第二章 アロア

第1話 出会いは突然に。

「ん……」


 頬に当たる冷たい絹の感触。レイはゆっくりと目を開け、身体を起こした。部屋はまだ薄暗く、カーテンの隙間から差し込む光は青白い。どうやら早朝のようで、いつもより早く目が覚めてしまったらしい。


 結局夜になっても伯爵は帰らず、レイはたった一人で夕食を取り、たった一人で眠りについた。この邸の中で顔と名前を知っているのはアイシャただ一人。あまりにも心細く、寂しさと不安が二重にのしかかり、せっかくの食事もあまりのどを通らなかった。


 一瞬ここがどこだかわからなくなるが、見慣れないベッドの天蓋と間取りから、実家の侯爵邸ではないことを思い出す。ここはアロア領主の邸。顔も知らない婚約者の家だ。


(お水……)


 レイはため息をついて、素足のままベッドから降り立つ。親切にスリッパが置かれていることに気付き、思わず頬が緩んだ。テーブルの上の水差しを持ち上げたところで、昨日空にしてしまったことを思い出す。


(どうしましょう)


 早朝からメイドを呼ぶのは申し訳なく、レイは記憶を頼りにキッチンに向かうことにした。寝間着の上からショールを羽織り、髪をとかして背中に流す。どうにかみられる格好でドアを開け、廊下に出た瞬間レイは身震いした。


「さむい――」


 アロアはフローミィで最も北に位置する領土。朝の冷え込みがこんなにきついとは知らなかった。薄い寝間着とショールでは、完全に冷気を遮断することはできない。春先とはいえ、まだまだ冬が明けたばかり。小さく震えながらドアを閉め、廊下を進む。階段を降りようと角を曲がった瞬間、どん、と誰かにぶつかった。


「きゃ」

「すまない、怪我はないか?」


 よろめいて転んでしまった。手を差し伸べられ、レイはゆっくりとその手を取る。


「ええ、大丈夫です。ごめんなさい、ちゃんと前を見ていなくて――」


 顔を上げた瞬間、レイは言葉を失った。レイの手を引いて立ち上がらせてくれた本人も、驚いたように目を見張っている。


「あなたは――」


 月の光を集めたように輝く白銀の髪。すっきりと涼しげな瞳は、紅玉石のような赤色だ。赤い瞳の持ち主など人生で初めて見た。しかし、その驚きをかき消してしまうほど彼は美しかった。


「あの、もしかして伯爵様ですか?」


 レイは遠慮がちにそう尋ねる。彼は胸に手を当て、さながら騎士のようにレイに頭を下げた。


「はい。ランス・ド・スカイラネンと申します――レイ・フォン・ハインリヒ侯爵令嬢」

「や、やめてください」


 レイは戸惑い、いきなり最敬礼をしたランスをとめようとする。ランスは顔を上げ、いぶかしげに眉をひそめた。


「私はしがない伯爵にすぎません。それに比べてあなたは」

「私こそただの貴族子女にすぎません。家督を継いでいらっしゃるランス様とは格が違います」


 ランスはそれでも申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「それに私たちは、その」


 レイは言葉を濁した。なんだか気恥ずかしく、頬が熱くなる。


「わかりました」


 ランスはそう言って微笑む。ラフなシャツ姿だったが、正装に見えるほど彼の動作は折り目正しい。


「こんな朝早くになぜ?」

「キッチンにお水を取りに行こうと思って」

「では私が取ってきます。お部屋で待っていてください」


 レイは慌てて手を振った。


「いえ、もう目が冴えてしまいました。ランス様こそどうして?」

「私は朝の鍛錬をしようと。――そんなことより、昨日は帰れず申し訳ありませんでした。結界がほつれていた箇所がいくつか見つかり、手間取ってしまって」

「――結界、ですか?」


 ランスはうなずき、レイに手を差し出す。


「説明するにはアロアについて知っていただかなくてはなりません。よろしければお話ししましょうか?」

「はい! ぜひ聞きたいです」


 新しい知識を得る瞬間ほど、わくわくするものはない。レイは迷わずその手を取る。目を輝かせるレイを見つめ、ランスは嬉しそうに目を細めた。


 2人は廊下を渡って東の塔へ向かう。ぐるぐると螺旋階段を登り、たどり着いたのはアロアを一望できる窓だった。窓の近くにはふかふかのソファが置いてあり、まるで秘密の小部屋のようになっている。ランスはそのソファにレイを導いた。


「アロアはこのように、森と山に囲まれた土地です」

「わあ、とてもきれいだわ!」


 冷たい風にふかれ、レイはソファの上に膝立ちになってアロアの景色を眺めた。四方を山に囲まれ、裾野に連なるように森が広がっている。早朝の柔らかな光に照らされて、紫色に輝く自然はとても美しかった。そして、その盆地の底に小さな町がある。


「あれは?」

「あれが、アロア最大の町アシュアです」


 最大の町、と聞いて、レイの目が見開かれる。


(随分小さいのね……)


 モンドとは比べ物にならないほどの小ささだ。そんなレイの思いを悟ったように、ランスが笑う。


「モンドに比べれば、とても小さいでしょう? けれど、あの町だけで必要な物は大体手に入ります」

「ぜひ行ってみたいわ」


 本格的に春になれば、アロアは見違えるように輝くのだろう。レイは胸を弾ませながら景色を眺めた。


「森や山の中に、村が点在しています。湖や川も多く、飲み水には困りません。ただ――」


 ランスは言葉を切り、顔を曇らせる。


「ご存じの通り、アロアは魔物が桁違いに多い。不用意に森に立ち入れば襲われる。毎日魔物狩りをしてもきりがない。結界があればなんとか町や村を守ることができるが、永遠ではない」


 まっすぐに領地を見下ろすランスの横顔を、レイは複雑な思いで見つめた。白銀の髪が風に吹かれて揺れている。赤い瞳に浮かんでいるのは責任と、そして苦悩だった。


「結界はアロアの魔法団の面々で保持しているのですが、それも一時的なものにすぎないんです。魔物に繰り返し攻撃されればほつれが生まれる。守り切れない。私の力はまだまだおよばない――」


(ランス様も同じなのね)


 責任感が強く、誰かのために悩んだり苦しんだりできる人なのだ。荷物を抱え込み、自分の腕だけで解決しようとしている。それはあまりにも見知った姿だった。


「ランス様」


 レイは窓枠に置かれたランスの腕に手を置いた。驚いたようにこちらを見るランスの視線に、自分の視線を重ね合わせる。


「つ、妻として、少しでも力になりたいです。傷物で地味で、令嬢らしくない令嬢ですが……。何か私にできることがあったら、遠慮なくおっしゃってください」


 ランスは言葉を探すように視線を落とし、レイの手に大きな手を重ねた。その手のひらは冷たく、硬い。


「ありがとう。あなたのような妻を持つことができて、私は幸せ者だな。どうか、自分のことをそんな風におっしゃらないでください。あなたは傷物でも――地味でもない」


 じんわりと、胸に温かいものが広がっていく。胸がいっぱいになって、なんと答えればよいのかわからずうつむいた。不安が少しずつ、少しずつ消えていく。新たな婚約者がランス・スカイラネンで本当に良かった。レイは心からそう思ったのだった。


 


 

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