第3話 馬車の中で。
「初めまして。姉貴、この人がレイさんか?」
待ちに待った出発の日。レイはカジュアルな若葉色のドレスをまとい、例の護送馬車の準備が整うのを待っていた。そんなレイに突然声をかけてきたのが、目の前に立つ長身の青年だった。レイは驚きの余り、ものも言えずに彼を見上げる。
「ちょっとアリ! レイさんじゃなくて、レイお嬢様でしょう⁉」
眉を吊り上げてアイシャが怒鳴る。へいへい、とまるで反省していないような声で返事をするアリを、さらに怒鳴りつけようとするアイシャ。
「アリ、今日はよろしくお願いします」
アイシャが口を開くと同時に、レイはそう言って微笑みかける。アリと呼ばれた青年は、アイシャとうり二つの見た目をしていた。アイシャと同じ小麦色の肌に、ブルーの瞳。アイシャと唯一異なる点と言えば、その目に浮かぶいたずらっ子のような光だろうか。
「……双子の弟です。普段は町の鍛冶屋で奉公させているのですが、護衛のために呼びました。礼儀のなっていない弟ですが、どうかお許しください」
苦々しい口調で話すアイシャだが、弟と同じ色のまじめな瞳には確かに、弟を愛おしむ色がある。そんなアイシャを見ているうちに、モンドに置いてきたレーナを思い出す。チャーリーから、『レイお嬢様と違って、学業にはあまりご興味がない様子です』と不満の手紙が送られてきた。社交性に溢れる活発なレーナには、チャーリーも随分手を焼かされているようだ。
鍛冶屋で奉公していると言った通り、アリの肩幅は広く、むき出しにした腕は筋肉が盛り上がっていた。頬に走る一本の傷跡からは、荒海に乗り出す船乗りのような荒々しさを感じる。その外見だけで心強くなってくるほどだ。
「姉貴から突然鳩が来たもんだから、親方丸め込むのに大変だったぜ」
アリは白い歯を見せてにやっと笑った。そしてレイに臆すことなく上から下まで眺めた後、女にしては背が高いですね、と言い放ったアリ。アイシャは怒り心頭といった様子だったが、レイはむしろ気楽にふるまうことができてうれしかった。
「ここまで一人で来たの? 大丈夫だった?」
レイが尋ねると、アリはうなずいて腰にさげた刀に手をやる。
「もちろん、襲ってくる魔物は一匹残らずぶっ……」
「アリ!」
アイシャが眉を吊り上げて弟の言葉を遮った。
「……ふふっ」
思わず吹き出してしまう。姉弟のやりとりは、例の緊張していた心をほぐしてくれた。恥ずかしそうに眉をしかめるアイシャに、アリは肩をすくめる。
「さ、立ち話はここら辺にしてと。行こうぜ」
馬の手綱を取って、ひらりと御者台に乗り込むアリ。目を丸くしているレイに、アイシャが言った。
「弟は馬の扱いに慣れていますので――ご不快な思いをさせたら、私が後でしっかり叱っておきます」
「元気な弟さんでいいじゃない。心強いわ」
コルセットは緩めにしてあるし、スカートも軽い。今回はアイシャの手を借りずに馬車に乗り込むことができた。腰を下ろし、アイシャが御者台につながる壁を叩いて合図を送る。鞭がぴしりと鳴り、馬車が動きだした。
「お嬢様」
アイシャが唐突に呟く。
「弟の無礼は厳しく叱ってやってください」
「アイシャ……?」
アイシャの手に触れようとして、レイはやめる。スカートの上できっちりと揃えられているアイシャの手。いつも通りの冷静なアイシャに見えて、険しい瞳や噛み締めた唇から、複雑な思いを押し殺していることが伝わってきた。
「私たちはアロアに転がり込んだところ旦那様に救われて、この国の文字や言葉を教わりました。私は望んでお邸に置いていただいていますが、弟はあんな性格ですから……旦那様が町で働き口を見つけてくださって」
「そう、だったの」
彼らに、想像以上に複雑な過去があることを知った。アイシャとアリがこの国の出ではないということ。救われた、転がり込んだと言うのだから、国境で審査を受けて入国していないのかもしれない。何かから逃げていたのだろうか? 両親はどうしたのだろう?
(だめよ、詮索するようなまね)
レイは目を閉じて巡らせていた思いを打ち消す。
「……っ、不安なのです」
絞り出すように、アイシャが続けた。
「お嬢様や旦那様は、アリの無礼を許容してくださっています。けれど世の中は違います。貴族の方達やお役所の方が、お嬢様のようにお優しいはずがない。それに私たちは労働者であり異邦人です」
言いたいことがわかった。アイシャは恐れているのだ。いらぬ反感を買ってアリの身に危険が迫ることを。弟を大切に思う姉は、失うのを心から恐れている。
労働者。その立場は軽い。そして異邦人とあらばもっと軽い。
「わかったわ」
それしか言えなかった。アイシャは少しだけ体の力を緩め、ありがとうございますとつぶやく。もっと良い言葉をかけてあげられないのがもどかしい。それからは沈黙が続いた。
「もうすぐでつきますよ!」
アリの大声が聞こえてきた。
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