第2話 美しい花には棘があるように。

(お嬢様……恐ろしい)


 モンド領ハインリヒ邸。ハインリヒ侯爵長女レイ・ハインリヒの自室には、羊皮紙にペンがこすれる音だけが響いていた。


 レイが羊皮紙に書きなぐっているのは、フローミィの数学者キルバが唱えたキルバ方程式の解である。これは、他の数学者たちでさえ理解不能とされた超難問。その解法がやっと証明されたのは最近のこと。それをレイは、解法を見ずに自力で解こうとしているのだ。


(なんてスピードだ……)


 恐ろしい。次々と数字の羅列が生まれていく。整った数字が目にもとまらぬ速さで並べられる。すでに解を知っている家庭教師は、レイが方程式を解いていくのをただ茫然と眺めていた。


 レイは怒っている。怒鳴り散らすこともしないし、不機嫌な表情をしているわけでもない。けれどわかるのだ。レイは怒っている。


 家庭教師はただ静かに令嬢のかたわらに控えていた。こういうときは、何も言わない方がいい。レイが五歳の頃から傍に仕え、学問の指導をしてきた。家庭教師はときどき思う。自分はもうお役御免なのではないか。きっとレイは、自分の学力を超えた。


(これでもモンテシアアカデミー卒なんだけどなあ)


 モンテシアはフローミィ王国一とうたわれる名門校である。その門をくぐることが出来るのは真の秀才だけ。その合格率はわずか3%。他に例を見ない難関校だった。家庭教師は一応首席で卒業し、その才能を見込まれて雇われた。しかしもはや――彼女に教えることは何もない。レイがモンテシアを受験すれば、100%合格するだろう。そして首席で卒業するだろう。


(寂しいが、そろそろレーナ様に異動するかな)


 次女のレーナも、もうすぐで13歳。学習に本腰を入れなければならない。明日にでも侯爵様に願い出ようと思ったそのとき、レイの手が止まった。


「チャーリー」

「は、はい」

「黙ってたけど、私があなたに数学や外国語を教わるのは今日で最後なの」

「……?」


 沈黙が流れる。レイはペンを握ったままうつむいている。窓から差し込む茜色の光に、ストレートの黒髪が輝いていた。その横顔は見えなかったが、家庭教師はレイが泣いているかのように見えてそっと目をうつむけた。


「私が婚約破棄されたことは知っているでしょ?」


 レイが語ったのは、あまりにも残酷な仕打ちだった。レイがこんなにも苛立っていた理由がやっとわかった。


「なんてひどいことを」

「私は気にしてないから」

「私が気にしますよ。その馬鹿王子がお嬢様を能無しって――あ、これは不敬か――いやそんなことはどうでもいい!」


 くく、とレイが小さく笑った。


「事実だものね。で、明日にはアロア領に出発するの」

「それもありえないですよ! どうしてお嬢様があんな辺境に、しかも格下の伯爵に嫁がなければならないんです? どうしてその場で一発かましてこなかったんですか!」


 家庭教師はそう意気込んだが、どう想像してもレイが誰かに手を上げているところなど思い浮かばなかった。知的で理性的で責任感が強い。声を荒げることも高まった感情を表に出すこともない。実際、家庭教師はレイが泣くところを見たことがなかった。


 家庭教師が知っている姿は、侯爵家の令嬢として、そして王子の婚約者としてふさわしいようにあろうと奮闘する姿だった。自信を美しく保つことも、学習も、王子から押し付けられた事務作業も、こちらが心配になるほど一生懸命にこなし続けていた。しかしレイはたった数分にして、その努力のすべてを否定され壊されたのだ。


 許せない。


 家庭教師はそのとき、信じられないほど強くそう思った。


「お父様からね、偉い男は女に追い越されることを何より嫌うものだって聞いたの。自分が何よりも偉いと思い込んでいるから、それを否定されることが許せないんですって。だから私、殿下の前ではずっとお勉強のできない従順な女を演じてきた」


 レイは静かにペンを置く。彼女がこちらに顔を向けた時、家庭教師はその目から視線を外せなくなった。


 レイの深い紫の瞳に浮かんでいたのは、あきらめでも絶望でも涙でもなかった。ただ強く凛とした光――決意と希望の光だった。


「でももう演技はおしまい。これからは私らしさ全開で生きるわ! アロア領? 辺境? 伯爵様? なんだっていいわよ。私の不幸を願ってる殿下を見返して、誰よりも幸せになってやるんだから」


 活き活きと言い放つレイ。家庭教師は歳がいもなく目頭が熱くなるのを感じ、慌ててうつむいた。


「それでこそお嬢様です」


 雪のような肌も、つややかな黒髪も、アメジストのような瞳も、穏やかな物腰も、一見よくいる世間知らずのお嬢様のように見えるだろう。しかしそうではない。


 美しい花には棘がある。


 にっこりと不敵な笑みを浮かべる侯爵令嬢は今、しなやかな茎や美しい花びらに隠された棘をむき出しにして、これから訪れる運命を見つめていた。

 

 

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