第二十二話「麻理恵事件その後(中学校の思い出)」
中学二年のとき、麻理恵の家出騒ぎと破局、人工中絶手術に琴音は多大なるショックを受けた。麻理恵が彼氏の家に行くことを勧めてしまったのは琴音自身であることから、一連の出来事の責任の一端は自分にあるように感じられて強烈な罪悪感に苛まれるようになった。
琴音は精神的に激しい苦痛を覚えたのち、糸が切れたかのように極端な無気力状態に陥り、外からの情報や働きかけが飲み込めなくなった。ひたすらずっと呆然としていた。
同時に過呼吸の発作が頻発するようになり、授業を受けたり部活をこなすのに支障が出た。パートでは病人のような扱いを受けた。先輩も後輩も優しく気遣ってくれたが、琴音に対する優越感が透けて見えていた。顧問は彼らによって保健室へ連れていかれる琴音をいつも冷たく睨みつけてきた。
一度発作が悪化して呼吸困難に発展してしまい、病院へ連れて行かれた。発作が短期間に頻繁しすぎている上、虚脱に近いくらい気力がないのを医師が重く見たため入院することになった。強烈なストレスにより身体的症状が出たという見立てだった。
琴音は暗い病室を、自分が逃げ続けて最終的に辿り着いた場所だと感じた。部活の顧問も豊子も怖くて、近い未来にはよいことなど一つもなくてどんな選択肢も困難にしか繋がっていないと感じた。学校の課題も役割も投げ出してしまって、後が怖い。病院は避難所でもあり牢獄でもあった。左腕の点滴が痛くて、琴音は入院中はずっとまともに眠れなかった。苦しい意識から逃れられなかった。
麻理恵も中絶のために入院したとき、こんな景色を見たのだろうか、と考えると胸が苦しくてたまらなくなる。ときどきそのまま発作に発展してしまった。
だが入院により静養した結果無気力状態を脱して、まともな感覚を取り戻した。
琴音は一週間で退院した。だが学校には行けなかった。いじめてくる豊子や冷たく厳しい顧問から一時的に解放されていたので、傷つけられないその気楽さを手放せなかった。
理不尽な世界に戻る気がしなくて、退院後三週間くらい学校をサボった。
両親は琴音が麻理恵事件でなぜそこまでショックを受けたのか分からなかったが、入院前の状態の悪さを知っているので学校へ行くよう厳しく言うことはなかった。休む日数が延びれば延びるほど復帰しにくくなっていった。行かなければと思うが心が拒否していた。
勉強は全然しなかった。通っていた塾は麻理恵のことがあって信用できない、と両親にやめさせられていた。授業に追いつけなくなる不安はあったが、強いストレスが待っていることが確実な学校に中々戻れなかった。
ある日、豊子から連絡があった。顧問が琴音に怒っていると言う。腹を立てた様子で、
「とっくに退院したはずなのにいつまでサボるの?」
「いつになったら顔を出すの?」
と部員たちの前で文句を言っているらしい。
琴音は次の日慌てて学校へ行った。久しぶりに着た制服は硬くて重かった。顧問には朝の練習のときすぐ呼び出されて、もう一度でも仮病で部活を休むなら即吹奏楽部を辞めてもらうと言われた。そしてもう決して部活を休まないと一方的に約束させられた。
琴音は、もう二度と過呼吸の発作を起こせないとプレッシャーを覚えた。過呼吸は決してわざと起こしているものではない。意思とは関係なく勝手に起こるものなので、どうしたらいいか分からないが、起こしてはならないのだと強く自分に言い聞かせた。発作が起きそうになったら我慢して気づかれないうちに自力で治さなければならないと考えた。
顧問は琴音の過呼吸の発作を毛嫌いしていた。全く理解がなかった。仮病だと決めつけていたのかもしれない。不登校はともかく、発作は決して仮病ではなかった。だが顧問の考えが変わるはずなどなかった。
そこまでしてでも、琴音が部活をやめないことには理由があった。
琴音は一年生のとき、当時の三年生が、部活をやめた同級生のことを話題にしていて
「部活やめたら高校行けないぞー」
と言っているのを耳にした。このときから琴音は、部活をやめるイコール高校入学が完全に困難になるということだと思い込んでいた。そして中学生の琴音にとって、高校へ行けないというのは人生が終わるのと等しいことのように思われるのであった。
だからどんなことがあっても部活にしがみつくしかなかった。後に顧問から悲惨な仕打ちを受けても、部活をやめなかったのはこのためだった。顧問は琴音に対し、簡単に「嫌ならこの部を辞めてもらって一向に構わない」と言うが、人生が終わるとしか思えない選択をできるはずがなかった。顧問は琴音の人生が終わっても痛痒にも感じないのだろうが、琴音はそれでは困るのだ。
琴音は未来を失わないように、あらゆる理不尽にずっと耐えていた。
琴音は学校の勉強についていけなくなった。麻理恵事件以前は学年で成績上位だったが、空白期間の分、まるごと遅れていた。以前の塾をやめて以来、学校以外の補助もなかった。母が心配して、女性の先生しかいない塾でなければ通わせられないと言っていたが、そんな都合のよい塾は通える範囲になかった。
講師を指名できる家庭教師ならよいのではないかということになり、家庭教師に来てもらうことになった。
しかし、以前は自分より優秀だった琴音の成績を何としても下げたい豊子は、週末の度に琴音を強引に連れ出し、家庭教師が来る時間になると「私と家庭教師どっちが大事なの」と例の天秤にかけさせる攻撃をしてきて、何度も琴音にすっぽかしを強要した。琴音はそんなことはしたくなかったが、豊子に逆らえなかった。
度重なるルール違反により、琴音は家庭教師の派遣会社から、利用を断られてしまった。母は怒って「やる気がないならお金出さない」と言い渡し、琴音はまた学校以外勉強を教わる場所がない状態になった。その間にますます理解が追いつかなくなっていた。
受験の少し前に、担任から成績がよくないことを伝えられた琴音の両親は、仕方なく男性講師のいる塾に琴音を入れた。だが琴音はもう以前の成績を取り戻すことはできなかった。二年生までの成績なら地元のトップ校のH高校も狙えただろうに、今や偏差値が半ばの高校がチャレンジ校だった。
結果として琴音はそのチャレンジ校に落ち、豊子からの妨害で私立のC高校にも落ちてしまったのであった。
麻理恵の騒動の後、琴音の中学時代は最低なものであった。その傷はほとんど癒えていない。
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