0423「渚のアルバム」(山本直樹先生)

 ストーリーの意味があまり理解できなかった。というか全然、理解できなかったかもしれない。作者である山本直樹先生もあとがきに、『特に意味のないエロマンガ』と書いてあるように、作者ですらその意味ついて具体的な内容を記述することは難しいのかもしれない。


 最近、大学の講義で久しぶりに間テクスト性という概念に触れて、その在り方を考えさせられた。ウィキペディアにあるように、間テクスト性という概念は使用する人によって、様々な意味において用いられるものだという。そのなかでも私は文学的な観点によるロラン・バルトの≪芸術作品の意味は作品自体にあるのではなく、鑑賞者にある≫にその使用感を求めている。


 この定義を借りるならば、山本直樹先生はその意味解釈をかなりの部分で読者に任せているということができる。創作において、作者でさえもその明確な意味を理解せずに、創作なんてものができるのか、と素直に私は感心している。


 それでは具体的に私はどのような意味をこの『渚のアルバム』に見出したのか。それを間テクスト性により、ほかのテキストの言葉も引用しながら価値を見出していくというさ作業ができるほど、私は読書力がないので、実施する気力もないのだが。どうしたものだろう。


 そういえば、書評などほかの人が作品について書いている読み物に目を通すと、必ずと言っていいほど、著名な方の言葉や作品やらを借用しているのに気が付く。書評はどうやら、この間テクスト性という概念に多くをゆだねているような気がしている。私はどうだろう。あまり、そのような評価というものに実感がわかない。良さがわからないとでもいうのだろうか。なんだか、私はとくにかく、自分の心がどう動いたとか、きわめて主観的な観点から作品(哲学書であってさえもそう)と向き合うので、なんだか間テクスト性という概念に依拠する書評の在り方(それが悪いとは思っていないが)に疑問を感じる。その方法性に溺れるだけで、いいところを全く感じられない書評とでもいうのだろうか。やはり、書評にはそのような客観性よりも主観性という、どう感じたのかという部分が、読み物である性質上、どうしても必要なのではないかと思うのだ。


 うん。なんだか、下手なことを書いているような気もするんだけど。あまりにも意味を感じとれないにも関わらず、なんだか良いなと思える『渚のアルバム』に出会ってしまったから、このようなことを考えてしまった。


 書評の在り方というか、それについての考えを書いた書物というのはたくさんあるだろうから、そのあたり漁ってみようかしら、と思う。

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