しごでき令嬢は邪魔ですか? 〜婚約破棄されたので、辺境開拓にはげみます〜
七沢ななせ
第一章 終わりの始まり
第1話 婚約破棄、どうぞご勝手に。
ある日の夜、レイは宮殿の執務室に呼び出された。婚約者、第一王子スワンによって。
「レイ・ハインリヒ。今日をもって、お前との婚約は破棄させてもらう」
スワンの声が、執務室に響き渡る。王子の緑の瞳は冷たい光を放ち、はるか上から私を見下ろしていた。あまりのことに、一瞬言葉を失った。最近王子が冷たくなったことは気づいていたが、まさか婚約を破棄されるとは。
「殿下、理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
執務室には王子と私の二人きり。婚約者と密室に二人だというのに、私の胸がときめくことはない。私と王子の仲が冷め切っていることを、私はあらためて実感した。
ふん、と馬鹿にしきった鼻息が王子から漏れる。彼の目線も口調も態度も、婚約者を相手にするものではない。そして、
「愛嬌も愛想もないうえに、胸も尻もない。大した能もない癖に偉そうな態度ばかり。そんなやつを誰が愛すものか」
「……随分ひどい言い様ですね」
この修羅場において、無礼も何もない。レイは今までにないほど冷静で、かつ苛立っていた。
確かにレイは不愛想だ。面白くもない冗談に笑うこともしなければ、社交の場で紳士たちに媚びることもない。認めるのは癪に障るけれど、胸も尻も目立たない。容姿はそれほど悪くないはずだが、王子が侍らせている娼婦まがいの女たちや――浮気相手に比べればかすんでしまう。
「アンネ様との浮――密会を私がお咎めしたことが、気に喰わなかったということでよろしいでしょうか?」
「礼儀をわきまえろ。アンネは俺の運命の人だ。悪く言うことは許さない」
「悪く言ったつもりはございませんが」
スワン王子は、アンネという男爵家の令嬢と密会を重ねていた。レイとの茶会やパーティーはことごとくすっぽかされ、先日の舞踏会ではアンネを堂々とエスコートする始末。見せつけているのか? それともただの馬鹿なのか。見かねたレイが王子に直談判したところ、王子は案の定大爆発。アンネを貶められたと怒り狂う王子を抑えるために、かなりの時間と人数を要した。そして、現在につながるというわけである。
婚約を破棄されること自体は別に問題ではない。――いや、問題かもしれない。レイの実家は侯爵家。レイと王子の結婚は、政治的な要素が複雑に絡み合っている。他貴族からの不満や疑問を最小限に抑え、誰もが納得する形での婚姻。身分的にも世間的にも最適。王子とレイの結婚こそが、それだったのだ。
それが実現できるのは、この王国でレイただ一人だけ。代役が務まるとすれば妹のレーナだけだが、レーナはまだ十二歳。とても王子と結婚させるわけにはいかない。
「アンネ様は男爵家のご令嬢です」
「そうだが」
レイとアンネの身分の違いを示すことで、王子が自分の愚かさに気が付くことを祈る。けれどそれは徒労に終わったようだ。
「何か文句があるのか!」
怒鳴り声をあげた王子の目を見ている限り、彼は何も悟っていないようだ。せっかく道を示したのに――。
(やっぱりこの人は)
心の中でつぶやく。
(正真正銘の馬鹿者ですね。そのうえ無能。可哀そうになってくる)
私が居なくなった後、大量の書類はどうなさるおつもりですか? 社交界の賓客リストも、お食事も、誰が手配するのですか? ああ、これだけは勘違いなさらないでくださいね。何も殿下が心配なわけではありませんから。むしろあなたなんて大嫌いです。
そんな言葉を目の前の間抜け面にぶつけてやりたくなるが、ここは深呼吸だけで済ませておく。余計な怒りをわざわざ買うことはない。
「ここに印を押してもらう」
「なんですかこれ」
「契約書だ。俺とお前が別れた後、二度と俺の前に顔を見せないと誓え」
そういうことには頭が回るんですね。
あきれたが、顔を見せるなどこちらのほうから願い下げである。
「印鑑、印鑑はどこだ」
「二番目の引き出しの中です」
執務室の構造についてはレイのほうが何倍も詳しい自信がある。ここは王子のためにしつらえられた執務室だが、本人が足を踏み入れたのは片手で数えられるくらいだろう。この執務室はもっぱらレイが使っていた。
王子がこなすべき書類の始末や調印、舞踏会に参加する賓客の名前を覚える作業、何から何までレイが肩代わりしていたからだ。本来レイの仕事ではない作業だが、レイは文句も言わずにこなし続けてきた。発端は王子に押し付けられたからだが、こういう事務作業は嫌いではなかったし、なにより王子より仕事ができる自信はあったから。頭だってレイの方がずっといい。
(足し算引き算すら怪しい馬鹿王子ですものね……)
レイがしっかりとそばについてサポートしていれば、友好国の来賓の名前を間違えるという無礼を働く心配もなければ、文章をろくに読まずにサインした挙句桁違いの予算が動くということもない。王子の失敗を防ぐことは国の安定につながる。王子の婚約者としてふさわしいように。未来の王妃としてふさわしいように。そんな義務感から雑務をこなしていたのだが、婚約を破棄された今そんなことはどうでもよくなった。
どうぞご勝手に。
ぽんぽんとくだらない契約書にサインをし、レイは印鑑を置く。
