第4話 アロアの街で。

 馬車が止まり、ドアが開いた。


「どうぞ、レイお嬢様」


 アリが御者台から飛び降りてレイに手を差し出す。お嬢様、と舌を噛みそうな顔で言われるとどうしても笑いが込み上げてしまう。


「お疲れ様、ありがとう」


 馬車から降りると、賑やかな町の喧騒につつまれた。アイシャが後ろから降りてきてドアを閉める。手早くスカートの乱れを直すと、突っ立っている弟に指示を飛ばした。


「アリ、馬の世話をしてここで待っていて。戻ってきたらすぐに出発できるようにするのよ」

「わかってるよ姉貴」


 アイシャは一瞬目を釣り上げたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻す。レイの方を向いて口を開いた。


「私についてきてください。花屋はすぐそこです」


 アロアの町は想像よりもずっと賑やかだった。まるでドールハウスのように色とりどりのレンガでできた家々。どれもこじんまりしているが、手入れの行き届いた店。パン屋や服屋、魚屋や雑貨屋など、見ているだけでわくわくしてくる。頬を上気させているレイを見て、アイシャがわずかに口元を綻ばせた。


「あれはなに? 見たことがない魚だわ」


 レイが魚屋を指さすと、アイシャはすぐに答えた。


「あれはクイという淡水魚です。アロアは海がない代わりに湖や川がたくさんありますから、モンドでは見ない魚も多いですよ」

「そうなのね! モンドは海に面しているけれど、私の住んでいたところからは遠いの。だから新鮮な魚を食べたことがなくて」

「では、今日は魚料理をお出ししますね」


 そんなことを話しているうちに、花屋に到着したようだ。薄桃色のレンガでできた店で、いろとりどりの花が店先に並んでいる。名前のわかる花もあれば、見たことのない形の花もある。


「いらっしゃいませ! アイシャさん」


 店のドアを開けると、小柄な女性が現れた。アイシャに声をかけ、後から入ってきたレイを見て、彼女は言葉を飲み込んだ。慌ててスカートを持ち上げ、片足を下げる最敬礼の姿勢をとる。


「こんにちは、マーサ。こちらはレイ・ハインリヒお嬢様です。花の種を見せていただける?」

「ハインリヒ……あなた様が、伯爵様の。ええ、ええ、こちらにございますとも」


 マーサは慌ただしく身を翻すと、ばたばたと店の奥に入っていく。しばらくして、マーサは大きな箱を抱えて戻ってきた。近くのテーブルを引き寄せて箱を置き、蓋を開けた。袋に小分けされて、形も大きさもさまざまな種がぎっしりと入っている。


「なんのお花にしましょう?」


 マーサがレイにそう尋ねたが、レイはくちごもる。


「ええと……」


 何を選べばいいのだろう。レイが知っている花の名前はちらほらあったが、その生態までは知らない。買ってしまえばいいのかもしれないが、うまく育てられないに違いない。下調べもなしに衝動的に動くなんて、と後悔し始めたそのとき。


「育てやすいものをお願いします。明るい色の花がよろしいですよね?」


 アイシャが素早く助け舟を出し、マーサがうなずいて箱をあさる。


「……ありがとう」


 本当にアイシャは頼りになる。まるで心強い姉ができたような気持ちで、思わずレイは微笑んでしまった。同時に胸の奥がちくりと痛み、レイは戸惑う。頼りに――はっとして息をのんだ。


(誰かに頼ったの、初めてだわ)


 何事も1人で解決することが当たり前だった。身の回りのことも、何もかも。今までずっとそうだった。頼ってもいいのだろうか。こんなささいなことで、誰かに助けられていいのだろうか。


(こんなの)


 おかしい、と誰かが呟いたような気がした。レイはとっさに胸元をつかむ。アイシャが訝しげな顔をしてこちらを見た。


「こちらなんてどうですかねえ、水やりや土にこだわらなくても育ちますし。伯爵様にプレゼントするにもぴったり!」


 マーサがいたずらっぽく言った。レイがきょとんとしていると、アイシャが笑っているような、たしなめるような複雑な表情を浮かべているのに気づいた。


「そう、ですね。ぴったりです」


 やがてアイシャも唇に笑みを浮かべた。ただ1人状況がわかっていないレイに、マーサとアイシャが同時に手を振って誤魔化した。


「この花はリリアーネというんです。アロアでずっと昔から栽培されている花で、秋になると白い花が咲くんです。とっても綺麗ですよ」


 マーサがおっとりと言い、アイシャも目顔でこれを買えと促してくる。レイが気圧されながらうなずくと、さらに話が進んでいった。結局、リリアーネの種といくつかの種類を買うことになった。


「ええと、20マールが……」


 マーサが代金を雑紙に書き付け始めた。レイは素早く計算を終え、小銭入れの中から銀貨を一つ取り出してマーサの前に置いた。アイシャとマーサが驚いたようにレイを見上げる。


「え……と」


 一歩後ずさると、マーサが気を取り直して銀貨を受け取った。


「計算がお早いんですねえ、本当にお嬢様?」


 一瞬言葉に詰まったが、マーサが心から驚いていることを見ると、レイは苦笑してうつむいた。


 学があることは良いこととされる。男の世界では。しかし女が学を身につけていても、驚かれ、疎ましがられるだけだ。ダンスやお辞儀の仕方、男を喜ばせるお世辞の言い方を身につけるのとは訳が違う。


 店を出て、馬車に戻ろうと歩き出す。


「お姉ちゃん! 拾って!」


 不意に子供の甲高い声が響き、レイは立ち止まった。声のした方をみると、ゆるやかな坂があった。上に登るのに沿って、さまざまな店が並んでいる。ちりんちりんと音を立てながらくだってくるのは、小さなボールだった。


「お姉ちゃん!」


 その後を追いかけて坂を駆け下ってくるのは、小さな少年だ。


「お嬢様?」


 アイシャが不思議そうに尋ねる。ボールはまっすぐにレイの足元に転がってきた。腰を屈めてボールを拾うと、少年が息を切らして追いついてくる。


「はい、どうぞ」

「ありがとう! 中に鈴が入ってるんだ、いいでしょ!」


 へへ、と歯を見せて少年が笑う。ほんの7歳ほどの背丈で、日焼けした肌には点々とそばかすが散らばっている。抜けたばかりの前歯がかわいらしく、無邪気な笑顔がレーナと重なった。


「そうね、もう落とさないようにね」


 手を伸ばして少年の頬を包もうとしたそのとき。


「セラ!」


 その後から女性の甲高い声が降ってきた。


「うげ、シスターだ」


 セラ、と呼ばれた少年は鼻に皺を寄せて坂を見上げる。シスターと言う通り、修道服に身を包んだ大柄な女性が転がるように坂をかけてくる。


「ありがと、お姉ちゃん」


 くるりと回れ右して逃げ出そうとしたセラのサスペンダーを、すんでのところで追いついたシスターが掴む。


「も、申し訳ございません! ほんの子供でして、どうかお許しを……」


 シスターが深く頭を下げ、嫌がるセラの頭をむんずと掴んで押し下げる。


「あ、いいのよ……」

「気をつけてください」


 レイに被せるようにアイシャがいい、セラの顔が初めて強張る。叱られて耳としっぽを垂れさせる子犬のようで、それすらも愛らしい。


「ご、ごめんなさい」


 正午を知らせる鐘の音が、太く重く響いてきた。

 

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