第二十六話「自分との対話」

 琴音は書道教室で、この頃更に細くなり静脈が透けて見える右腕を動かしながら、半紙に向かっていた。課題である「光景」の文字を書こうとしていた。だが何枚書いても思うような出来にならない。それどころか、どういうわけか、書けば書くほどまともな文字にさえならなくなっていく。


 琴音は焦っていた。なんだろう、どうしてこんなに文字が汚いんだろう。この現象が現れるのは初めてのことではなかった。


 書道教室に入ってから途中までは少しずつ級が上がっていったが、この頃は全く上がらない。琴音自身、以前の方がきちんと書けた自覚がある。スランプとかそういう問題ではなく、完全に文字が「乱れて」いる。書道でうまく書けないどころか、最近は学校でノートを取るときさえも字がうまく書けない。


 いつまでも先生に見せに行かないわけにもいかないので、一応ある程度形になったものを手に、先生の机の前に出来上がった列に並んだ。


「うーん。書き方が分からなくなってるね。どうした、植田さん」


「自分でも分からなくて……」


「もう少し書いてみよう。気持ちを集中させて、焦らずじっくり書いてごらん」


 琴音は自分の席に戻り、再び筆を執った。



 書きながら、自ずと自分の内面と向き合うことになった。


 呼吸の音を聴きながら筆を運んでいると、無意識のうちに回路が繋がって、あることに気づいた。


 普段しょっちゅう自分を苛む過去の記憶は、決して現実ではなく自分の頭の中でだけ展開されるストーリーに過ぎない。思い出すときは何度もその場面に自分が存在し、まさにそのとき経験している感覚を覚えるけれど、実際には過去は戻ってきていない。


 あの頃の現実は、今、どこにも残っていない。


 あの光景を見ているのは私だけだ。私の内面が、記憶を繰り返し再生している。遠田先生(顧問)も豊子ちゃんも、CとDも、今は私の前にいない。あの時代は終わって、二度と戻ってこない。


 一方で、別のことにも気づいた。そんな過去の記憶はいくら思い返してもやり直すことができないし書き換えることもできない、いわば儘ならないものだ。


 ひどいことを言われたときのことを思い出しては豊子ちゃんに言い返したくてたまらなくなるけれど、もう言い返せない。部員のみんなが豊子ちゃんのことを遠田先生に告発するのを、あのときなら全力で拒否してやめてもらうこともできたかもしれないが、それはもう叶わない。失礼な発言をする後輩をその場でキツく叱ることももうできない。


 つまりいくら過去のことを考えても、つらくなるだけでどうすることもできないのだ。琴音は現実ではない、いわば記憶が見せる幻に苦しめられているが、その苦しみは何も生み出さない。


 ならば、考えるだけ無駄ではないか? それどころか、損ですらあるのではないか?


 だが記憶が蘇るのを止める方法が分からない。いくら理性で無駄だとか損だとか考えても、記憶を再生し出すのは理性ではない。無意識のうちに思い出しては苦しんでしまう。


 記憶に苦しめられなくなりたい。私は当時部活のことで相当苦しんだ。そのことで苦しむのはあのときだけで十分じゃないかな。高校生になって、別の時代に突入した今、記憶によってまだ苦しめられるのはうんざりだ。いつまでも記憶に傷を増やされるのはもう嫌だ。琴音はそう考えた。


 また、琴音は自分が本当は食べたくないわけでもダイエットしたいわけでもなく、何らかの主張のために過食嘔吐を繰り返すのだと気づいた。みんなの前で自分のことを深く傷つけることで主張しようとしているのだと。


 食事の拒否は、ある意味コミニュケーションなのだ。そうすることでしか周囲の人間に伝えられない感情があるのだった。コミュニケーションといっても対話的なものではなくて、他の人間からの働きかけには応じない一方的なものであったが。琴音は如何ともしがたい強烈な痛みを内に抱えていて、その痛みが、食事を拒否するという主張乃至コミュニケーションを強いているのだ。


 ネムがときどき行う自傷行為を、自分もしているのだと琴音は理解した。


 そして、それをやめようという気が一切ないことも琴音は知った。両親からも歌羽からも、主治医からも、学校の教師たちからも求められている真面目な治療を、自分は拒否するとという方針を、琴音は自分自身に確かめた。



 書道教室から帰ってきて、琴音は自室に入り、ベッドに横になった。そのまま自然とスマートフォンをいじる。更新されないネムのブログにまた辿り着いて、前見たときと同じ画面に虚しくなる。歌羽からは何もメッセージが来ていなかった。


 短い動画を投稿できるSNSを適当に巡り、いくつか「いいね」を送った。琴音はアカウントはもっているが非公開設定にしている上、投稿はしていなくて、いつも他のアカウントの投稿を見るだけであった。ネムとブログのDMでやりとりをする際に覚えたやり方を、SNSでもやっていた。



 ふと時計を見て、時刻を確認すると五時前であった。琴音は急に自分の意識の変化を感じた。


 小学生の頃は、自己は雲のように次々と姿を変えていた。自意識は不安定で、刻々と様々な自己が入れ替わっていた。中学生になると、いくつかの互いに矛盾し合う側面ができあがり、まるでチャンネルを変えるかのようにそれら複数のキャラクターを交代させていた。


 だが高校生になった今は、人格は統一されて、自分はどんなときも自分だった。


 嗚呼、私はもう昔には戻れない。成長も止まり始めた。近い未来に大人になるのだろう。それからも歳を取っていくのだろう。この苦渋に満ちた人生から、十代の輝きすら失われてしまったら、一体どれほどつまらない日々を送ることになるのか。


 青春とは輝かしく美しいものではないのか。こんな苦痛のうちに私の人生の春が終わってしまうのだろうか。私によい時代は来ないのだろうか。


 生きるのはつらい。だが今すぐ死んでしまいたいとまでは思わない。それは絶望していないからとか希望があるからというよりは、まだ終わりたくないという未練からだった。


 過去も現在もこんなにつらいのに、このまま死んでしまったら、大損である気がするのだ。せめて未来でもう少し報われてくれなければ不公平だと琴音は感じていた。


 世の中には豊子ちゃんみたいな、ほとんどのことが思い通りになる、人生楽勝な子もいるんだから、私だって少しは幸せになりたい。その言葉が念頭に浮かんだ途端、琴音は強い不平不満を覚えた。


 今は生きることと死ぬことの中間に留まっていたいということに変わりはなかった。幸せにはなりたいけれど、一方で自分の身体に鞭を打つのは止まらない。止められない。

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