溢れるそれを止める事が出来ず。
「ご、ごめん、なんでもない、から」
辛うじて口にした言葉も。嗚咽混じりで不恰好な、余りにもひどいものだった。
「そうか。けど、もししんどくなったらすぐに言ってくれ」
久世君の背丈は、多分私とそれ程変わらない。見た目でも分かるほどに体格が良いと言う訳でもない。それでも。恐らく決して広い訳でもないのだろうその背中が随分と大きく感じられたのは。やはり、私の心が弱っていたからなのだろうか。
「…ごめんね、迷惑掛けて」
どうしても謝らなければ。現在進行形で迷惑を掛け続けている立場で、こんな言葉を口にしてもしょうがないとはわかりながら。それでも、口にせずにはいられなかった。
我ながら卑怯だと思ったのは。こんな事を言えば、きっとこの人はそれを否定してくれるのだろうと言う打算が、少なからず自分の中にあった事。
自己満足の域を出ない謝罪。弱った自分を振り翳しながら、言い訳を押し通す様な言葉に、言った端から自己嫌悪に陥る。
「迷惑…では別にないな」
そしてやはり。彼は、そんな卑怯な私の予想通りの言葉を口にした。ただ、その口調は少し予想外だった。
安心させる為の即答や、不安を払拭する為に事前に準備された…そうした響きが、彼の回答には含まれていなかった。代わりにあったのは、自分の中の考えを丁寧に確かめる様な少しばかりの、間。
「なにがあったかはわからんけど…誰が居合わせても、あの状況だったらこうするだろ。今回たまたま俺が鉢合わせたってだけの話だ。だから、なにも迷惑なんて思う必要ない」
——そう、だろうか。言葉に、ぼんやりと想像する。
確かに。多分きっと、声を掛ける事はすると思う。何かまずい事があったのだろうと、先生を呼ぶ程度の事はすると思う。だけど果たして、久世君が私に今してくれている全部を同じ様に、見知らぬ誰かの為に出来るかと問われれば…正直、わからない。
止むに止まれず。他の選択肢に思い至らず。そう言う状況下ですらきっと迷って、動揺して、混乱して…そうした果てにようやくどうにか行動を起こせる。いいとこ、きっとそんな位のものでしかないのではないだろうかと思ってしまう。
見ず知らずの誰か。何が起きたのか、まるでわからない状況。そんな中で迷い無く、助けになろうと行動出来るだろうか。
彼は多分、一瞬も迷わなかった。
一瞬も迷わず、一歩も躊躇わず。面識すらない私の身を、最初からずっと…そして今もなお気遣い続けてくれている。
こんな人が居るのか。和らいでなお続く痛みの中で、私は不思議な衝撃を心に感じていた。
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