久世阿儀人.1…『嘘』の異能



「——おや、【足立先生】」

 担当教諭…関根信克せきねのぶかつの表情が僅かに弛緩する。言葉を受けて、軽く会釈をする。

「【お疲れ様です、関根先生】」

「この時間に職員室に居られるのは珍しいですね」

 つかつかとこちらへと歩みを進めながら、関根教諭が言葉通り、物珍しそうな表情を浮かべる。

「【いえ、大した事ではないんですが…少し確認したい事がありまして】」

「これは…演劇部の部員名簿ですか」

 関根教諭が真隣までやってくる。…この時世にその距離感はよろしくないのではないだろうか。

 尤も。関根教諭と足立教諭の間に横たわる信頼関係の程度を推し量れるほど、二人の距離感に精通してるでもなし。そもそもはなから差して興味があるでもなし、特段この場での言及は控えておく事とする。要らぬ言葉を吐いて後々ややこしい事態を招くのも憚られる。

「次の公演は再来週でしたか。いや全く、お忙しい時期に大変ですな、演劇部も」

 視線は変わらず名簿へと落としたまま。言葉に同情の香りを感じ…無視するのも不自然な話ではあるので、適当な相槌を返す。

「【そうですね】」

「いやいや、本当に。久世さえいなければこんな事にはなっていなかったんですがねぇ」

至極疲れた声色でごちるその言葉に、天を仰いで肩をすくめる。

「とっとと認めて、早急に退学処分にしてしまいたいところですがね。覇気のないあやふやな問答ばかりで参りますよ」

軽く肩を回し、蓄積したらしい疲労をアピールしてくる。思った以上に根深い嫌疑に、それこそ言い訳を並べることすら煩わしい。

 しかし同時に、このエンカウントは丁度良かったとも捉える事が出来る。こちらにたいしての悪感情がここまで肥大している限り、『久世阿儀人』として有用な情報を引き出すのはまず不可能。足立教諭には大変申し訳ないが、この機会にもう少し立場を利用させて貰おう。

「【私の方には特にこれといった話が来ていないのですが…八木さんの件で、なにか他に目新しいお話と言うのはお耳に入っているんですか?】」

 【足立教諭】の言葉に、関根教諭が肩をすくめてみせる。

「これと言って特に、ですな。まぁどちら道久世が白状するまでの辛抱でしょうがね」

 …役に立たんお方ですこと。ただまぁ、実態において進展がないという事実が明確になっただけ儲けもんだと思うことにしよう。

「【そうですね…っと、そろそろ部室に戻ります。失礼しますね】」

 ぱたんと、部員名簿が綴じられたファイルを元の場所に戻し、退室しようと歩き出す。

「あぁ、【足立先生】」

去り際、ふと呼び止められる。何かと首を振って見やれば、なにやら下卑た薄ら笑いを浮かべた関根教諭が

「先日のお話、かんがえていただけましたかね?」

皆目知り得ぬ言葉を口にする。

 …そう言えば。関根教諭が足立教諭に、あまり気持ち良くない絡み方をしてる場面を見たという噂話を耳にした事がある。詳細は不明なれど、この感じはあながち事実は遠からずなのだろうか。先日のご高説の有り難味が無くなるな。

「【…申し訳ありません、もう少し考えさせてください】」

藪蛇を招いても詰まらない。ぺこりと一度礼をして、そそくさと退散を決め込んだ。



 職員室を出て、足早に階段へ。後方を確認し、関根教諭の追跡がない事を確認し…『嘘』を解く。解いて一息、顳顬こめかみを押さえながら体を伸ばす。




———


『言語化された一文の嘘を、任意の対象の現実の一端と挿げ替える』

 久世阿儀人が持つ…そして恐らくこの世界の他の誰も持ち得ぬ、奇怪な異能。それは正しく、超能力と呼称して差し支えない異端の力。


 発動条件は『対象がこちらの瞳を視認すること』。加えて『挿げ替える嘘は、明確に言語化された一文分のみ』。言語化不可能な超常現象を挿し込む事は出来ないし、周囲に多数の視線があれば看破され成立しない。超能力などと大それた表現をしたものの、その実態は極めて限定的な使用用途しか有さないお粗末な代物。とは言え、それにはそれで使い道があったりする。

