部室.5…墜落

 その違和感には、実際のところかなり早い段階で気付いていた。八木詩葉から本来向けられるべき、久世阿儀人に対しての嫌疑や嫌悪…悪感情の欠落。

 繰り返しにはなるが、真偽の程を確かめる術はない。人の心の全てを知る事などは土台無理な話であるし、つい先日まで赤の他人であった人間の本心など到底知る由もない。その上で、悪感情をまるで感じ取れない相手というのは、感覚的に極めて珍しい。…というより、ここ数年では初めてではないだろうか。

 無知故に恐れ知らず。汚れを知らぬが為に泥濘に進む。初め、八木詩葉の無頓着の源流は、そうした…取り立てるほど必要ではない…見識の欠如だと思っていた。久世阿儀人の素性が公にされているとは言え、全校生徒満遍なく情報が行き届いている訳でもないだろう。可能性としては十分あり得る。

 だが、日野速音は久世阿儀人を認知していた。親交の深いであろう彼女が把握している話を、八木が全く把握していないというのもそれはそれで考えにくい。

 つまり、八木は知っている。久世阿儀人に纏わる素性の話。自身が交流を持とうとしている男が、如何に忌諱すべき異様の渦中にある存在かと言う事を。


 『嘘』の気配は、それを吐き出した人間の全ての挙動、言動、所作に滲み出す。そうした、漏れ出した負の感情を感知する感覚が鋭敏であると、僅かながらの自負は確かにある。けれども結局、遂に今日まで…どころか今この場に至って尚。彼女から、そうした澱みを受け取る事はないままだった。


「………」

 信頼や信用の類ならば、あり得ない。そんな感覚を抱くだけの時間の共有は双方に存在していないし、そもそもそれらの種子となる事柄すら欠落している。接点は僅かばかり。出発点は不測の渦中。相対するは、想定される筆頭容疑者。彼女自身が犯人の素性を知り得ぬ以上、その事実は揺るがない。


 であれば、何故。八木詩葉は久世阿儀人を疑わない。


「……」

 八木詩葉の為に、だなんて大それた動機ではなかった。結果として、事を円満に収める可能性を有していたが故、特段に必要ともされていないと承知で首を突っ込んでいるに過ぎない。だからこそ、だったのだろうか。俺は結局ここに至るまで…本来一番初めに俎上に載せるべき思考を放置し続けてきていた。つまり。八木詩葉とは、何者なのか。


 八木へと視線を。澱みなく紡がれる村瀬の言葉に聞き入りながら、その真偽を見定めようと頭を悩ませているのが傍目でもわかる。その熱中ぶりがなんだか少しばかり可笑しくて。


「!」


 八木がこちらの様子に気付き、目を丸くする。いかんと、ぴしゃりと頬を叩いて村瀬へと視線を戻す。こちらに悪意がないとは言え、人の顔を見て笑うなど失礼千万極まりない。こんなよく分からんタイミングで気分を害してもつまらない。

「………」

 ……メチャクチャ視線を感じる。全く迂闊な動きを見せてしまったものである。


「そこまで!では続いて、グループ内で順番を決めて質問をはじめてください」


 ……迂闊、と言えば。よくよく思い返せばそれもまた、今に始まった事ではない様に思う。八木と初めて会話を交わしたあの日から今日まで。その端々において、迂闊で不用意で不必要な言動を繰り返していた気がする。

 まだずっと幼かった時分ならば露知らず。嫌というほど自身を取り巻く世界の不穏当を思い知った果ての今にあって。こんな迂闊さを露呈するなど、もう随分と無かった事だ。

 理由に思い至る事などない。そもそも八木について何一つ正しく知らない以上、その内心を推し量るは困難を極める。そもそも彼女がそこまで何か深い意図を持って俺と交流しているとも考え難い。ならば考えるべきはきっと自身の中。思い悩むべき何かは、自らの内にあるのだろう。


 …馬鹿馬鹿しい。

 己の心の内について思い悩む事こそ愚の骨頂。それこそ全く余分で迂闊も甚だしい。そんな物の為に割くだけの思考など有りはしないだろう。そんな当たり前こそ失念するなど、いよいよ本当にどうかしている。


「……じゃ、次久世君。質問をどうぞ」

 〝回答者〟村瀬に促されるまま、適当な質問をぶつける。正直解答自体は既にわかっている為、この質問は全くおざなりなものであった。とは言えそんなこちらの気配に気付くものがある訳でもなく。つつがなく、質疑応答は終了し、答え合わせの時間を迎える。

