転.久世阿儀人—八木詩葉

『それでも』

 思い通りにならない事柄に苛立つ事も、うまくいかない何某かに憤る事も。最後にそうした諸々へ思い悩んだのは、果たして一体いつだったろうか。懸命に記憶を掘り起こして思い返そうと試みるものの、全く皆目思い当たらない辺り。本当に長い年月に渡って、そんな無頓着さを振り翳しながら自身は日々を過ごしていたらしい。

 では、振り返って。その理由が何なのかと考えてみれば、こちらは打って変わり酷く容易くその源流へと辿り着く。結局の所、久世阿儀人は何一つに対しても期待する事も、希望を抱く事もしていなかったのだ。


 人は一人では生きられない。まるで使い古された歌詞みたいに陳腐なその言葉はけれど、まぁ概ねその通りだと思う。誰も彼もが自分にないもの…その裁量を超えた了見に対して、他の誰かの手を借りる。それ自体が間違ってるだなんて事は断じて思いやしないけれど。そうして人の手を借りる事に抵抗がないというのは、それだけで酷く恵まれているのだと思う。

 思い通りにならない如何なるも。どうにも出来ない不条理も。それらは総じて身から出た錆に他ならず、その尻拭いを他の誰かに託すなんていうのは、これはもう烏滸がましいにも程がある。

 なればこそ。この身は誰かの役に立たなければならない。己の手の届く範疇で担える役割は全うしなければいけない。自己犠牲なんて大層なものじゃない。強迫観念と呼ぶ程追い詰められた話でもない。ただ、そうあるべきなのだと、怨嗟と呪詛の只中の様な今日までの渦中、ひっそりと己に課したに過ぎない。

 結局のところ。俺が誰かの為にやろうとする事、それら皆々一切合切は自己満足にすら程遠いものだった。誰かを想って何かを成し遂げようだなんて思ったこともないし、そもそもこの身にそんな想いを抱く権利なんてのは初めから存在しない。


 そう、永く思っていた。


 目の前に少女がいる。泣き出す寸前の様な切迫した感情を押し殺しながら、強がりが透けて見える笑みを浮かべ、こちらを真っ直ぐに見据える少女。

 八木詩葉の事を、俺は何も知らない。彼女がどんなこれまでを歩んできて、今何を想って俺の前に立っているのか。思い浮かぶ様々な理由や根拠はとどのつまり、憶測の域を出る事はないし、それらの推察が正しいと断ずるに足る裏付けなどどこにもない。彼女の向ける善意が、薄汚い詭弁で偽善などでは無いと、証明する術はどこにもないのだ。




 ———だったら、なんだってんだ。




「……ちょっと」

「……なんでしょう」

 八木の表情が、怪訝に曇る。但しそれは心底からの遠忌ではなく、あくまでこちらの様子に対してのポーズという側面が強い。

「なにかおかしな事言いましたか?私」

 場面としてはそぐわない。甚だ失礼に過ぎる。そうとはわかっていながら、それでも。口の端に滲むその感情を、いまいち殺しきれないまま、口角が緩む。

「おかしな事は…言ってると思うが」


 根拠も、理由も。信じるに足る何かなんてどこにもありはしない。それは確かに、けれども間違い無くお互い様な話なのだ。

 久世阿儀人が八木詩葉の善性に確信を持てるだけの何かがどこにもない様に。八木詩葉が久世阿儀人を信じるに足る理由など、やはりどこにもありはしない。


『それでも』。


 久世阿儀人を疑わないと明確に言葉にした彼女が不幸に啄まれる様を見たくないと。今初めて心底から思った。

 それは確かに、身の程には到底釣り合わない、烏滸がましいにも限度があろう思いだろう。それでも。


 心の根の底でどう思っているかなんて定かじゃない。そんな事は百も承知で、それでも俺の無実を…俺を信じているらしい目の前の人間から向けられる言葉に応えたいと思った。それが希望や期待だなんて、無頓着なまでに前向きなものなのかは判然としないが、『それでも』。


「…全く、酷い審美眼だこって。怪しい連中に騙くらかされんか心配で仕方ねぇよ」

「急激な悪口」

 いやいや本当に。心の底からそう思う。だから尚の事…証明してやらねばならないと、身の丈にも合わずに思う。

「…まぁ、もう少し気張ってみてもいいかもな」

「何の話?」

「八木の目が節穴じゃ無いってのを証明しないとなって話だよ」


 八木詩葉を、俺は知らない。

 それでも。八木詩葉が悪い奴じゃないって事はもう知ってしまっている。

 八木の為に、だなんて押し付けがましい理由付けをするつもりはない。だから結局は独りよがりに過ぎない事は百も承知で、それでも。俺自身が選び取る選択として、彼女の目に狂いがなかったと。程度問題だとしても、証左を示したいと思った。


「…やっぱり悪口に聞こえるんだけど、気のせい?」

「そらもう、そんなわけ無い。リスペクトに絶えないところだよ」

「絶妙な言い回しするなぁ」

 腑に落ちない様子である。そんな様子に若干の和やかさを感じながら…こんな所で無為に時間を潰させるのも気兼ねするばかりだ。

「部室」

「うん?」

「戻った方がいいだろ。例の…犯人探しのくだりは、まぁまた明日にでもって事で」

 と。八木が僅か、逡巡を巡らせる。はて、と首を傾げる。何をかまだ、言い残した事でもあるのだろうか。


「あのさ」

「ん」

「いっしょに帰ろ」

「なんて?」


 なんで?

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