第三章 距離

第1話 辺境伯として(ランス視点)

 ランス・スカイラネンは忙しく走らせていたペンを降ろし、机に肘をついた。眉間を抑え、何度か瞬きをする。


「団長、お疲れのようですね」


 同じ部屋で書類の整理をしていた、同僚のクリスが声をかけてきた。


「ああ。ここ最近は毎日疲れているような気がする」


 ランスはため息をついて、早朝に屋敷に届いた各区からの報告書を見下ろした。


『アシュア:淡水魚の漁獲量が減少傾向にある

 モリーナ:麦の収穫量が例年と比べ20パーセント減少

 シュタインゴール:魔物による被害が多数報告され……』


 アロアの各地名が書き連ねられ、その隣に並ぶ数々の文言。どの街も村も問題だらけだ。


(民はこれほど困窮しているというのに、私はなにをしているのか)


 消えない疲れが、体の芯に深くしみついている。父と兄が一度に馬車の事故でなくなってから、ランスは嵐の渦のただなかに置かれることになった。まさかこれほどまでに領地経営が大変とは。いや、大変だということはもちろん覚悟していたが、ランスを一番苦しめているのは領主になったとたんに押し寄せてきた、民のいくつもの悲鳴だった。


 今まで何も知らなかったことを痛感させられた。魔物に襲われた村の惨状や、減り続ける麦の収穫量、アシュアの教会に集めるしかない孤児たち。それらを目の当たりにするために、激しい自責の念を抱いた。


 辺境伯というのは、領主というのは、民を大きな腕と圧倒的な権力で守る存在であらねばならない。けれど、目の前の問題を解決するのに精いっぱいで、それ以上のことができない。問題を解決しても、すぐにまた新たな問題が目の前にそびえたつ。


「団長は、辺境伯の仕事の二つを掛け持ちしておられます。もう何度も申し上げたと思いますが――団長は少し――かなり気負いすぎかと」


 クリスはこげ茶色の目を細めた。


「わかっている。ありがとう」

「団長は一人しかおられないのです。もし団長が倒れてしまわれたら、それこそ大問題だ」


 ランスは長年共に戦ってきた、戦友であり部下である仲間を見つめた。総勢100人足らずの騎士団たち。アーリア率いる魔法団も、よく働いている。彼らも働きづめで、疲れていることには相違ない。


「一度王都から援軍を招いてはどうか、という話はやはりナシなのでしょうか?」


 クリスがとんとんと書類の束を整えながら、何気ない口調で言う。ランスは天井を仰ぎ、そしてろうそくの蜜色の光を受けて影を落とす本棚を見つめる。


「ああ。アーリアが断固拒否するというんだ」

「勝手のわからないよそ者をアロアの防備に入れるつもりはない、ですか?」

「一言一句そのままだった」


 ランスは小さく笑い声を立て、クリスもちらりと笑う。感情の起伏の少ない二人だからこそ、最小限のコミュニケーションで間に合う。それが心地よかった。


「王都には存在しない魔物を、王都の軍に狩らせるのはあまりにも危険だと。けれど、王都の軍だって無能ばかりというわけではないでしょうに」


 クリスが肩をすくめた。ランスは目を戻し、目にかかった髪を払う。


「私は今、民のほかに守りたい人がいる。人では多ければ多いほどいいんだが……」

「レイ・ハインリヒ様ですか? 侯爵家の」

「ああ」


 ランスをからかうつもりで言ったのだが、ランスの予想外の反応にクリスは一瞬言葉に詰まった。騎士団で最強を誇る団長が、妻を迎えるという話を聞いたときは驚いた。王室から急に侯爵家の令嬢を迎えろと命令があった、とランスは戸惑っていた覚えがある。騎士団のメンバーは、その知らせを聞いて言葉を失っていた。


(ハインリヒ嬢といえば)


 クリスは彼女に付きまとう噂を思って眉をひそめた。スワン第二王子に婚約破棄されたという話を聞いたことがある。だから、辺境伯のランスに回されたと。婚約破棄した王子が、元婚約者をわざわざこんな土地に送り込んだこともクリスにはきな臭かった。なぜ王子が婚約破棄したのか、その理由を知らない以上王室が何を企んでいるのか見当もつかない。


 ランスはそれを知っているはずだ。


(いったいどんな人物なんだ……)


