第37話 向日葵に『葵』という字が入っているように。


 放課後。


 実乃里も愛音も放課後予定があるということで、今日は一人での帰宅である。


「中村さん、見つけたわっ」


 廊下を歩いていると聞きなれた先輩の声が聞こえてきた。

 そしていきなり後ろから葵に抱きしめられる。


 後頭部に柔らかい双丘が当たり、心拍数が上がる。

 制服越しでも分かるぐらい本当に葵のおっぱいは柔らかくて弾力がある。


「捕まえたわ、中村さん」

「……」


 葵は優に逃げられないように力強く抱きしめるが、決して痛くはなかった。

 葵は安堵の息を漏らす。


「中村さん、話があるの。少し時間をいただいても良いかしら」


 葵は優を離すを優の正面に立ち、真剣な顔で優の瞳を覗き込む。


 葵の吐息が鼻に当たる。


 そこには今まで見たことがないぐらい不安そうな葵がいた。


「……良いですよ」

「ありがとう中村さん。それじゃーついてきてくれるかしら」


 葵の唇を見て、あの夜のことを思い出した優は葵を意識してしまい、視線をそらしてしまう。


 優に断られなかった葵はホッと安堵する。


 その後、葵は優を人気のない中庭へと連れていく。


 葵は周りに誰もいないことを確認すると、躊躇なく地面に土下座した。


「勉強会の夜のことは本当にごめんなさい。きっと中村さんにひどいことをしたんだよね。私酔ってなにも覚えてないの。だからなにに謝れば良いか分からないけどずっと中村さんに嫌われたままは嫌なの。中村さんに許してもらうためならなんでもするわ。だから、仲直りしてください。お願いします」


 葵の土下座は綺麗だった。


 優は年上の土下座謝罪にどう反応するれば良いか分からずただ立ち尽くすことしかできなかった。


 やはり、葵はあの夜のことを覚えていなかった。


 それが悲しかった。


 でも葵は覚えていないなりに誠意を見せてくれた。


「立ってください楠先輩。そんな格好だと話しづらいですよ」

「でも……」

「楠先輩の顔を見て話したいんです」


 葵が顔を上げて優の顔を見つめる。


 その目には涙が浮かんでいた。


 葵もきっと、覚えていないことに苦しんでいたのだろう。


 優は優しく葵に話しかける。


「やっぱり覚えていなかったんですね」


 勉強会の朝の反応を見れば覚えていないことはほぼ分かっていたが、改めて言われるとやはり悲しかった。


「うん」


 葵は素直に頷く。


「あのですね、楠先輩。楠先輩はあの夜、私にキスをしたんですよ。しかも口に」

「えっ……ホントにごめんね……」

「別に謝罪してほしかったわけじゃありません。嫌ではなかったので」

「えっ……」

「ただ、酔っぱらってキスして忘れたことにモヤモヤしてイラついているんです。私はいろんな思い出を楠先輩と一緒に作っていきたいのに楠先輩が大事な思い出を覚えていないから楠先輩にイライラしてたんです。楠先輩、なんでも言うことを聞くって言いましたよね」

