道すがら—八木詩葉と久世阿儀人
勉学に勤しみ励む、などと大仰で殊勝な心持ちではなかったとして。それでも学生等にとって大凡一日の終わりというのは、おしなべて心晴れやかなものである場合が殆どではないだろうか。
部活動に精を出すもよし。急ぎ家路を辿り、その後に怠惰を貪ってもいいだろう。或いは受験が迫り来る時分であるなら、それこそ勉学に注力するも有りだ。とにかく。選択肢は様々あれど、学校という学びの檻に押し込められた学生諸兄が、謳歌する事を許された細やかな自由の時。そんな放課後を待ち侘びない者といのも、そうそうないのではないだろうか。
かく言う自分も多分に漏れず。常ならば、閉塞の沼地に沈むが如き閉鎖の檻から、僅かばかり解き放たれるその時間を心待ちにしている一派の一人である。心血を注ぐ何某か等到底持ち得ぬ身としては無論、ただ堕落に染まって惰眠を貪るのが関の山だったとしても、だ。…ただし、この表現には本日、不要な枕詞が付け加えられる。詰まるところ、[常ならば]。
「さぁ!放課後ですぜ、久世のお兄さん!」
言葉の端々に甘い響きを有しながら、さりとて弱々しさなどは微塵も混じらぬ、打つ鐘の音の様によく通る声。それが指し示す人物の意外さに、昨日に引き続き周囲の生徒連中が俄かにざわつく。
一端が水に触れた紙切れが総じて濡れそぼる様に。仔細不明瞭な風説の体であった例の八木詩葉突き落とし事件の概要は、既に半ば以上公な事実の様相で学内全域に蔓延せしめていた。その当事者同士が、いっそ朗らかさすら醸し出すやり取りなぞするものなので、突き刺さる視線が孕む疑念もまたひとしおであった。
「………」
要らぬ言動で、より一層場を掻き乱すのも旨くない。言葉での返答は控え、用件が終わればすぐ帰宅できる様手荷物を纏める。そんなこちらへと向け、同じく鞄を肩にかけ…これはもう本当に要らぬ言動でしかないのだが、ひょっこひょっこと八木が近付いてくる。なんなら現地集合だってよかったし、最低でも廊下とかで待ってくれていれば良いものを…。
「……無視ですか?」
こてん。小首を傾げ、口を結び、不満を示してくる。とんだ恫喝があったものである。周囲の人間に、久世阿儀人との交流が知れ渡らぬようにとのこちらの配慮などどこ吹く風なものだから、いい加減気を回し続けるのにも無意味を感じないでもない。
「…滅相もございません」
観念した。心境的にはそんなところだろう。スルーを許さぬ圧力に遂に真正面から屈し、軽く溜息を吐く。
部内での情報収集がどう転ぶかというのは、現状全く予想がつかない。想定される再犯のリミットを再来週だと仮定するならば、最低でもそこまではにべも無く弾かれる様な事態は避けたいところ。好感度…などと言う陳腐な表現は好まないが、少なからず害意がない事は示していく必要があるだろう。
ただまぁ。そんな意識一つで改善が見込める程、自身の無愛想無遠慮というのは根が浅いでもなく。精々が言葉に相槌、不要な発言を差し控える程度であるのは、我がことながら嘆かわしい事この上ない。
「よーし、それでは行きましょう!」
よたよたしながら、号令を。全く元気な方です事。
「…仰せのままにー」
八木の正面へと手を差し出しながら、気の抜けた声を。…このバイタリティは一体どこから来ているのだろうか。
等。ぼんやり考えながら腕を伸ばし続けていたところ、八木が再びこてん、と。今度はどうも疑念に由来して、首を傾げてみせる。
「…?何を要求されてるの、これ」
素っ頓狂な事を。追い剥ぎかなにかだと思われているのだろうか。
「いや、鞄」
伸ばした腕、指先で八木の鞄を指し示す。この流れで他の要求などあってたまるか。
「——あー、はい。どうも…」
怪我をしていない方の足と、鞄をかけていない方の松葉杖。その二つで器用にバランスをとりながら肩から鞄を降ろし、差し出してくる。それを受け取りながら、ふと、昨日の朝の会話が脳裏を過ぎる。
「…そんなに掛からなそうだな」
「え?」
「使い熟せるようになるまで」
顎で松葉杖を指す。自身が使った事はないものの、傍目でも器用なものだと、変に感心してしまった。
———
「…一年、二年しか歳は違わない訳でしょ。でもやっぱり先輩達の演技と自分を比較すると凄いなぁって。本当にいつも感動しちゃうんだよね」
「あー…」
演劇部の部員数はキャスト、裏方合わせて総勢十八名。これが多いんだか少ないんだかは正直判然としないものの、自身の目的から逆算すると若干辟易とする数ではある。
それら全ての人間をしらみ潰しに総当たるというのも手段としては有りだろうが、効率的かと問われれば甚だ疑問でもある。
「裏方の人たちもすごくってさ!音楽とか効果音とかビターっ!って、もうここしかないってタイミングで鳴らすしね」
「んー…」
嫌疑の矛先を絞る捜査というのは些か以上のリスクを伴う。ともすれば冤罪騒ぎ、なんて事になっては目も当てられない。
事が事であるだけに、効率ばかりを優先する様な立ち回りはやめておいた方がいいかもしれない。
「あとは!やっぱりなんと言っても脚本が凄くてさ、書いてるのは二年の
「おー…」
「……久世君、聞いてないでしょ」
はたと。視線に眼を向けるや、大層ご立腹のご様子の八木が。相槌だけでは駄目か。
「濡れ衣だ。ちゃんと聞いてるって」
「うっそだねー。聞いてない人の感じだったもん。そりゃ、久世君元々詳しくないって言ってたけどさ、見学したいっていうくらいだからもうちょっと興味持ってくれてもいいじゃないよ…」
言葉は尻すぼみに元気を失う。…なんとまぁ忙しないお方です事。
「いやだから本当に聞いてるって。今朝言ったけど素人だからな、的確なコメントが出来んだけだよ」
言いながら一つ、八木の話の中で確かに、と。納得を感じる部分があった。
「でもそうか、脚本か…」
昨晩の記憶を辿りながら口を開く。
「確かにわかりやすいエンタメっぽい話じゃないのが多い気がするな。考えさせる余白が多いというか…前のめりじゃないというか」
え、と。八木が素っ頓狂な声を挙げる。
「…と、言いますと?」
「去年何回か公演で披露されてる[来訪者]は、コメディっぽい味付けが強かったけど、根っこのテーマは多分青春群像劇だったし…[色法のトロイメライ]なんかは特にそう感じたな。殆ど独白みたいな形で話が進んでって、脇の演者たちってのは皆々回想の中の人物って立ち位置だったろ。本来要になる筈の主人公の心情に関しての明言が何もないまま幕が降りる。最終的に彼女がどう感じたかってのを、事実ベースじゃなくて共感みたいな形で捉えないといけない。から、エンタメっぽくないな、って話。…けど、これは勝手な印象なんだが、高校演劇って…言い方はあれだがもう少しわかりやすい話の方がウケが良い気がするんだが、実際のところどうなんだ?」
八木がポカンとしている。その顔を見て、自分が随分と要らぬ事を喋りすぎたと自覚する。
「いや、いや、批評とかがしたい訳じゃない。ただ本当に純粋な疑問なだけで…」
慌てて弁明を。ただどうにも、八木の表情の理由はそこではないらしい。
「演劇、詳しくないって言ってたのにガッツリ観てるじゃん!え、なんで!?」
「…いや、動画上がってるだろ。スマホで」
動画投稿サイト上には、当校演劇部が運営しているチャンネルが存在していた。学生のみ閲覧できるそのチャンネルにおいて、各公演の様子を記録した映像を視聴しただけ…演劇鑑賞などとは到底言えぬ行いを咎められると言い訳も浮かばない。故にこそ不用意に感想を述べる愚を避けたというのに、この有様である。
「元々観てたんだったら教えてくれても良いのに。昨日そんな話ぜんっぜんしてなかったじゃん」
「昨日の夜観たんだからそらそうだろ。嘘は言っていない」
「きのう!」
でかい声である。悪かったな、付け焼き刃の知見で。
「見学したいって言っておいて、何一つ情報知りませんてのはいくらなんでもお粗末だろ。とは言え比較対象があるでもなし、結局動画で上がっていた内容以上の事は知らん。それに関してはもう、申し訳ないとしか言い様がないんだがな」
そもそも見学なんてのは、知り得ぬ物を知る為の行為だ。自身が言えた立場では勿論ないが、この程度の無知は許してほしいというのが本音だ。
「…そかそか、ふーん」
八木の表情が、驚愕を経て色味を失くす。寧ろ、なんなら少しばかり不満げですらある。…今度はなんだよ。
「全部見たの?動画」
「直近二年分位だけな。それ以上後ろには遡ってない」
そう言えば現状の一年が…少なくともキャストとして参加している公演の模様は確認する事ができなかった。これに関しては、まぁ有り難かったと言わざるを得ない。ずぶの素人の身にありながら、本人を前に感想でも要求されよう物なら具合が悪くなる事請け合いだ。
「…演技についての御感想はないんでしょうか」
「いやだから素人だっつーの。上手いんだろうなー、とは思うが個別に誰が凄いみたいなのはなかったよ。申し訳ないけど」
素人が演技を鑑賞したところで、出てくる感想なんてのはこんなもんだ。…あぁ、ただ。
「…主観だけど、一人死ぬほど声の良い人いるだろ、演劇部」
「声?」
頷く。
「さっきの、[色法のトロイメライ]。あれの最初と最後のモノローグ。あれだけ演者とは別の人が喋ってたろ。あの喋りだけはちょっと衝撃だったな。喋り口調や迫力もだけど、とにかくびびる位声が良かったな。印象といえば、脚本よりもそっちのがインパクトは強かったな」
「………」
無言である。なんか言えや。
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