 そんなクリスの勘繰りを悟ったように、ランスが紅の瞳を鋭くした。


「その不安は杞憂だ。彼女は王家の差し向けた人間じゃない」

「……そうですか。いつか、話してみたい」


 ランスは魔物を狩るときと同じ顔をしていた。そこまで言いきれる自信があるのだろう。クリスは猜疑心を押し込み、仕事に戻る。


 ふいにランスは立ち上がり、マントを手に取った。


「今日は家にもどろうと思う」

「はい」


 ランスは多く語らないタイプだ。口に出すのは彼の心の中のわずか一部でしかない。しかしクリスにはわかった。ランスは一週間でも二週間でも本部に泊まり込んで仕事をしていた。家で待つひと――レイ嬢に会いたいのだろう。


「わかりました」


 クリスは微笑んだ。仕事に明け暮れていた彼が、少しでも心のよりどころにできる場所があるというのは良いことだ。部屋から出ていくランスの銀髪が輝く。前辺境伯と兄を亡くし、妻を迎えてからランスが柔らかな雰囲気を持つようになったことが、クリスは素直にうれしかった。


 〇


 森を疾走してきたランスは、屋敷の結界を抜けるや否や馬から飛び降りる。ぶるぶると鼻を鳴らす愛馬を厩へ引き、鞍とあぶみを外してやる。汗をぬぐって背中に毛布をかぶせると、ランスは玄関へ向かった。


 蔦が絡まる外壁はまさに要塞のようだった。二階の窓にひかれたカーテンからほんの少し光が漏れていることに、ランスは小さなほほえみを浮かべた。以前はなかった光だ。


 マントを外し、腕にかける。中に入ると、ランスは大きく息をついた。本当に人の少ない屋敷だと思う。もうすっかり寝静まっていて、アイシャが働く音も、クレアやジョンが話す声も聞こえない。人が集まると魔物が集まる。辺境伯邸では、数少ない使用人だけで暮らすのが当たり前だった。


 モンドとアロアでは生活の「当たり前」が180度異なる。モンドから来たレイは随分苦労しているだろう。


 階段を上がり、自室へ向かう。静かな廊下を歩いていると、ふいにレイの部屋のドアが開いた。白い寝間着にショールを肩にかけたレイが姿を現した。すらりと背が高く華奢な彼女の腰に、黒髪がさらさらと揺れている。


「ランス様……」


 ランスの姿を目にして、レイが驚いたようにアメジストの瞳を見開いた。雪のような肌は、寒さのせいか少し赤くなっている。


「お帰りなさい」


 にこりと微笑み、レイは言う。ふいに、彼女を抱きしめたくなる。誰よりも聡明で、優雅な彼女を。ランスにとって、領民と仲間のほかに初めて守りたいと思ったひとだった。どうしてなのかわからない。きっと明確な理由などない。ただ、守りたいと思ったのだ。


「ただいま戻りました」


 ランスが言うと、レイは嬉しそうに口を開く。


「アイシャがスープを取っておいてくれているんです。外は寒いでしょう――」


 つと手を伸ばし、ランスはレイの頬にかかった髪をすくった。ひんやりとしてつややかにランスの手からこぼれていく髪は、まるでシルクのようだった。


「ありがとうございます。アイシャは気が利きますね」

「……」


 はっとしてレイを見ると、彼女は頬を染めて言葉をなくしていた。ショールを胸の前でぎゅっと握りしめ、ランスから目をそらす。


(やってしまったか)


 ランスはレイの髪から手を放す。王子と長年婚約していた割には、レイは少しのふれあいにも、初めて愛を注がれた子供のような顔を見せる。


(本当に初めて、なのか)


 うすうす気づいてはいた。王子が婚約破棄し、危険な辺境に彼女を嫁がせた理由を。それを思うと胸の中に静かな怒りが芽生える。しかしそんな気持ちはおくびにも出さず、ランスは浅く息を吸う。


「あ、えっと……私は、驚いただけで――でも、嫌じゃない、です」


 レイが唐突に言った。最後は消え入りそうな声だった。紫の瞳がふいっとそらされ、レイは唇をきゅっとかみしめる。


(ああもう)


 ランスは前髪を左手で持ち上げた。レイに悟られないよう、そっと瞼を閉じる。


(あなたは、本当にかわいい)

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