第三章「苦悩の中でも道は続いて」
第二十五話「何度も着せられた濡れ衣(中学校の思い出)」
琴音が中学生の頃、部活では楽器ごとのパート別に練習する時間があった。
この日は秋だった。三年生は琴音と豊子の二人で、他に二年生と一年生の部員が二人ずつ、全員で六人のパートメンバーがいた。一日一日、みるみるうちに日が短くなっていって、トランペットパートが練習している部屋の外は薄暗かった。明かりは白色灯のはずなのに部屋の中はどこか赤味を帯びていた。暖房が音を立てながら暖かい空気を巡らせていた。
トランペットパートは冷暖房が直接快適な温度に保ってくれる教室の一室を練習場所として与えられていた。しかもひとつのパートでの独占を許されていた。他のパートは大概が、他のパートと音が混じってしまう上、冷暖房にも間接的にしかあたれない廊下で練習しているにもかかわらず、だ。
理由は顧問のお気に入りの豊子がいるから、ということに尽きるのだった。その証拠に、この配置になったのは琴音と豊子が入部した年からのことであるらしい。当時三年生の先輩たちが「こんないい部屋でできるなんて」と喜んでいたのを目にしたし、「豊子ちゃんのおかげだよ」と二年生の先輩が彼女の頭を撫でていたのを覚えている。
もちろん顧問がそれを口に出したことはなかった。だが理由がそれであることは誰が見ても明らかだった。この部では全てが顧問の依怙贔屓で決まっていくのだ。実際のところ、生徒本人の実力やモチベーションは編成にも選抜にも待遇にも一切関係ない。ただ顧問に気に入られているかどうか、それが全てだった。だが、顧問のお気に入りになれば実情と関わりなく実力もモチベーションも優れていると評価される。
練習中、顧問が巡回してきた。
扉を開けて入ってきた顧問は表情に柔らかい微笑みをたたえ、真っ直ぐに豊子の方へ向かう。
トランペットパートは合奏練習に向けて音合わせを行っていた。半円を描くように譜面台を並べて曲を演奏している。だが本番に出ない琴音はその必要がないと豊子に言われて、一人だけ離れて練習していた。気が狂うほど繰り返している基礎練習を相変わらず行っていた。
顧問は豊子に優しく話しかける。
「見さしてもらうね」
「はい」
琴音は顧問と豊子が話すときは、練習を中断しても続けていてもどちらにしろ怒られるのを知っているので迷ったが、恐怖で身体が強張ったので、中断した。恐ろしさから顔を背けていた。
「練習進んでる?」
「はい。今皆で合わせています」
「この曲をやっていたのね。トランペットはある意味この曲の主役だから思いっきり目立って、しっかり演奏してね。豊子ちゃんのソロ、先生期待しているから」
「はいっ」
顧問は後輩に向き直って、豊子を褒める。
「豊子ちゃんは頼りになる優しい人よね。演奏技術もとても優れているし、自分がパートや部を引っ張っていかなきゃっていう自覚がきちんとある。あなたたちも、三年生になったらこういう先輩になるのよ」
顧問の一番のお気に入りである豊子に与えられる最大の賛辞の言葉を聞いて琴音は羨ましくなった。顧問は自分には間違ってもそんなことを言わない。
だが豊子は間違いなく、幼い頃からそのような最上の褒め言葉や特別扱いの地位を常に与えられ続けてきたのだろう。琴音は一つもしたことのない経験を、両方の手で受け止めても溢れ出るくらい得てきたのだろう。
いつも誰からも特別に愛され、全力で褒められる豊子ちゃんと、嫌われ者の私。全然違う。寂しさと酷似した妬ましさが琴音の心に発生した。
顧問が促して、琴音以外の部員は曲の音合わせを顧問の前で披露した。顧問は優しく丁寧な態度で細かな指導をした。
そのまま戻ればよいものを、顧問はわざわざ琴音の方へやってくる。琴音はもう俯いて、罰を受ける体勢をとった。怖くてたまらない。
顧問は怖い作り笑顔で近づいてくる。先ほどまで豊子の前で浮かべていた微笑みとは完全に異なる表情だ。
「何をしているんですか、こんなところで一人だけ遠ざかって」
「個人練習をしています」
「吹いてないじゃない。何もせずぼーっとして」
「話してたから、待ってたんです」
「音合わせに加わらない理由は?」
「私は本番出ないから」
というとまるで自分の意思のようだと琴音は感じた。実際のところ「出してもらえない」が正しい。
「だからサボるんですか」
「サボってません。練習してます」
「うんうん、合奏中に一人だけ廊下で遊びまわっていても、誰も気づかないから、いいよね」
「そんなことしてません。真面目に練習して……」
顧問は琴音の言葉を遮って言葉を被せる。
「やってるフリだけは得意な人だもんね。あーあ、不愉快!」
顧問は突然真顔に戻った。そしてそのまま不機嫌さをわざと見せつけるような憤然とした動作で後ろを向いて遠ざかり、扉を閉めて出ていった。――静かに閉めたのは、豊子がいるからだろう。豊子がいなくて琴音と後輩だけだったら、わざと大きな音を立てて閉めたに違いない――
顧問に心を乱されて、鼓動が激しくなった琴音が息を荒くしていると、すかさずD――二人いる一年生の後輩のうちの一人――が言い出した。
「植田先輩、合奏中廊下で遊びまわってるんですか?」
琴音はうんざりして答える。
「そんなことしてない」
C――もう一人の一年生の後輩――が加勢する。
「じゃあ、なんで先生そんなこと言うんですか? 先生嘘つかないと思いますよ。本当は、遊びまわっているんですよね?」
「違うって言ってるじゃん」
「琴音ちゃん最低だね。皆が見てないからってサボって遊んでるんだ。うわぁ」
と豊子が嫌な声を出す。
琴音がいくら言っても信じてもらえない。しかもこの後CとDはぬかりなく、顧問の言っていたことがあたかも事実であるかのように部中に言いふらすだろう。これまでも幾度となくやられたことだ。おかげで琴音は一年生の後輩たちの間ではすっかり、怠惰で反抗的で無能な先輩ということになっていた。
実際には合奏中廊下に追い出されたときも、遊び回ることなど決してなかった。つらくて悲しくて堪らなかったが、仕方なく耐えて、部室から他の部員たちが出てくるまで、基礎練習をサボることなく行っていた。だが顧問の言うことが常に真実とされるこの部活では、琴音がいくら否定しても聞く耳をもたれない。
顧問はどんな「真実」も捏造することができるのだ。それを利用して、顧問は自分が大嫌いな琴音を追い詰め、面目を潰す。後輩のCとDが顧問の適当な発言を事実としていちいち部中に言いふらすので、琴音は他のパートの後輩からも、更に彼らからそれを聞いた同級生からも白い目で見られた。こうして琴音はなす術もなく、ありもしない罪を次々と着せられていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます