部室.2

「あの、これ、どうぞ…」

 言葉に視線を。ともりと呼ばれた女子生徒がパイプ椅子を差し出してくる。

「ありがとうございます」

 礼を口にしながらそれを受け取る。

 村瀬とは極めて対照的な、内気そうな風体のその生徒もまた、久世阿儀人の噂話を耳にしているのだろう。酷く怯えた様子を見せるその様に、大層申し訳ない事をしているなと内心で謝罪を。その間隙で、胸元の名札を盗み見る。

「あ」

 声に出してすぐ、しまったと口を噤む。声に反応して、女子生徒…岩動灯いするぎともりが体を強張らせる。

「な、なにか…?」

 可哀想な程に萎縮するその姿に、出来うる限り柔らかな声色を心掛けながら、首を振る。

「いえ、なんでもありません。椅子、使わせていただきます」

…この子には近付かないのが吉か。急ぎ距離を取り、部室の隅にパイプ椅子を。腰を下ろしながら一息つく。そうしながら、頭の中では先程の失態について猛省を。


 岩動灯。演劇部所属の二年。

 入部当時から裏方に徹し、キャストとして舞台上に上がった形跡は確認できなかった。で、ありながら。演劇部を取り巻く界隈での彼女のネームバリューは馬鹿にできないものだった。

 彼女は昨年の夏以降。演劇部公演の舞台、そのほぼ全ての脚本を執筆している。

 そもそも中学時代から地域の作文コンクールなどでも優秀な成績を収めていた彼女の才覚は、脚本執筆という大凡独壇場とすら思える舞台の上で、一際大きく華開いた。

 緻密に作り込まれ、繊細に描かれる登場人物の心情。それらを高校演劇という人的にも時間的にも大きく制限された中でしかし、過不足なく伝え切るだけの卓越した構成。努力に裏打ちされた、これを才能と呼ばずなんと呼ぶと言うのか。

 演劇素人の目から見た時、各々の演者の技術的な差というのは実の所判然としない。勿論度を超えた大根役者の演技にでも打ち当たればその限りではないのだろうが、動画で確認した限り、そこまで素人然とした演者というのも演劇部には見受けられなかった。逆説的に、突出して優れていると感じる事それ自体が困難であるとも言える。

 翻って、物語は雄弁だ。展開、構成、演者の機微、台詞。様々な要素が複合的に、書き手の伝えようとする感情をダイレクトに投げかけてくる。

 元よりそんな才能が自身に無いことは一先ず置いておいて。たった一年先に生まれただけの同世代の人間が、あれほど精巧な物語を綴れるというのは、純粋な驚きであった。


 …事態が事態でなく、自身が自身でなかったならば。僅かばかりの興奮すら覚えていたかもしれないな、と。怯える姿にもう一度内心、深々と頭を下げて、視線をその後方…村瀬達の方へと向ける。


「さて」

 ぱんぱん、と。村瀬が手を叩く。周囲の部員達がその合図に呼応して、視線を村瀬へと。部員達の視線が自身に集まったのを確認した後、村瀬が良く通る声で号令を掛ける。

「見学者がいると言ってもやる事は変わらない訳だけど、それでも気合いは入るでしょ。公演まで日も無くなってきてるしね、今日もしっかりやろうか」

号令に、部員達も活気のある声で応える。

 部員達が、ある程度大きく体を動かせる程度の間隔を開けて円形に並ぶ。そして……徐に腕立てを始めた。……何故?


 カタタン。音に目線を。腰掛ける自身の隣に、何処からか引っ張ってきたパイプ椅子を設置し、八木がそこに座る。座り、再び耳打ちを。

「基礎練習でさ。結構ガッチリ目に筋トレするんだよ。腕立て三十回、腹筋背筋三十回、スクワット三十回」

 …想定よりもかなりガッチリ目だ。

「さらにその後グラウンド五周します」

「なんでまた」

「舞台に上がったキャストは基本ずぅっと動きっぱなしだし、マイク無しででっかい声出すし、とにかく体力無いと駄目だから。このメニューはぜったい、毎日やってるよ」

 確かに言われてみれば。舞台上の演者の運動量というのは、傍目で見ても相当なものだった。加えて構成に沿った挙動、会場に響かせる為の声量…生半な体力では話にならなそうだ。

「これに発声練習、滑舌、腹式呼吸とか…基礎練だけでも結構疲れるんだよ」

「確かに。ほぼ運動部の練習だものな…」

 相槌を打ちながら、再び視線を村瀬へと。既に思考は世間話から、名簿を基に浚った各部員の情報の反芻に回されていた。


 総数十八名の内。その殆どの生徒は…この言い方は失礼極まりないわけだが…無名の生徒ばかり。裏方として舞台を支える者から、端役として演出に彩りを持たせる者…様々ではあるが、八木詩葉の知名度などとは正直比較にならない。無論、彼・彼女らに何某かの責があるでもなし、事実としてそうであるというだけの話なのだが。ただこれにより、逆説的な話だが、演劇部の中枢を担っている部員というのはある程度限定されるのもまた事実だった。


