第二十七話「心に寒風が吹いて」
カウンセラーの女性は、いつも通り白衣姿で病院の待合室に現れた。琴音は珍しく笑顔を見せ、挨拶をする。二人で専用のカウンセリングルームへ向かう。
事務室のような殺風景な入り口を入ると、大きな木製のテーブルが奥に見える。席に着くと、灰色の背が高い収納棚がテーブルの奥の正面にあり、カウンセラーはその手前に座る。いつもの定位置だ。
収納棚の中には手芸用のセットや作品が入った箱がいくつも入っている。琴音がこの先生と作った作品を入れている青いアルミ製の箱も含まれていた。
部屋の脇には、箱庭療法用と書かれた、おもちゃの家セットのような大きな模型がある。琴音はその療法を施されたことはなかった。あれはどう使うのだろうと気になるが、尋ねたことはない。
「今日は少し寒いね。大丈夫? 前回から、風邪引かなかった?」
というカウンセラーの質問から今回のカウンセリングは始まった。
話の流れを見計らって、琴音は自分の気づいたことを話した。
「私、この間書道教室で、色々考えたんです。字を書いているときは、スマホをいじれないから、自然と考えに集中して。あの、何度か話しましたが、私は中学校でつらい思いをして、そのことを何度も思い出してしまうんですが」
「そう言ってたね」
「その思い出している内容は、今起こっていることじゃなくて、過去だって、気づいたんです。過去でしかなくて、つまり、私の頭の中にしかないんです。つらくなっているのは、私だけというか……」
琴音の言葉が自然と途切れてから、カウンセラーは口を開いた。
「いいことに気づいたね。そうだよ。思い出すとつらくなるけど、記憶にあることは、現実じゃない。琴音ちゃんを今この場で苦しめているわけじゃないんだよ」
「そうなんです。あともう一つ気づいたことがあって、それは、過去はもうやり直しが利かないってことです。どんなに後悔しても、あのときに戻ってやり直すことは絶対できない」
「そうだね。難しいけれど、最終的には受け入れるしかないんだよね。でも、それは本当に大変なことで、今すぐできなきゃいけないってわけじゃない」
「私、過去のことは気にしなくなればいいんじゃないかなって考えたんです。現実じゃないから、気にしているは私だけで、勝手に一人で苦しんでいるだけで……。でも頭に浮かんでくるのは止まらないんです。気がついたら思い出して苦しくなっちゃうんです」
「それを意識してどうにかするのは難しいと思う。無意識に考えちゃうことだからね。でも、その二つのことに自分で気づけたのは、先生、すごいと思う。一人で冷静にそこまで分析できる人はあんまりいないよ。ぜひ大塚先生にも、話してみて」
大塚先生とは主治医のことである。
カウンセリングの後の診察のときに、言われたとおり主治医にもその話をした。
「なるほど。気づきましたか。その通りだよ。思い出すのは止められないとしても、思い出したときに、過去はただの過去であって、今の現実ではないことを思い出して、落ち着こう。そうすれば気分が徐々に楽になってくると思うよ」
「分かりました」
「食事の方は、どうかな」
「やっぱり食べる気になれません。たまに食べたら、どうしても吐かずにいられないです。身体に食べ物が入るのが許せなくて」
「例の栄養ドリンクは飲んでるかな」
「たまに飲んでます。母に言われて」
「あれだけでも飲むと、一日に必要な栄養素を取り入れることができるから、何も食べたくなかったら、あれだけ飲むのでもとりあえずいいと思うよ。吐くのが問題だね。手の甲はだいぶ傷んでいるみたいだ。どれ、口を開けてみて」
琴音は言われたとおりにした。
「やはり歯が傷んでるよ。前回より傷んでるみたいだ。胃酸でエナメル質が傷ついてしまうからね。ストレスが強いなら、学校は行けるときだけ行けばいいよ。とにかく、吐くのをやめる。ドリンク剤を飲む。それだけ、約束してほしいな。できるかな?」
「約束はできません。私は何も口に入れたくないのです」
「じゃあ、できるときだけでいい。吐くのを、せめて減らそう。今の半分でも、三分の一でもいいから、我慢して、栄養ドリンクは、今よりもう少しだけ飲む頻度を増やして。やってみてくれないかな」
医師の必死な様子を見ると、琴音は断る気になれなかった。正直身体も限界であった。医師のせいということにして、少しだけ、言うことを聞こうかと思えた。
「分かりました。少しだけ、やってみます」
「その言葉が聞けて、本当によかった。次回の診察のときに、少しでもよくなった姿を見せてほしいな。薬はこのままで大丈夫かな?」
「はい」
「じゃあ、今回はこれで大丈夫です」
琴音は診察室を後にした。ほんの少しだが自分に変化があったのを感じた。
秋は深まってきた。外の景色はときどき冬と変わらない様相を呈した。琴音は孤独と寂寞のうちに、自分の心と、痛みと、向かい合うようになった。
自分は奥底で何かを切望しているようだった。だがそれが何なのかは分からなかった。心の奥の自分は琴音の知っている言葉で話さなかった。何を言っているのかは分からなかった。だが苦しいほどに何かをほしがり、欠乏の哀しさを叫んでいた。何だろう。私は何がほしいんだろう。
私は何を手に入れるために、生きることに半分背を向け、人生をボイコットしているんだろう。
琴音の場合、食べる気がしないというのは、つまり生きる気がしないということだった。死にたいとまではいかない。決して自殺を図りたいわけではない。だが、積極的に頑張って生きていこうとは思えないのだった。中学校のときにあった様々な苦難が琴音から生きようという力を奪っていた。それは確かだった。
だが気づいたとおり、中学校の頃に戻ることはできない。麻理恵の一連の事件も、部活でのことも、何一つやり直すことはできない。記憶も消えない。これからも毎日頭に浮かんできて、自分を苛むだろう。何度でもこの目に涙を滲ませるだろう。
だとしたらどうしたらよいのか。一生このままでいるしかないのだろうか。
だがこのままの生活を続けたら、一生、と一般にいうほど長い時間生きられないだろう。早晩に死ぬ。麻理恵が妊娠に気づかなかったとき既に悲しみまでのカウントダウンが始まっていたのと同じだ。自分も命が尽きるまでの制限時間が迫っている。
私はこのまま孤独のうちに衰弱死するしかないのだろうか。
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