「え……もちろん。私にできることならなんでも聞くわ」

「別に酒を飲むなとは言いません。でも酔っぱらってても覚えていてください。私との思い出は。それを約束してくれれば、今回のことは許してあげます」

「絶対約束するわ。二度と中村さんとの思い出は忘れたりしないわ。例え記憶喪失になっても中村さんのことは忘れない」


 そうそう記憶喪失になることはないと思うが、葵はそこまでの覚悟を持って約束をしてくれた。


 それはそれで嬉しかった。


「だから指切りをしましょう。約束と言えば指切りよね」

「良いですよ。絶対に忘れないでくださいよ」

「大丈夫よ。私、もう二度と中村さんとの思い出は忘れないわ」


 葵と優はお互いに小指を出して、指切りをする。


 葵の小指が優の小指に絡み合う。


 細く長く、しっかりしていて全てを包み込む抱擁感があった。


「もう二度と中村さんを悲しませたりなんかさせないわ。もう二度と中村さんの悲しい顔なんて見たくないもの」


 そう言って葵は慈しむように優のことを抱きしめる。


 また葵のおっぱいが優の顔に触れる。


 葵の胸は凄く安心する。


 まるで羊水の中に胎児のようだ。


「楠先輩、私からも謝らせてください。今までさんざん冷たい態度を取ってごめんなさい」


 元はと言えば葵がお酒に酔って優とのキスを覚えていないのが悪いのだが、優も今まで葵に冷たい態度を取っていたことを謝罪したいと思っていた。

 それで葵が傷つくことは分かっていたのだが、心がついてこなかった。


「中村さんが謝ることはないわ。だって私があの夜のキスのことを覚えていないのが悪いもの」

「それでもです。……これで仲直りはできましたよね」

「できたと思うわ。私は全然中村さんを怒っていないもの。でもこの二週間、ホントにきつかったな~。中村さんと話せないことがこんなにも辛いなんて」

「私もです。私も楠先輩と話せないことがこんなにも辛いなんて思いませんでした」


 優自身、葵にモヤモヤしたりイライラもしていたら、葵と話せなかったこともかなり辛かった。


 自分から葵のことを拒絶していたのは自覚しているが、それでも葵と話せなかったことは辛かった。


 それは葵も同じだったらしく、優と話せなかったこの二週間は辛かったらしい。


「それじゃーこれからはその分もたくさん話して、思い出を作るわよ」


 今まで話せなかったらその分、これから話していけば良い。

 そしてこれからもっとたくさん楽しい思い出を作っていけば良い。


 葵の言うとおりである。


「そうですね。これからはもっとたくさん楠先輩と思い出を作っていきたいです」

「私もよ中村さん。今度は絶対忘れないから」


 葵はヒマワリのような笑みを浮かべる。


 その笑みに優は心を打ちぬかれる。


 葵は本当に笑顔が似合う女の子だ。


 向日葵に『葵』という字が入っているように。


「仲直り記念ということで、一緒にクレープでも買いに行きますか。もちろん、私が奢ってあげるわ。私、先輩だから」

「それじゃーお言葉に甘えて。ありがとうございます」

「やっぱり中村さんは笑顔が一番似合ってるわ。好きよ中村さん」

「私も好きですよ楠先輩。だからこれからもよろしくお願いしますね」

「もちろんよ。先輩後輩として……ううん、友達としてよろしくね中村さん」

「こちらこそよろしくお願いします楠先輩。と、友達として」

「うふふ、中村さんと先輩後輩じゃないく友達になれた。えへへ」

「でも私たち、四月に友達になりましたよね」

「そうね。でもあれはまだ先輩後輩の距離感が残っていたわ。言うならば友達のような先輩後輩だったわ。でも今の私たちは違うわ。友達のような先輩後輩じゃなくて友達よ」


 今まで友達のような先輩後輩だった二人だが、今日をもって本当の友達になることができた。


 なんだか不思議な気分だ。


 入学当初は楠葵という少女は高嶺の花だった。


 そんな葵と先輩後輩の関係になり、今は友達になった。


 入学当初の自分に言っても信じてもらえないだろう。


「友達になったんだからこれからは中村さんのことを優ちゃんって呼んでも良いかしら」


 優ちゃん。


 その甘美な響きに優の心は撃ち抜かれた。


「もし嫌だったら今まで通り中村さんのまま呼ぶから」

「いえ、優ちゃんで良いですよ。むしろ優ちゃんの方が嬉しいです」

「分かったわ優ちゃん。それじゃー私のことも葵って呼んでほしいな」


 葵は少し恥ずかしそうに名前呼びを勧めてくる。

 後輩にとって先輩の名前呼びはハードルが高かった。


 いや、今の優と葵は先輩後輩ではない。


 友達だ。


「……葵先輩」

「良いわね。でも葵ちゃんでも良いのよ。だって私たち友達だから」

「さすがにそれはまだ難しいです。今は葵先輩で許してください」

「分かったわ。……まだ難しいってことは今後は大丈夫になるかもしれないってことよね。その時まで楽しみに待ってるね、優ちゃん」


 いくら友達になったとはいえ、年上の女の子をいきなりちゃん付けにできるほど優は陽キャではなかった。


 葵が意味深な笑みを浮かべて優のことを見つめている。


 葵がなにを考えているのか、優には全然見当もつかない。


 その後、優たちは葵の奢りでクレープを食べに行った。


 その時のクレープは甘くてとてもおいしかった。

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