★駄文のセンス「中動態の世界~意志と責任の考古学~」

 p147まで読んで、少しだけ哲学という学問領域について、その深化の手段への想いを書いてみた。ただそれだけ。明らかな駄文ではあるが。こういうメモ書きというか、書物を読んでいて書いた駄文。それを今後は駄文のセンスと命名して、ところどころに挟んでいこう思う。めっちゃ軽い文章。寝ながら書いたイメージ。


 以下、駄文のセンス。


★(私的な文章)哲学は世間でより多義的な意味合いを持つようになった、要するに勘違いを含むようになった『語』に対する再定義を行う学問でもあるのかもしれない。そしてその世間とは、哲学領域のなかでもあり、そしてまた通常の意味合いの世間一般でもある。哲学領域による多義性とは、しばしば古典的書物の解読や翻訳、解釈などから生まれることであり、世間一般の多義性とは、より日常的に使用されている自然言語という枠組みのなかで生まれるものである。それぞれ性質は異なるものの、『語」に対する解釈はこのように積み重ねられ、またそれ自身の解釈が多義性を生み出していくのである。そして多義は歴史に記録されてはいるものの、その時代における選択(過去の諸要素に基づく)により『哲学』という学問体系はその『一本のレール』という幻想を走り続けているのである。


★p133「過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりとみなされる純粋な意志に取り違えられてしまう」、「意志はあとからやってきてその選択に取り憑く」――(私的な文章)ともあるように、意志という概念は責任というものとセットに考えられるとき、それは人を罰するための大義名分としての意味合いが強くなってくる。そしてそれは社会を構築するうえでとても便利な概念になってくる、そんな話に本書は持っていきそうな予感。


★p63「完了という時制に注目するならば、それらが示している事態は、ある時点で何かが起こり、それによって引き起こされた状態がいまも続いていることだと説明できる」――(私的な文章)これはありがたい。高校のときの英文法の記憶が呼び起されたよ。それと思ったことなんだけど、母国語ほどその文法体形を理解していない傾向にあるなと。英語はむしろ意識しすぎて、それを頭のなかに浮かべながら読んでいるまである。


★(私的な文章)暴力と権力について定義を一度明確にしておく、ということがなされているようだが。その定義の明確化はいかにしてなされるかということを考えてみると、その唯一の根拠は歴史的に、時間経過的に私たちが獲得してきた、その『語』がもつ『意味の感覚』ではないだろうか。なぜ、暴力がことごとく打ちのめし、される側には受動性の極しか残されていないと定義できるのか。一方でなぜ、権力という語は、行使される側に受動性と能動性のどちらの性質をも持ち得てしまうと、定義できるのだろうか。この場合、論じたいことの先にある言いたいことのために、語の都合のよい定義、○○バイアスという言葉が最近ははやっているが、そのような作用は果たして完全にゼロであると言い切れるのか。言葉に対して、その自然に獲得されてきた感覚としての意味を、ベースにして新たなる言葉の輪郭をつくり、その論じたいこと言いたいことが作り出している世界観、要するに新しい哲学の風潮のなかで、定義していないか?

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