部室.6…退室

「竜胆!!」

 焦燥と切迫を同時に孕んだ、いっそ怒声に近しい響きの声。村瀬が放った言葉が木霊する室内はしかし、響き渡ったその声とは対照的に、まるで水を打った様な沈黙の底にあった。室内の顔ぶれ、その表情は一様に暗く。おしなべて湿度の高い不快感を示していた。

「なんだよ。いきなりでかい声出すなよ、部長さん」

 竜胆と呼ばれた男子生徒に悪びれた様子は一切ない。どころか、村瀬の声色にこそ明確な不快感を感じたらしく…また、それを一片もひた隠す事なく、眉を顰める。


 ——柴家竜胆しばやりんどう。三年生にして…演劇部の正統なエース。

 ほぼ全ての舞台において主演を果たし、その外見的美貌と存在感を以て自らを誇示する。八木詩葉が期待の新星ならば、彼こそ正しく舞台上の一等星。…但しその輝きには、些か歪さが紛れ込んでいる。

「間違った事言ってねーだろ。こいつあれでしょ、クゼアギト。中学で同じクラスの女殺したって奴」

 その圧倒的な存在感は部活動の範疇には到底留まらず。プライベートではモデル…果ては現在俳優業にまで手を出しているらしい。そんな彼にはしかし、学生らしからぬ黒い噂が付き纏っていた。

 それらが真実か。それとも周囲のやっかみから自然発生的に流布された風説なのかはわからない。ただ、実際当人と直接対峙した印象だけでことを語るならば。言いふらされている幾つかの話は少なからず、噂とは言い切れないのではないかと邪推してしまう。…人を初対面の印象だけで語るなどというのは、些か失礼極まりないだろうが。

「な、そうだろ?間違ってないよな、俺」

「柴家、いい加減にしとけよ」

 久世阿儀人に対して、確たる嫌悪の念を抱きながら、それでも。柴家の言葉を遮る辺り、飯村の人間性というのはほとほと惚れ惚れする程に出来たものであるらしい。

 そんな飯村を、軽薄さはそのままに…しかし一層嘲笑の色味の濃い薄ら笑いで見下しながら、柴家が首を傾げて見せる。

「善人アピしてる暇あるんなら練習しとけよ、三流。ってか、どの口で俺に意見してんの?善吾」

 飯村の顔に、僅かな赤味が差す。明確な侮辱に対する恥辱と怒り。そんな、向けられた感情は意にも介さず、柴家が再び視線をこちらへと向ける。

「詩ちゃん突き落としたのもこいつなんでしょ?なんのつもりか知らねーけど、一体どの面下げて入り込んできたんだか。なに?なんか弱みでも握られたの?」

ぱっ、と。柴家の視線が八木へと向かう。

 八木の顔には、明らかな動揺が見えた。知り合ってから今までで、初めて目にする類のその表情に…咄嗟に、マズイと思った。


「すみません」


 立ち上がり、深々と腰を折る。八木へと向けられた矛先を己の手元に戻す為、殊更にはっきりとした口振りで言葉を。

 言葉こそ僅か以上に荒いものの、彼からしてみれば久世阿儀人は自身の後輩を負傷させた可能性が極めて高い筆頭容疑者。不審感を募らせ、言葉尻が乱暴になるのも致し方ないだろう。そんな彼を納得せしめるだけの弁明なぞ持ち合わせている訳もなく。出来ることといえば、与えてしまった不審と不快について誠意をもって謝罪する程度のものだろう。


 ただ。流れ弾であれ、その矛先の一片ですら八木に向かうことなどあってはならない。


「自分が見学を申し出て…無理を言ってお邪魔してしまってすみません」

「はは、面白。凄いねお前、どんな神経してんだよ」

 柴家が心底侮蔑の意を前面に押し出しながら、笑う。乾いた笑い声が数秒、沈黙に押し込められた部室を漂った後。

「ま、とりあえず帰りなよ。犯罪者と同じ空気、気分悪くて吸えないし。な?帰れ帰れ」

 手で害虫を追い払うような仕草をしながら、柴家が話を断ち切ってくる。取り付く島はなさそうだ。

 

 ——潮時か。

 欲を言えばもう少しばかり探りを入れておきたかったが、周囲の人間からの不審感にも火がついてしまった現状、これ以上深追いしたとて得られるものが在るとも考えにくい。


 手早く荷物を纏める。

 ふと、そんなこちらの様子を見つめる八木の姿が視界に入る。

 何か言葉を探しながら、口には出せず。これまで見たことがない程に狼狽の色濃いその姿に…申し訳なさばかりが前に出る。


 柴家の言葉に、間違っている部分は何一つない。嫌疑にしろ嫌悪にしろ、由来の所在は確定的ではないものの。彼の立場にあって、久世阿儀人排斥を目論むことはあまりに自然な心理の動向。そして…ここまで奇跡的に表立って誰も彼もが口にしなかったそれらの実態を白日の元に晒されて、押し殺していた疑惑の芽が開く事も、また同じく。

 だから。八木がなにか、ここまでの一連の流れにおいてほんの僅かでも心を痛める必要なんてまるで無い。

 本当は、本人にそう伝えることができれば一番良いのだけれど。いかんせんこの状況下においては、それすら余剰。それでなくとも最悪なこの場の空気を、更に陰惨な物へと変えかねない。


 故に、黙する。

 弁明も弁解の言葉も持ち合わせない以上、俺に残された出来ることなぞ、ただ押し黙ったままこの部屋から出ていく事くらいだろう。


「失礼します」

 出来るだけ深く頭を下げて、退室する。その刹那

「はいはい、二度と来んなよ」

薄ら笑いと共に投げつけられた言葉に、タイミングをミスったかもなぁとぼんやり思う。



 ぴしゃりと閉ざされた扉。

 僅かばかり一つ、軽く息を吐いて。その扉に背を向けて歩き出す。取り残してしまった八木への申し訳なさはそのままに、けれど今この身に出来る何かがあるでもなし。最後にもう一度扉に向けて…その向こうにあるであろう姿に向けて頭を下げて、その場を後にした。

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