 三年の村瀬星那むらせほしな

 演劇部の現部長にして、舞台上では常に主役級の配役を担う、正に部のエース。立体的に整った顔立ち、極めて均整のとれた学生離れしたスタイル。そうした外観を一際際立たせる、力強い演技。

 確認した公演。素人目に演者の技量差を正確に測ることなど出来ないと述べたが、二人ほど例外が存在した。そのうちの一人こそ、彼女…村瀬星那だった。

 華々しくも高らかに。いっそ雄々しさすら携える舞台上での姿は、初めから衆人環視の的である事を決定づけられているかのようにすら思えた。


 同じく三年の飯村善吾いいむらぜんご。服の上からでも見て取れる鍛え上げられた肉体。旧態依然の表現にて言い表すなら、彼こそは『男らしい』という形容が具現化したような風体であった。男性から惚れ込まれるタイプの男性、なんて表現がしっくりくるかもしれない。

 村瀬と同じく、公演の際にはキャストとして舞台上に上がる彼の姿は、ただそこにあるだけで強い存在感を周囲に放っていた。故に、演目によっては村瀬と並び立ち主役級の役を担っている姿も散見された。


 今ここにいる面子でわかり良く名が通っているであろう人物はこの位か。欲を言えばもう一人、直に確認したい三年生がいたのだが本日は生憎と不在らしい。

 入室後のやり取りを見るに、彼女らが部内の中核を担っている事は疑いようも無い。全員総当たりは念頭に入れつつ、先ずはあの二人の周囲から調べを進めるか…。


「……?」

 ふと。思考を切り、視線を横へ。隣に座る八木へと移す。急に静かになったかと思えば、彼女の表情が、あまり見たことのない色に染まっていた。

 真顔に近い表情。しかし僅かに眉間に皺、薄く結ばれた唇の端には苦々しさが滲んでいる。伴う感情を測りかね…不用意とは思いつつも、思わず声をかける。

「どうした」

「え?なにが?」

「罪でもおかしそうな顔をしてたもんで」

 一瞬キョトンとした顔をした後、ピンときた顔で自身の肩をこちらの肩へとぶつけてくる。自身の言葉を引用されるのは癪か。

「いや、さ。本当は私もあの輪の中でしっかり練習しないといけないのにな、って」

 未だ痛々しくテーピングされた右足がぴょこんと動く。その様子に…間違っているかもしれないが…なんとなく、察する。彼女の表情が示すところはすなわち…焦燥だったのだ。

「元々運動するようには心掛けてたけど、それだってこんなにしっかりやってたわけじゃないから、凄く必死にやらないとへばっちゃってたんだよね。それが、これで。体力落ちちゃうなー、って。それに何だか、頑張ってる周りの人達を見てると、頑張れてない事がしんどいというか…と、ごめん!変なこと言っちゃって」

 怪我、と明言しなかったのは、久世阿儀人への配慮なのだろう。彼女が気に病む事なんて何一つないと言うのに、全く損な性格だことで。


 自堕落の怠惰で停滞している訳ではない。やむを得ず立ち止まり休憩しているだけなのだ。それは誰かに責められる話ではないし…その原因となった者への嫌悪などはとりあえず別の話として…究極的には仕方が無いと割り切る他ない話ではある。

 ただ。情熱を傾け、時間を使い、積み上げてきた事柄に対してそう容易く割り切る事など出来ないのだろう。それもまた同じ様に、

仕方が無い話なのだと思う。

 いっそ。降り掛かる不条理の責任の一切を他者に求められれば、もう幾分楽だろうに。それすらしない事を美談として持て囃す心持ちにはならないが、けれど、それは確かに彼女の高潔さの一端を示している。


 彼女がどれだけ真摯に部活動に取り組んできたのか。詳らかに事細かく聞いた訳でもなし、その実態はわからない。だが、今彼女の表情を覆い曇らせる不安と焦燥…配役を勝ち取った事に対して見せた自負と興奮。思い入れが並々ならぬものであろう事に、疑う余地はなかった。

 そんな彼女にとって、この部室が…演劇部というコミュニティがどれだけ重要で、大事なものなのか。その只中に、邪心ばかりを携えて乗り込んでいる自身の場違いさに、眩暈を起こしそうな程の申し訳なさを感じる。本来ここは、久世阿儀人が居ていい場所では無いのだ。

