第二十三話「学校でも問題になる」
どうしてこのつらいときに限ってネムは私の傍にいてくれないのだろう。琴音は夜中にベッドの中でネムのブログを読み返しながら、考えた。なんで入院なんてしてしまうんだろう。ひどい。私はこんなにつらいのに。
無駄だと分かっていながら、何度も琴音はページを更新した。今、新しい記事が現れるはずなんてないと理解しているが、やめられなかった。
私はどれほどネムを必要としていたのだろう。琴音は痛いほど実感した。ネムと話ができないせいで。心の拠り所がない。
家族との不和も歌羽からの叱責も、身体の不調も、全て琴音の力を奪ったが、他のどんなことよりもネムの不在が堪えた。琴音は一層不安定になってしまった。
秋も半ばに差し掛かり、気温が下がってきた。早朝や夜は寒さが感じられた。体温維持のために人間の身体はエネルギーを消費する。琴音は身体がこれまで以上に苦しいのを感じた。体力が足りない。歩くと息が切れる。
体育の授業はほとんど毎回見学になってしまった。身体を使ったスポーツなどとてもできないからだ。
他の女子生徒たちはチームに分かれてバレーボールの練習に興じていた。横一列に並んで各ボールを手にもちサーブの動きをするクラスメイトを眺めていると、琴音の近くに男性の体育教師がやってきた。
「植田、どうだ、調子は?」
「あまりよくないです」
「この間も見学だったな、体調が悪いのか?」
「はい」
「体型のことを言うのはよくないが……先生が見るに、植田は痩せすぎてる。その痩せ具合では、身体を動かせないのも無理はない。食事を摂れないのか?」
「摂食障害だとお医者さんに言われました」
「通院していたのか、なるほど」
体育教師は首を捻って右を向いて黙っていた。何を考えているのだろうと琴音は不安に思った。
「バレーボールが始まってから、植田は全部の時間見学してるんだ。その前の時間も参加できていなかったようだし、我々体育担当の先生の間で、問題になっているんだ。坪内先生に伝えることになっている。その旨、承知しておいてくれ」
坪内というのは養護教諭の名前である。
「分かりました」
「先生も、病気が改善することを願っているよ。身体を治して、参加できるようにしていこう」
教師はそう言うと、コートへ戻って行った。
琴音の予想通り、体育教師から養護教諭に、養護教諭から担任に連絡があった。そして担任から琴音の母に、体育の授業に参加できていないことが伝わった。
「あんた、体育の授業もサボってるって本当なの?」
母は電話が終わるなり琴音に詰問を始めた。
「サボってるわけじゃなくて、身体がつらいから、出られないの」
「そりゃそうでしょうね、全然食べてないんだから」
母はため息をついた。
「いい加減やめなよこんなこと。学校でも問題になったじゃない。みんなに迷惑掛けて、楽しいの?」
琴音は俯いて、黙っていた。
「ねえ、昼ご飯は買って食べるって言うからお金渡してるけど、結局食べてないのよね? 何も。あのお金どうしてんの? 何に遣ってるの?」
「遣ってないよ」
「ママのことを騙しているってこと?」
琴音は言い返す言葉もなく、何も言えなかった。
「もう勘弁してよ。いつまでも困らせないでよ。ご飯を食べることをどうしてそんなに嫌がるの? 身体壊して、学校でも問題起こして、ママのこともこんなに困らせて、それでも食べたくないって、なんなの? 何が目的なのよ、言ってみなさいよ!」
母の言葉の終わりの方は怒鳴り声だった。琴音は言葉を身体にぶつけられた気分だった。
母は憤然としてキッチンへ行き、医師に勧められて買い置きしている、琴音の嫌いな医療用の栄養ドリンクを取ってきた。
「とりあえずこれを飲みなさい! 早く!」
母は琴音が逃げ出す前に腕を掴んだ。そしてテーブルの間に追い詰めて、逃がさないようにした。付属のストローをビニールから出して、容器に差し込み、琴音に押しつけた。
「ほら、飲んで」
琴音は仕方なくストローに口をつけ、それを全て飲みきった。妙に甘く、薬のような風味がして、とてもまずい。
「これだけでも毎日飲んでもらうから。いいね?」
琴音はそれを聞くと、黙ってリビングダイニングを後にし、自室へ戻った。
その日の夜中に、琴音は飲んでしまったドリンクを吐き出すために、またトイレへこもり、無理に嘔吐した。
右手も左手も甲に吐き胼胝ができて、常に血が滲んでいて痛い。最初は利き手である右手にできて、そちらが痛いから左手を口に入れるようにしたら、あっという間に左手の甲にもできてしまった。どちらの手も傷口が歯に当たって痛いので、あまり捗らず、かなり苦痛だった。最終的には痛みを無視して無理矢理喉を引っ掻く。口の中で傷口が開いて血が流れる。
うまく吐くコツはとっくに掴んでいたが、吐くのが上達するほど手も口内も歯も傷んでいった。また内臓もおかしくなっていた。嘔吐の癖がついたのか、何もしなくてもときどきえずいてしまう。胃は痛いし、たまに気味の悪い苦しい収縮をした。食道は胃酸によって傷んでいるらしく、胸も痛いのであった。
しかも吐くと体力をかなり消耗する。完全に悪循環であった。琴音は荒れた消化器の苦しさ、唾液と血液にまみれた両手の痛みを感じながらトイレから出て、やっとの思いで歩いて寝室へ戻った。
数日後、琴音は朝、母から思わぬことを聞かされた。
「麻理恵があんたに会いたいんだってよ」
「麻理恵が?」
「今度家に来てほしいって。都合のいい週末に。行くよね?」
「行く」
母は釘を刺してきた。
「向こうの家ではわがまま言うんじゃないよ。藤沢のおじさんおばさんが何か出してくれると思うけど、そこでも何も食べないとか、ふざけたこと言ったら承知しないからね」
母の言うことは聞かなかったことにした。
麻理恵が会いたいと言ってくるのは、全くの予想外だった。麻理恵は私のことを怒っていないのだろうか。琴音は旅行中の記憶を思い返して、麻理恵の本心を想像しようとした。
浜辺を一緒に歩いたときは、怒っていた。でも次の日は普通に話しかけてきて、怒っているようには見えなかった。以前と同じ、元通りの二人の会話だった。
琴音には考えても分からなかった。会いたいと言ってくるということは、怒ってはいないのかもしれない。次会うときに様子を見て、判断しよう。そう心に決めた。
日程は母を通して調整された。琴音は早く麻理恵の気持ちを知りたくて、今か今かと心待ちにしていた。
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