「では私はこれで」
冷たく言い放ち、レイは出ていこうと腰を上げる。
「待て!」
「……なんですか?」
「俺からの餞別だ」
王子の顔が、これまでにないほど嬉しそうに、そして残酷に歪んだ。
「これから三日のうちに王都を出発し、アロア領に行け。ランス・スカイラネン伯爵に嫁ぐことを命じる」
〇
(お嬢様……恐ろしい)
モンド領ハインリヒ邸。ハインリヒ侯爵長女レイ・ハインリヒの自室には、羊皮紙にペンがこすれる音だけが響いていた。
レイが羊皮紙に書きなぐっているのは、フローミィの数学者キルバが唱えたキルバ方程式の解である。これは、他の数学者たちでさえ理解不能とされた超難問。その解法がやっと証明されたのは最近のこと。それをレイは、解法を見ずに自力で解こうとしているのだ。
(なんてスピードだ……)
恐ろしい。次々と数字の羅列が生まれていく。整った数字が目にもとまらぬ速さで並べられる。すでに解を知っている家庭教師は、レイが方程式を解いていくのをただ茫然と眺めていた。
レイは怒っている。怒鳴り散らすこともしないし、不機嫌な表情をしているわけでもない。けれどわかるのだ。レイは怒っている。
家庭教師はただ静かに令嬢のかたわらに控えていた。こういうときは、何も言わない方がいい。レイが五歳の頃から傍に仕え、学問の指導をしてきた。家庭教師はときどき思う。自分はもうお役御免なのではないか。きっとレイは、自分の学力を超えた。
(これでもモンテシアアカデミー卒なんだけどなあ)
モンテシアはフローミィ王国一とうたわれる名門校である。その門をくぐることが出来るのは真の秀才だけ。その合格率はわずか3%。他に例を見ない難関校だった。家庭教師は一応首席で卒業し、その才能を見込まれて雇われた。しかしもはや――彼女に教えることは何もない。レイがモンテシアを受験すれば、100%合格するだろう。そして首席で卒業するだろう。
(寂しいが、そろそろレーナ様に異動するかな)
次女のレーナも、もうすぐで13歳。学習に本腰を入れなければならない。明日にでも侯爵様に願い出ようと思ったそのとき、レイの手が止まった。
「チャーリー」
「は、はい」
「実はね、私があなたに数学や外国語を教わるのは今日で最後なの」
「……?」
沈黙が流れる。レイはペンを握ったままうつむいている。窓から差し込む茜色の光に、ストレートの黒髪が輝いていた。その横顔は見えなかったが、家庭教師はレイが泣いているかのように見えてそっと目をうつむけた。
「私が婚約破棄されたことは知っているでしょ?」
レイが語ったのは、あまりにも残酷な仕打ちだった。レイがこんなにも苛立っていた理由がやっとわかった。
「なんてひどいことを」
「私は気にしてないから」
「私が気にしますよ。その馬鹿王子がお嬢様を能無しって――あ、これは不敬か――いや、この際そんなことはどうでもいい!」
くく、とレイが小さく笑った。
「事実だものね。で、明日にはアロア領に出発するの」
「それもありえないですよ! どうしてお嬢様があんな乱暴な土地に、しかも格下の伯爵に嫁がなければならないんです? どうしてその場で一発かましてこなかったんですか!」
家庭教師はそう意気込んだが、どう想像してもレイが誰かに手を上げているところなど思い浮かばなかった。知的で理性的で責任感が強い。声を荒げることも高まった感情を表に出すこともない。実際、家庭教師はレイが泣くところを見たことがなかった。
家庭教師が知っている姿は、侯爵家の令嬢として、そして王子の婚約者としてふさわしいようにあろうと奮闘する姿だった。自信を美しく保つことも、学習も、王子から押し付けられた事務作業も、こちらが心配になるほど一生懸命にこなし続けていた。しかしレイはたった数分にして、その努力のすべてを否定され壊されたのだ。
許せない。
家庭教師はそのとき、信じられないほど強くそう思った。
「お父様からね、偉い男は女に追い越されることを何より嫌うものだって聞いたの。自分が何よりも偉いと思い込んでいるから、それを否定されることが許せないんですって。だから私、殿下の前ではずっとお勉強のできない従順な女を演じてきた」
レイは静かにペンを置く。彼女がこちらに顔を向けた時、家庭教師はその目から視線を外せなくなった。
レイの深い紫の瞳に浮かんでいたのは、あきらめでも絶望でも涙でもなかった。ただ強く凛とした光――決意と希望の光だった。
「でももう演技はおしまい。これからは私らしさ全開で生きるわ! アロア領? 辺境? 伯爵様? なんだっていいわよ。私の不幸を願ってる殿下を見返して、誰よりも幸せになってやるんだから」
活き活きと言い放つレイ。家庭教師は歳がいもなく目頭が熱くなるのを感じ、慌ててうつむいた。
「それでこそお嬢様です」
雪のような肌も、つややかな黒髪も、アメジストのような瞳も、穏やかな物腰も、一見よくいる世間知らずのお嬢様のように見えるだろう。しかしそうではない。
美しい花には棘がある。
にっこりと不敵な笑みを浮かべる侯爵令嬢は今、しなやかな茎や美しい花びらに隠された棘をむき出しにして、これから訪れる運命を見つめていた。
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