第3話 王子殿下はそのころ。

 がしゃん、と凄まじい音がして、丁寧な装飾が施された花瓶が木っ端微塵に砕け散った。


「はぁっ……はぁっ」


 スワン第一王子は前髪をかきあげ、床に散らばった破片を見下ろして荒い息をつく。破壊からの快感はわずかだった。荒ぶる気分はちっとも収まらない。


(なんで俺が説教されなくちゃならないんだ)


 あのクソ女、と王子は悪態をつき、さらに破片を爪先で蹴飛ばす。



――婚約破棄!? 何を勝手なことをしているのですか!


 母はなぜか顔を真っ青にして、震える声を張り上げていた。


 だって仕方がないだろう。愛してもいない女と結婚などできるものか。生意気で腹の立つ女と。そして俺は王子だ。王子はどんな望みだって叶えられるべきなのだ。この世でたった1人しか存在しない王子。身分が低い者は、身分が高いものを敬いへつらうべきなのだ。


――ハインリヒ家は侯爵家ですよ。そして彼らが治める領地はあらゆる面において……


 うるさい。うるさいうるさい! 俺は次代の王なのだ。母はそれを理解していない。


 その後も続けようとした母を遮り、王子は部屋を飛び出していた。くだらない説教など聞きたくない。俺に文句を言うな。


 部屋に戻っても苛立ちは収まらなかった。机の上に無造作に置かれている一枚の紙が目に止まる。契約書だ。あの女に書かせた契約書。


 レイ•フォン•ハインリヒ


 美しく流れるような筆跡が嫌でも目に飛び込んできた。


 私は今後一切第一王子に関わらないと誓います。


 一晩必死で考えた文章だった。レイ。つんとすましたあの顔も、嫌がらせになんの反応も示さない冷えた態度も、全てが気に食わない。


――では、失礼します。


 最後に思い切りの絶望を叩きつけたつもりだったのに。あの女のすました顔が歪み、絶望に涙を流す。俺の足にしがみついて、それだけはご勘弁をと泣き喚く。それを期待していたのに。


 眉ひとつ、表情ひとつ動かさずに部屋を出て行ったあの女。普通ではない。気がふれている。


 辺境アロア。森と水に囲まれた、王国最北端の地。人の手が入らない森には魔物がうろつき、人里に現れては人間や家畜を襲うという。痩せた土地には芋や豆しか実らず、農民たちは絶えずなにかしらの病気にかかっているらしい。


 考えるだけで鳥肌が立つ。


 そんな土地に住んでいる者はみな、人の感覚を持っていないのだ。薄汚く家畜のように生き、そして家畜のように死ぬ。価値のない人間だけが集まった土地に違いない。


 生まれながらに豊かで恵まれた令嬢が、どん底の生活を味わう。さて、どうなるだろう。伯爵にも愛されず、使用人にも愛想を尽かされた後には、あの女はどうするだろう。


 きっと俺のところに泣きついてくる。私が悪かったのだと膝をつき、許しをこうだろう。そして俺は耳元で囁いてやるのだ。


 お前のことなど大嫌いだと。などと顔を見せぬと誓ったはずだと。


 残忍な笑みが王子の口元に浮かんだ。荒れ狂っていた心がようやくおさまり始める。


 その瞬間がとても楽しみだ。




 

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