「…コンディション万全に整えるのだって努力の形の一つだろ。身動き取れない歯痒さってのはあるのかもしらんが」

「部長や他の人にも同じ様な事言われた。しっかり怪我治してから復帰すればいい、って。頭ではわかってるつもりなんだけどねー…」

 積み上げてきた経験が崩れる。情熱を傾ける対象が不在である自身にはそうした体験が無い。故に想像は、実像と結びつかない夢想の域に留まる。

 ただ一人。修行僧の様に自身の技術の研鑽、練磨ばかりを目指しているのであれば、これはきっと大した話でも無いのだろう。目指すべきはひたすら理想の自身、比較対象不在のまま黙々と修練に励む。立ち止まろうが休もうが、期限の果てすら自身の中にしかないのであれば、そうした障害すら瑣末な物と切り捨てられるのかもしれない。

 だが。大凡の事柄は他者との比較、何らかの理由による時間的制約の只中に存在する。自身が立ち止まっているその時間、途切れる事なく歩みを進める他人は厳然と存在し、同じ目標を見据える限り、そんな各々の事情などには目もくれず他方からの評価は下され続ける。


 …焦るなって方が無理な話だ。彼女の焦燥には確かな理由があって、その原因に思い悩む事を止める術なんてものはどこにもないだろう。


 ただ、それでも。



「…焦る必要ないだろうに」



「え?」

 溢れた言葉に驚いたのは、八木だけではなかった。思わず口にした自分自身、自らの発言に…と言うより、ほぼ無意識で漏れ出してしまった主観に、驚きを隠せずに狼狽える。

「いや、ごめん。知りもしないのに勝手な事言った、申し訳ない」

 八木に怒りの気配は無い。その代わり、本当に純粋な疑念を口にする。

「…なんでそう思うの?」

 そらそうだ。知り合い未満、風の噂が知識の大部分な双方の関係性にあって、こんなにも無根拠かつ無責任な言葉は他にない。理由を問いただされる理由は十二分。問題があるとすれば、明確な回答が己の中にもないと言う一点。言葉は咄嗟に溢れた物で、理由付けは未だ終わっていなかった。呆れる浅薄加減に頭を抱えつつ、吐いた言葉に対しての責任を果たす意味も込めて、やむを得ず心境の推敲を。

「…俺の主観、だけど」

「うん」

「自分じゃどうにもならん事で、自分が続けてきた努力に水を刺されて…俺が今の八木さんの立場だったら、腐って不貞腐れてたと思う。蹴つまずいた途端、まるで今までの努力も全部無駄だったみたいな気分で勝手に落ち込んで、投げやりになって」

 それは、余りに容易く想像出来る代物…そんな表現すら実際には控えめな、現実に過去経験のある下らない顛末。一度限りの失敗が、まるでこの世の終わりかの様な絶望感で塗り潰される。積み上げてきたそれまでが丸ごと無駄であったかの様な、取り返しのつかない虚無感。そんな中で膝を着き項垂れるのがどれだけ容易く…また、楽であるかも。自身は、よく知っていた。


 だが。彼女は違った。


「俺たちが入室した時。飯村先輩含めて、部員の中に八木さんが来た事に驚いた様子を見せた人は誰もいなかった。怪我してからも多分、毎日部活には顔出してたんだろ。そんだけ熱量を持って取り組んでる人間の努力が、怪我で暫く休んだくらいで駄目になるとは、俺は思わない。そういう意味での大丈夫、って事だったんだが…ごめん、どちら道無責任な言葉には変わりないな」

 言葉の浅はかさに申し訳なさが先に立つ。不明瞭な心の内を抱えたまま吐き出した言葉。その指し示すところは結局、初めの断り通り徹頭徹尾単なる主観に過ぎなかった。

「……」

 八木からのリアクションはない。見れば丸々と目を見開いたまま、口は半開き。言っちゃ悪いが、なんとも間の抜けた表情である。

「……久世君って」

「ん」

「……めちゃめちゃアツい人だったりする?」

「………」

 底意地の悪い笑みを浮かべながら、がすがすと肩に体当たりをかまされる。何とも居心地の悪い事この上ない。だが、それも束の間。

「冗談、冗談!…でも、アツい言葉だなってのは本当だよ。あ、変な意味じゃなくてね」

憑き物の落ちた様な穏やかな微笑みを口の端に浮かべながら。ほんの少しばかり気恥ずかしそうな様子で、しかしそれでも。

「…他人ひとから面と向かって、頑張ってる事を頑張ってるって言われる機会、正直そんなに多くないから…ちょっと嬉しかったし、すごい勇気出た。ありがとね、久世君」

真っ直ぐな感謝を、口にした。




 そう。この直向きな人間の積み重ねが、不条理に食い潰されて良いわけがない。そんなバカな話がまかり通ってたまるものか。



「……そりゃ、良ぉござんした」

 感謝に、おどけた返答を。真面目に取り合って誠意を返すには、彼女からの感謝は実直すぎる。嘘まみれの自分の中には、その真摯さに応えられるだけの言葉が、どうしても見つけられなかった。

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