第二十八話「琴音の吐露」
ほんの少しだけ意識を変え、医療用の栄養ドリンクを我慢して飲むようにしたところ、悪化する一方だった琴音の体調はある程度の落ち着きを見せた。身体が限界状態を抜け出してから、少し遅れて精神状態も最悪ではなくなった。
寒空の下、ネムの帰りを待つのは心まで冷えるようであるが、歌羽は目の前にいるので、寂しさを埋めるため、もっと話をしたくなった。
「昨日口内炎発見しちゃってさ」
「えー痛いじゃん」
「死ぬ。何もしなくても痛い。痛たた……」
そう言って口を押さえる歌羽を眺めながら、琴音は自分が、食事を拒むようになってから、ほぼひっきりなしに口内炎の症状に悩まされていて、実は今も二つできていることは言い出せない。
「千個だけ何でも願いを叶えてあげるっていわれたら、その内の一個は『一生口内炎できないようにして』にするわ」
「千個も願い叶えてもらう気なの?」
「もし百個だったら他のこと願うかも」
「私は百個でも願う。口内炎つらすぎだもん」
今も痛いしね。たぶん歌羽の口内炎より重症だし。琴音は心の中で付け加える。
「あと何願う?」
「そうだなあ、歌羽は?」
「とりあえず次の試験、数Ⅰと物理をノー勉で百点取らせてくださいって」
「それいいね。私は古文漢文と、あと、何にしようかな」
「もう全部百点でよくね?」
「確かにー」
歌羽は急に琴音の顔を一瞥する。
「どうしたの?」
「ねえ、なんか、少し元気になったんじゃない?」
「そう思う?」
「思う。でも、お昼はちゃんとお弁当食べてよ。せめて食べてから吐くのはやめて」
そこでチャイムが鳴り、琴音と歌羽は慌てて席に戻っていく。歌羽からの追求から逃れられた琴音は椅子に座って大きく息を吐く。
琴音は、摂食障害の話を誰ともしたくないのだ。何の言い訳もできないので責められるのがつらい。だが琴音の周囲はそう簡単に見逃してはくれない。
母にものすごく叱られながらも夕飯をまた完全に拒否した琴音は夕飯の後の今の時間、部屋にこもり、歌羽とメッセージのやりとりをしている。
――夕飯は食べたの?――
と歌羽が聞いてきて、琴音はうんざりした。どうしてみんなその話ばかりしたがるのだ。私が食べようが食べなかろうが、関係ないじゃないか。
――拒否った――
――また?――
トーク画面が一瞬で更新される。歌羽が送ってきたのは怒ったハムスターのキャラクターのスタンプだ。
――今からでも食べてきなよ――
――やだよ――
――せっかく元気になってきたのに、それじゃまた具合悪くなって、台無しだよ――
――どうでもいい、そんなこと――
――いつもいつもその調子で!――
続きがありそうなので琴音は待った。しばらく文字の上で沈黙が流れる。どうしたんだろう。あまりにも不気味だ。
何を言ってくるの?
送られてきたのは叱責だった。
――甘えなんだよ。この間食べるの嫌がる理由聞いたら、いとこがつらい目にあったからとか言ってて、びっくりだった。琴音には直接関係ないことだったからね。食べるのは生物の基本なんだよ。命をいただいているんだよ。それで生きてるの。みんな生かされているの。琴音はじゅうぶん生きていけるのに、それを拒否って具合悪くなって、おかしいよ。ほんとはいとこのことなんて言い訳でしょ?ただ現実から逃げてるんだよ。甘えだよ。すごく悪いことだと思う。反省したほうがいいよ――
よく分からないなと琴音は思った。下手な説教だ。説得力がない。それに大変な勘違いをされている。琴音は自分も長い文章を書き始める。
――言い訳じゃないよ。麻理恵のことは間違いなく原因の一つだよ。というか一番の原因。言ってなかったけど、私は麻理恵にひどいことをしてしまったんだ。麻理恵をそそのかして、それで麻理恵は塾の先生の部屋に行っちゃった。手術することになったのは、私のせいなのかもしれないの。あと言ってなかったけど、中学校の頃の部活の話もあってね――
思った以上に長くなったので、琴音は一旦そこまでで区切り、送信した。さっきの文章じゃ正確に伝わらないよな、と続きの文章を打っていると、スマートフォンは急に振動し始める。
「もしもし」
「もしもし、どうしたの」
「あんな長い文章読んでられないよ。それによく分かんない。めんどくさいから通話で話して」
歌羽の送ってきたのも長かったけどと一瞬思う琴音だが、意を決して、話し出す。
麻理恵はあのとき妊娠してしまったの。それは言ったよね。それは、塾の先生――相手だった人ね――の部屋で、やったからなんだけど、・・・・・・私は麻理恵に相談された。部屋に来なよって言われているけど、まだ自分は中学生だから、どうしようって。私は、ちょっとした出来心で、行くよう勧めちゃったんだ。エッチなことするって、私は分かってた。分かってて、言った。それで麻理恵は部屋に行く決心をしちゃった。
だから、そのことを本当に本当に私は後悔しているし、自分が許せないの。そんな言葉を掛けた自分の意地悪な心を、ちぎり取れるものならちぎり取りたい。でもできない。悔しくてたまらないよ。だからそんな私がご飯をおいしく食べるなんていけないことだと思うようになったの。
あと、部活のこと。私は中学校の頃、部活――吹奏楽部――で、ひどい扱いを受けてた。三年生のときから、一人だけ本番に出してもらえなかったし、練習のときもいつも仲間はずれにされてた。先生にすっかり嫌われてたからね。
私と同じパートだった豊子ちゃんって子が先生のお気に入りで、周りの子たちに勧められてその子からのいじめを告発したら、逆に私が先生に嫌われちゃったんだ。
豊子ちゃんはすごくいじめてきたし、先生も先輩も豊子ちゃんのことだけ可愛がってて、後輩も豊子ちゃんの言うことは何でも聞いたけど、私のことは馬鹿にして、舐めてて、散々な目に遭わされた。あの人たち、今でも本当に怖いし、許せないんだよね。許せないと思うと、ご飯食べる気力、なくなるの。
この二つが原因だと思う。自分も許せないし、元部活の人たちも許せない。そして途轍もなく悲しい。本当に悲しいと、私は食事をしたくなくなっちゃうんだ。
歌羽は黙って聞いていた。言葉を発しないにもかかわらず、彼女のテンションが下がっていくのが琴音には分かった。不機嫌なのではなく、落ち込んでいる雰囲気だ。
「そんな大変なことがあったんだ」
「中学は本当につらかった」
「そりゃつらいよ。あんまりだよ。大変な思いしすぎたよ琴音は」
琴音の目頭はその言葉に熱くなった。
数秒後、歌羽の沈んだ声が耳に入る。
「私の方もいいかな、話して」
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