 各々思い思いの解答を口にする中。思考は尚一層混迷を極めていた。故に。

「それじゃあ、久世君。解答を」

「嘘で」

 迷いなく即答を。これもまた迂闊な言葉だったと、言った端から後悔の念が押し寄せる。


「随分迷いなく言い切るね。因みに、根拠はなにかな?」

 村瀬本人を含めた、周囲の視線がこちらへと集中する。堪らず、はぐらかす様に頭を掻いてみせる。

「いや、すみません。なんとなく…」

…まぁ、これもまた嘘なのだが。ただ、馬鹿正直に根拠の実体を口にする必要性もないだろう。寧ろそれは、要らぬ不審を招く火種にすらなり得るだろうし。

 結局。村瀬の言葉を『嘘』と断じたのは久世阿儀人ただ一人であった。それほどに、彼女の語る言葉には真実味があり、疑念を挟み込む余地などまるでなかった。


 そう、皆には見えたのだろう。


「いや、本当に。なんで嘘だって感じたんだい?正直、少しばかりショックだよ」


 真実は、偽。

 言葉の通り、少なからず悔しそうな表情を浮かべる村瀬に対して、若干の申し訳なさを覚える。

 彼女の〝演技〟に不自然な点はなかった。極めて自然に、至って普通に。自らの嫌悪とその理由を語ってみせた彼女はやはり、素人考えでも演技巧者なのだと思う。そもそも、その応対それだけを掻い摘んで見たならば、俺にもその真偽は分からなかったはずだ。

 但し、それは表面上。自らの管轄の外、無意識下の所作を御する事は並大抵の話ではなく。そこに気付いてしまえば、吐き出された言葉に潜む嘘を炙り出す事は存外容易い。

 特に今回は純粋な演技ではなく、嘘をつくことが義務付けられた〝ゲーム〟。であるならば、容易。演者としては評価の俎上に上りもしないこの身はしかし、嘘つきとしては筋金入りなのだから。


「思った以上に見る目があるんだね。これはちょっと、翻って自身の所作も見直さなければいけないかなぁ」

 割合真剣に唸るその姿に、適当に「そんな事はないです」とも言えず。ひたすらに、自らの迂闊な解答を悔やむばかりである。


「そうなんですよ、見る目があるんですよ」

 …?

 したり顔で八木が言葉を。何故お前が言うんだ。

 この場面での八木詩葉介入は村瀬も想定していなかったらしく、一瞬僅かに驚いた風に目を丸くした。ただ、それも僅かな間。おかしそうに笑みを浮かべながら、それに同調する。

「なるほど確かに、そうだね。けど、こんな目利きが身近にいるのなら、もっと早く連れてきてくれればよかったのに。一体どうして今日までひた隠しにしていたんだか」

 隠すも何も、八木が俺について何かを知っているなんて事はまるでない。見当違いも甚だしい村瀬の言葉にしかし、八木は尚臆する事なくドヤ顔をひけらかす。

「秘蔵っ子でして」

…子って歳でもねーんだよなぁ。というかどさくさ紛れて自分の内輪みたいに俺の事を語っているが、いよいよ一体どんな胆力なんだ。…やはり何も考えてなどいないのか?


「それじゃ、今度はその秘蔵っ子の実力も見せてもらおうかな。次の〝回答者〟、いけるかい?」

 …断るのも今更おかしく感じられる。かつ、この流れではその内に必ず手番が回ってきそうな気配でもある。ここは大人しく従っておこう。そう考え、承諾の合図を出そうとした、その刹那。




 がら、と。大層大雑把に、部室の扉が開け放たれる。


 部員達の視線が音の方へと。そこには、一人の男子生徒が立っていた。


「おつかれー。何やってんの?」


 細身に長身。スラリと伸びた手足と高い腰。美観を具現化した様な、大凡一般人とは思えない美形の青年。しかし、深く印象付けられるのはその造形ではなく、その態度。


 吐いた言葉はただの一言。で、あるにも関わらず。容赦無く漏れ伝わってくるのは…不遜と軽薄。


 部室内の空気が明らかに変わる。それは、久世阿儀人が入室した際にも似た…けれど明確に性質の異なる変移。緊迫と切迫を兼ね備えた、異様とも言える空気の冷え込み方。

 ——いや、と。ほぼ即座に、よぎった思考を自ら否定する。

 変質した空気が伴う緊迫感。それは確かに、久世阿儀人入室時のものよりひりついたものだった。


「お疲れ様、竜胆りんどう。今丁度〝ゲーム〟をしていたところなんだ。よかったら参加してくれないか?」

 村瀬の言葉に、竜胆と呼ばれた生徒は恐ろしい程明確に、拒絶の意思を示す。

「なんでわざわざ俺がそんな事。するわけないでしょ」

冷徹、とすら言い表せる程に痛烈な拒否。流石の村瀬の顔にも、幾許かの狼狽が窺えた。


 と。竜胆がこちらへと視線を向けてくる。その目が僅か見開かれ…強い嫌悪に彩られる。

 先回りして挨拶をしておくべきか。考えあぐねたその刹那が不要だった。言葉を紡ぐべく口を開いた、次の瞬間




「てか、なんで人殺しが部室に居んの?こっわ」



薄ら笑いを伴った、侮蔑の言葉によって出鼻を挫かれた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る