第4話 辺境伯のお邸。

※ 新話ではありません。誤って削除してしまった部分の復旧となっています。




 馬車に乗り込むときは苦労した。なにしろ床が高く、乗りにくいことこの上ない。膨らんだスカートときつく締めたコルセットのせいで、レイがやっとのことで馬車に乗り込んだ時には息が上がっていた。


「ごめんなさい、手間をかけさせてしまって」

「いえ、慣れておられないのですから仕方ありません」


 アイシャは淡々と言うと、レイの隣にひらりと乗り込む。こんこんと御者台と座席を隔てている板を叩くと、馬車はゆっくりと動き出した。


 異常に高い床のせいで激しく揺れることを覚悟していたが、馬車は全く揺れない。一体どんなスプリングを使っているのか、レイは胸がときめく。窓の外が見えないせいで、どこを走っているのかは全く見当がつかない。木々がさやさやとざわめく音や、時折聞こえる鳥の声から察するに、どうやら森の中を走っているようだ。


 スカートをぎゅっと握りしめ、ひとことも口を利かないアイシャの隣で目を閉じていると、徐々に虚しさが押し寄せてくる。私はどうしてこんなところにいるのだろう。絶対に泣かないと誓ったはずなのに、なぜか目の奥が熱くなってくる。何も、好き好んで魔物がうようよする森を走っているのではない。あまりにも理不尽ではないか。


(だめよ、泣けば弱くなるだけだわ)


 今までどんなに辛いことがあっても、自分の力で乗り越えられた。これしきのことで涙を流すなんて。ますます自分を弱くしてどうするのだ。レイはあえて唇を強くかみしめ、しっかりと前を見据える。


「お嬢様」


 唐突にアイシャが口を開き、レイはびくりと彼女の方を向く。


「はい」


 アイシャの湖面のような瞳がまっすぐにレイを見ていた。


「ここから、屋敷への道の中では最も魔物が出没しやすい路を通ります。何があってもお守りしますので、万が一のことが起きても決して大声をお出しにならないように。私に一切を任せて従ってくだされば大丈夫です」


 心臓がびくりと跳ねる。魔物。鋭い牙や爪をむき出しに飛び掛かってくる姿を想像してしまい、レイは慌てて打ち消した。


「ええ……。あなたの言う通りにするわ」

「ありがとうございます」


 アイシャはそれきり口を開くつもりはないようだが、彼女の落ち着きようを見ているだけでも安心できた。魔物の襲撃がないことを祈りながら、馬車は進む。


「もう少しで結界です。そこを抜ければもう大丈夫ですからね」


 アイシャが嬉しそうに言う。


「結界……?」


 レイのその疑問はすぐに解決されることになる。急に耳が詰まった。きいん、と甲高い音が鳴り響き、レイは奇妙な感覚を味わった。


 まるで、薄い膜を破るような。レイの進行方向に膜がたわみ、突き抜けると同時にぷちんと弾ける。あえて言葉にするならこんな感覚。その膜を突き抜けると同時に、奇妙な耳鳴りもやんだ。


「着きましたよ」


 馬車がゆっくりと止まった。


 扉がゆっくりと開き、アイシャに手を取られながら地面に降り立ったレイ。眼の前に広がった光景を見るなり、息を呑んだ。


 見渡す限りの青である。冬の始まりを知らせるシュナの青い花が、一面に咲き誇っていた。人の手が加えられた様子はない。足首の高さに生え揃うシュナは、モンドにも広く見られる花だ。少しだけ心が明るくなる気がして、レイは微笑む。


 青い絨毯の奥にそびえているのが、辺境伯邸だろうか。壮麗に、見た目の美しさを重視して建てられた生家とはまったくの対極にある。蔦が絡まる灰色の石造りで、高くそびえる尖塔。三階建てで、横に広い構造だった。それぞれの階にバルコニーが見えたが、その奥に見える両開きの扉には厚くカーテンがかかっているのが見える。閑散とした、人の気配が全くない屋敷だった。


 黙って邸を見上げるレイを、アイシャがそっと促した。


「ご案内します」


 トランクを両手にぶらさげて歩き出すアイシャに、レイはあわてて追いついた。片方を持とうとしたレイに、アイシャが驚いた眼を向けてきた。静かなブルーの瞳からは、お嬢様はふつう荷物など持とうとしませんよ、という言葉がありありと伝わってくる。


 細い小道を抜けて邸の玄関の前に立つ。玄関ホールに漂う静謐な空気に、呼吸をすることすらはばかられるようだ。レイは玄関に立ち尽くし、ぎゅっと胸の前で手を握りしめる。


 寒さがゆっくりと体に浸透してくるようで、細く息を吐く。天井は高く、はるか上空に取り付けられた窓から白い光が差し込んでいる。お部屋へご案内します、というアイシャにうなずいて一歩を踏み出した。


 石の床を叩く硬い音が思いがけず大きく響き、巨大な洞窟にいるような気になってくる。赤い絨毯が引かれた階段を登り、いくつかのドアが両側に並ぶ廊下に出る。突き当たりまで進むと、アイシャは目の前にある木彫りのドアのノッカーをつかんだ。牝牛の頭をかたどったそれは、柔らかな印象を与えてくれた。


「こちらです」


 一歩中に入ると、レイは目を見張る。まるで洗練されたドールハウスの中に入ったかのようだった。深い茶色の木を基調としたインテリア。アーチ形の天蓋に覆われたベッドに、ワイン色のカーペット。クローゼットは部屋の隅に一つ。ソファは穏やかなダークレッドの布張りで、大きな窓の外は枯れ葉の積もったベランダになっていた。


「わざわざ新調してくださったのですか?」


 レイが呆然と言うと、アイシャはこともなげに肯定する。


「はい。旦那様が、ここだけはほっとできる場所にしてほしいと」


 レイはなんだか泣きたいような気持ちになる。顔も見たこともない、突然嫁いできた婚約者にここまで心のこもった部屋を用意して。辺境伯とは一体どんなひとなのだろう。

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