0428「落ちる、落ちる、叫びながら……」
大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」のなかに収められている一つの短編。
この連作は、大江健三郎の長男についての物語と、簡単にいうことができると思う。だが、それについて巡る表現というか、引用だらけの技巧だとか、話の脈絡が一見ないように見えるところとか、本当にもう、初めて大江健三郎の小説を読んだ人にとっては、なにがなんだかというような、構成になっている。
私は大江健三郎の文学を少しも嗜んだことがない(読んだことがあるものといえば、死者の奢り、奇妙な仕事、あたりになる。しかもこの作品は非常に似通っていて、大江の書き直すという特性を考えれば、死者の奢りは奇妙な仕事を書き直した作品という位置づけであるとも考えられる。というか、そういったことを、自選集のあとがきに記してあった。)ので、当然のように困惑した。
イーヨーという呼び方をされる長男に対しての物語であることは軸としてあるのだが、引用をしたかと思うと、話の方向が急にそちらの世界に入っていってしまって、抜け出した最後には、定義だとか、なんだかとか、ふんわりとした抽象的な一致が提示されて(無垢の歌、経験の歌にて)、もうわかりにくさのなかにある、高尚な雰囲気というものが、立ち込めている小説のように感じた。
いや、そもそも小説というのが一般的にはエンタメの要素を含んでいることが常な現代では、そのような形容は正しくないのかもしれない。私小説とでも呼んでおかないといけないのかもしれない。もしくは、純文学とか?
わからないけれども、とにかく。いまの人にとっては、全くの未知の世界。それは私にとっても同じこと。でも、言葉の隅々まで丁寧なものを感じられて、読んでいて心地いい。ゆっくり一字一句よんでいたいと思えるような、そんな響きを持っているし、そのように読まないことには、その複雑な文章の重ね重ねの構造などを理解して読み進めることはできない。―なんかも多用されているし。
ゆっくり読むことが絶対必要である作家さん。ノーベル賞作家さんでもあるわけだから。そりゃそうか。文学性というものの塊であるわけだし。
「落ちる、落ちる、叫びながら……」においては、おそらく引用はとてもすくなかった、というかなかった?という感じの記憶。イーヨーが水泳の練習をお父さんとするという風な構成で、そのなかに色々とM氏の影響を受けた集団やら、なにかの先生やらが、入り込んきて、最後にはイーヨーが……
と、そんなお話だった。今回のストーリー構成は比較的、わかりやすいものだったように思う。イーヨーはむしろ、今回は影ような存在になっていたようにも思う。メインはその周りの外部の、人間であったように思う。(もちろん、最後にはしっかりとイーヨーにハプニングが起こるわけなんだが。)
それと、イーヨーのその数少ないセリフには、なにやら簡単でありながら、謎めいている、そんな不可思議な哲学性の何かを感じる。それが障害児というところからきているのか、それとも、また違うところから来ているのか。どうなんだろう。そのあたりについても、なにか考えていけたらいいな。
また、書く。
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