 一対一。自身と相対する人間がただ一人である場合、この能力は真価を発揮する。


『目の前に立つ人物は久世阿儀人だった』という関根教諭の現実を、【立っていたのは、足立理沙だった】という嘘に挿げ替えた。一度挿げ替えた『嘘』は、『久世阿儀人』が解除命令を出さない限り継続する。加えて『嘘』は、対象の記憶を基に半ば勝手に補完される。

 今の一連の会話。解除命令を出した現時点においても、関根教諭はたった今まで言葉を交わしていたのは【足立教諭】であると認識している。何の違和感も持たず、ごく自然に。


 これが久世阿儀人の異能。

 その本質を過悪とする、忌むべき異形。



———


 生きる上で、嘘は必要な物だ。

 誰も彼もが本音だけを語り、本心だけを晒し、真実だけを掲げる。理想論としては見映えするが、その実それは極めて危うい暴論だ。何故なら物事に対しての本音、本心、真実は誰一人とっても同一ではないのだから。

 全てを思うまま。自らの解釈唯一つを是とする様な人間が、社会という群れの中で生きていけるわけがない。嘘は、人と人とが軋轢無く日々を営むための潤滑剤に他ならない。


 ——だからこそ。久世阿儀人の居場所は、この世界には存在しない。しては、いけない。

 保有するこの力は、自身の正しさという名の虚構を他者に強制する。相手の意思の介在する余地を与えないその不条理はさながら呪いの類であり、排斥されて然るべき醜悪。

 存在自体が紛い物。

 他者の世界を冒涜する害虫。

 そんなものがこの世に居場所を求める事こそ嗤い話であり、いっそ今すぐに首———







 バン





「———」

 自らの顔面を張り倒し、濁流の様に暴走し始めようとする思考を力任せに断ち切る。今更悲観に暮れる程の期待は無いし、そうした権利もとっくにこの身には有りはしない。無意義な思考を破却し、その代わり自らに言い聞かす様に言葉を念じる。

 目的を見失うな。

 目的を見失うな。

 目的を見失うな。


「———よし」

 顔を上げる。

 今、俺自身が抱える問題や、それに纏わる感情などはどうでもいい。思考したとて何かが変わる訳でもなし、思い悩むだけ時間の無駄だ。

 今重要なのは、八木詩葉だ。

 彼女がもう一度、何某かの悪意に晒される様な事態に陥るとして。それに纏わる陰惨な心の痛みが彼女を襲うとして。

 専門機関の介入が想定されていない現状において。真実に先回りし、事を穏便に収める事ができる可能性の種を持っているのは、恐らく俺だけだ。


 犯人を詳らかにするだけでは駄目だ。

 犯行を未然に防ぐだけでは足りない。


 これから起き得る痛みの一切を、嘘として煙に撒く。それが出来る位置に、恐らく今俺は立っているのだから。


「———」

 瞼の裏に焼き付けた部員名簿。連ねられた名前の一つ一つを反芻しながら、歩みを。その只中、ふとある一つの疑念が内側より湧き出る。つまり——久世阿儀人がそれを行う意味があるのかという事。


「——はっ」

 鼻で笑う。てんで馬鹿馬鹿しい、くだらない疑念だ。


 八木詩葉に対して、なんらかの感情などまるで抱いていない。互いが互いに路傍の石。瞬きの刹那に忘却の彼方に捨て去られる、行き違っただけの見知らぬ他人。

 けれど。

 八木詩葉は善い人間なのだと思う。

 そんな人間の為にすら、何かしらの行動も起こせない異能ならば。





 生きてる価値などまるでない。

 今すぐ死ぬべきだ。

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